第千百七十八話 ファリアとファリア(五)
室内には、静寂が横たわっている。
夜の静寂。
沈黙に近い。
リョハンの空中都は、リョフ山の頂にある都市だ。周囲にはなにもなく、生息する動物もきわめて少ない。風が吹かないときの静寂は、地上よりも余程静かだった。ただ、風が吹くとそうもいっていられないくらいにうるさいのだが。
いまは、風が止み、圧倒的なまでの静寂が、場を支配していた。
戦女神の霊域などと名づけられた、ファリア=バルディッシュの寝室。室内はがらんとしていて、寝台以外、これといった調度品もなにもなかった。それもそのはずだ。この部屋は、大ファリアの寝室にすぎないのだ。居室は別にあり、戦女神、大召喚師としての仕事などは、その部屋で行う決まりになっていた。
この部屋は、大ファリアが寝起きするためだけの場所だった。
「ファリアちゃん。遠いところ、よく来てくれたわね。本当にありがとう」
「ありがとうだなんて……そんなこと」
ファリアは、祖母の笑顔が妙に弱々しく見えて、一瞬、視線を逸らしてしまった。そしてそのことを後悔しながら、視線を戻す。大ファリアの表情に変化はない。気にも止めていないのがわかる。強く、いう。
「当たり前のことです」
目をそらしてしまったのは、その表情を見ているだけで大ファリアの容体の悪さがはっきりとわかってしまう気がしたからだ。顔や首を見れば彼女が痩せ細っていることは一目瞭然であり、体調が良くないという事実を叩きつけられる気分だった。クルセルクで会ったときとは比べ物にならないほど、全体的に小さくなっているように見えた。
もう、戦場に立つことはできないかもしれない。
祖母が、小首を傾げる。
「そう?」
「だって、お祖母様の体調が悪化したって聞いたら、いてもたってもいられなくなるでしょう?」
「……そうね。わたしも、そうだったかも」
「お祖母様のお祖母様……ですか?」
「ええ」
大ファリアが、静かにうなずく。
ファリア=バルディッシュの祖母がどのような人物だったのか、ファリアはほとんど知らなかった。大ファリアの母、つまり曾祖母の話すら曖昧に記憶している程度だ。それは、大ファリアがあまり話してくれなかったことも関係しているのだが、そこには、過去よりも未来に目を向けるべきだ、という大ファリアの考えがあるらしい。
「ふふふ。ファリアちゃんには想像もつかないかしら。厳しいひとだったわ。でも、とても優しいひとだった。だれよりも自己に厳しいくせに、だれよりも他人に優しいひと」
「お祖母様みたいですね」
「そう? そういってもらえるのなら、本望よ。わたしは、お祖母様みたいなひとになりたかったから」
「ずっと、お祖母様に憧れていた。あのひとは、リョハンのことを常に考えていた。どうすればリョハンがよくなるのか。リョハンの人々がなにを求め、なにを考えているのか、常に思い巡らせている、そんなひとだった。だからわたしも、あのひとの真似をした。真似をして、気づいたらそれがわたしになっていたわ」
祖母のいっていることが、実感として理解できる。
その言葉が指し示す人物こそ、ファリア=バルディッシュという人物そのものだったからだ。祖母は昔からずっとリョハンのことだけを考えていた。それこそ、幼いファリアと遊んでいるときでさえ、どうすることがリョハンのためになるのかを考えていたし、そのことを子供のファリアに尋ねてきたりもした。幼すぎてなにもわからないファリアは、首をかしげるばかりだったが。
「戦女神だとか、大召喚師だとかいわれるようになっても、わたしの本質は変わっていないつもりよ。ずっと、お祖母様に近づく努力をしているだけなのよ。ただ、それだけのことなの」
「近づく努力……」
「まだ、届きそうにないけれどね」
祖母は、小さく苦笑した。
彼女がいった通り、ファリアには、本当に想像もつかない話だった。
いまの大ファリアで届かないほどの人物など、想像のしようもない。どれほど献身的で、高潔で、慈悲深い人物だったのだろう。大ファリアが憧れ、目標とする人物なのだから、それくらいの高みにあって当然なのかもしれないが、祖母の高みに手さえ届かないファリアからすれば、途方も無い話に思えてならなかった。
心情を、吐露する。
「わたしは、お祖母様に近づくこともできていません」
「……いいのよ、ファリアちゃん」
「ですが――」
「いいの」
祖母の少し強い口調に、ファリアは返す言葉を失った。
大ファリアは、少し間をを置いてから、ゆっくりと語りだした。穏やかに、柔らかく。
「皆、あなたが戦女神の座を継ぐものと想っているわ。当然よね。あなたにわたしの名を与えたのは、わたしだもの。もちろん、メリクス君も、ミリアちゃんも、賛同してくれたし、喜んでくれさえしたわ。ファリアの名は、このリョハンにおいて特別な意味を持っていることを知った上で、ね」
特別な意味。
それこそ、ファリア=バルディッシュ自身が作り上げた価値だ。彼女が、その人生の中で築き上げてきた価値そのものだ。大召喚師。戦女神。リョハンの守護女神としての立場も意味も意義も、すべて、彼女自身が生み出したものなのだ。
ファリアが生まれたころには、その名は極めて特別で、神聖なものですらあったという。
ファリアという名前を言葉にすることすら憚られていた時期があるというのだから、神聖視されていたのは間違いない。そんな神聖な名前を名乗ることになったファリアが生まれながらにある種の特別扱いを受けていたのは、当然といえば当然だったのかもしれない。無論、ファリア=バルディッシュの孫娘であり、ファリア=バルディッシュ自身が命名したからこそ受け入れられたのであって、ほかのだれかが自分の子に勝手に名付けた場合、どうなったものか想像に難くない。
「わたしも、当時は、あなたにすべてを継がせるつもりだったわ。だから、あなたにファリアの名を受け継がせた。名に込められた力や想いが、あなたを戦女神に相応しい人物へと導いてくれると信じたのよ。そして、それそのものは間違いではなかった。あなたは、いずれ戦女神の名に遜色ない人物となるでしょう」
「わたしが……ですか?」
ファリアは、祖母の評価の高さに喜びを感じるよりも恐れ多いと想った。自分が戦女神に相応しい人間になれるなどと想ったことはなかった。周囲の期待に、リョハンの人々の期待に応えようとはした。したが、それが結実するかどうかは別の話だ。そもそも、目標とする人物の高みは、遥か遠い。二十数年そこらの人生で追いつけるわけもない。
「自信がないの? でも、大丈夫よ。あなたは立派にやっていける。わたしが保証するわ。メリクス君とミリアちゃんの子供だもの。わたしの最愛の孫娘だもの。なんの心配もいらないわ」
祖母のまなざしは、いつだって優しい。その際限のない優しさこそ、彼女を女神たらしめるのだと理解できる。そして、それはファリアには真似の出来無いものだ。他人に優しくするのは簡単なことではない。できるだけそうあろうとするが、祖母のようにはいかなかった。人生経験の差、だけではない気がしてならない。
根底に流れるものが違うのではないか。
「クルセルクであなたに逢ったとき、あなたと周りのひとたちとの繋がりを見たとき、わたしは想ったのよ。ああ、間違いじゃなかったんだな、ってね。あなたをファリアと名づけて良かったって。あなたは、ファリアの名を自分のものにしはじめているのよ」
「わたしの……名」
反芻する。
ファリアという名。
その名がこのリョハンにどれほど偉大で、神聖なものなのかは、物心付く前から何度となく聞いて知っている。その名の重圧に押し潰されそうになったことだって、何度もある。それこそ、武装召喚術を学んでいるときなど、名と実力を比べられることもあった。そのたびに絶望的な現実を叩きつけられたものであり、死に物狂いで術を学んだ。そうしなければ、名を汚すだけのくだらない存在に成り果てるからだ。そういう意味でも、この名には感謝していた。努力を怠らず、鍛錬を忘れず、自分を磨くことに専心することができたのは、ファリアという名前のおかげだった。
名を汚したくないという一心が、いまの彼女を作り上げたといっても過言ではなかった。
大ファリアが、穏やかにうなずいてくる。
「そうよ。わたしが消えたあと、ファリアといえば、あなたになるわ」
「消えたあとだなんて、そんな不吉なこと、いわないでください」
「ふふ。優しいのね、ファリアちゃん。そういうところも、好きよ」
「お祖母様……」
「でもね、現実をちゃんと見ないと駄目よ。わたしの命の時間は、もうすぐ終わるもの。その事実を理解した上で、話を聞いて」
ファリアは、なんとも言いようがなかった。祖母の言葉は、頭では理解できる。しかし、心では納得出来ない。納得などしたくないという気持ちが湧き上がってくる。だが、祖母は、ファリアの心情など理解していないかのように話を続けるのだ。
「さっきもいったように、皆が、あなたを戦女神の後継者と見ているわ。護山会議も、護峰侍団も、四大天侍の皆だって、そう見ている。空中都、山間市、山門街に住む多くのひとびとも、ね。それは、わたしがあなたを後継者に仕立てあげようとしたことに始まるのよ。わたしは、あなたに戦女神の座を継いでもらいたかった」
祖母の告白が、胸に迫る。
戦女神の継承。
ファリアとしても、考えなければならない問題だった。
だれもがそれを期待しているということも知っていたからだ。リョハンの人々、護峰侍団、護山会議、四大天侍さえも、あのマリクですら、ファリアが戦女神の役割を受け継ぐことを認め、期待している。リョハンの人間だけではない。リョハンを離れた《協会》の武装召喚師ですら、ファリアが次代の戦女神になると信じている。
期待には応えたい。
しかし、その期待に応えるということは、ファリアの自身の夢を諦めるということにほかならない。ガンディアに戻り、セツナの側で、彼を支え続けるという些細な願望さえ手放さなければならなくなる。もちろん、わかっている。わかってはいるのだ。個人の夢や希望よりも大事なものがあるということくらい、わかりすぎるくらいにわかっている。為政者とはそういうものだし、自分自身の願いや望みよりも国や人々のために行動するのが、ひとの上に立つものの義務であり、宿命なのだ。
そう、運命づけられてきた。
「それがリョハンのためだと、そのときは信じていたから」
「リョハンのため……」
祖母の言葉が重く、響く。
腹の底から体を震わせるように響き、ファリアの意識を包み込む。リョハンのため。そう、ファリア自身も同じだ。リョハンのため。このリョフ山に住むひとびとのために、女神の後継者にならなければならなかった。燦然と輝く戦女神の名を奥面もなく名乗り続けたのは、そのためだ。ファリア=バルディッシュの役割を受け継ぐものとしての自覚が、ファリア・ベルファリア=アスラリアを名乗らせた。
その覚悟と決意が揺らいだのは、いつだったのか。
父が死に、母が囚われたときか。
復讐を胸に秘め、リョハンを後にしたときか。
(違う)
胸中で、首を横に振る。
復讐は、それこそ、戦女神を受け継ぐためにも最低限必要なことだと考えていた。リョハンに混乱と被害をもたらした魔人アズマリ=アルテマックスの討伐ほど、戦女神の後継者に相応しい功績はない。だからこそ、アズマリアをこの手で討つ必要があったのだ。だから、そのときではない。もっとあとだ。ガンディアに流れ着いて以降のことだ。
ガンディアに流れ着いてからずっとのち。
きっと、セツナと出逢い、彼のことを知ってしまったからなのだ。
ひとを好きになってしまった。
「そうよ。リョハンのため。リョハンには、戦女神が必要だったわ。独立戦争から今日に至るまで、リョハンという空中楼閣を現実のものとして、維持し続けるには、支柱が必要だった」
「それが戦女神なんですね」
わかりきったことを聞く。
(わかりきったこと)
ファリアは、自分がなにを考えているのかがわからなくなった。祖母の穏やかで凛としたまなざしに見つめられながら、苦悩する。
「ええ。だから、わたしは戦女神を演じ続けた。リョハンの人々の心の支えとして、心の拠り所として、リョハンを支える柱として、在り続けた。後継者を探したのもそのためよ。リョハンが存在し続ける限り、戦女神もまた必要だと考えてしまったから」
「それで、わたしを?」
「あなたが生まれたとき、感じるものがあったの。直感ね。そして、その直感を天啓と信じたわ。天が、あなたを選べといっているんだって、ね。だからあなたにわたしの名を与えた。ファリアという名が、あなたを戦女神に相応しい人物に育て上げることを信じて」
祖母の口から語られる言葉を飲みこんだファリアは、生まれ落ちた瞬間からそこまで期待してくれていたのか、と、信じられないような気持ちでいっぱいになった。驚きと喜びが胸に満ちる。どう反応するべきか迷ううち、祖母が目を細めた。
「でも、間違い」
「え?」
「この一年あまり――ううん、戦女神と呼ばれるようになってからずっと考えていたことの結論が、それよ」
「間違いが……ですか?」
「ええ。間違いなのよ」
ファリア=バルディッシュは、静かに断言した。
「戦女神という存在を頂点に戴くリョハンの構造そのものが、間違いなの」
穏やかな声音の中にも、決して揺るがぬ力強さが感じられて、心が震えた。
ファリアの目の前には、確かに戦女神そのひとが座っていたのだ。