第千百七十四話 ファリアとファリア(一)
ファリアがマリク=マジクとともにガンディア領ザルワーン方面龍府を出発したのは、大陸暦五百二年十一月二十六日のことだった。
アバード王都バンドールでの戴冠式を終え、龍府に帰り着いた日のことであり、しばらくは龍府に滞在してゆっくりできると考えていたファリアには、まさに寝耳に水の話だった。しかし、マリク=マジクの話を聞けば、いてもたってもいられなくなるのは当然の話であり、悩み抜いた末、セツナの後押しもあって、マリクとともにリョハンに行くことにした。
これがもし、陸路リョハンを目指すことになったなら、行かないという選択をしただろう。
ガンディアからリョハンは、あまりにも遠すぎる。
陸路ならば、リョハンに辿り着くまでに何ヶ月かかるのかわかったものではなかった。陸路ということは、いくつもの国境を跨ぐ必要があり、そのたびに足止めされる可能性も低くはない。皇魔に遭遇することもあれば、野盗山賊に出くわすことだってあるだろう。皇魔や賊徒如きに遅れを取るファリアではないが、だからといって遅々と進まない長旅を満喫するつもりもなかった。
今回、リョハン行きに賛同したのは、すぐに行って戻ってくることができるという前提があるからだ。
マリク=マジクがクオール=イーゼンより引き継いだレイヴンズフェザーの能力があれば、片道数ヶ月を要する距離を極端に短縮できた。翼型の召喚武装の基本能力である飛行能力と、レイヴンズフェザーの能力である超加速を組み合わせることで、想像を絶するほどの移動速度を得ることができるからだ。ただし、一日中移動していられるわけでもない。レイヴンズフェザーの能力・超加速は、肉体と精神への負担が大きく、消耗もまた激しいからだ。移動と休憩を繰り返す必要があった。それでも、二十六日のうちにアバード国境を越え、ジュワイン国内に到達しているのだから、レイヴンズフェザーの能力さまさまといったところだろう。
かくして、ファリアは、漆黒の翼を広げたマリクに掴まって、ガンディア領ザルワーン方面龍府からまっすぐ北に飛び、アバードを抜け、ジュワイン、アルマドールの国境をつぎつぎと飛び越えていった。遥か上空を飛翔することで、国境越えのたびに許可を取る必要がなくなり、そういう意味でも彼女のリョハン行きは極めて楽なものになった。休息中、皇魔と遭遇することがあったものの、ファリアひとりで撃退することができたし、それからは都市内で休息を取るようにすると、皇魔に襲われるという危険からも解放された。
アルマドールを北に抜けると、そこから先はすべてヴァシュタリア共同体の勢力圏であり、ファリアは、多少の緊張を覚えた。リョハンとヴァシュタリアの関係は、必ずしもよいものではない。ヴァシュタリアとしては、勢力圏内に存在する異分子であるリョハンなど認めたくはないし、常々消し去りたいと思っているのだが、ヴァシュタリアの戦力ではリョハンを滅ぼし切ることは難しいため、独立自治を認め、相互不干渉の約束を交わすに至っている。
リョハンもヴァシュタリアと関わらないようにしているし、リョハンの人間がリョハンの外に出ること自体稀だった。訓練課程を終え、一人前になった武装召喚師が、《大陸召喚師協会》に属し、武装召喚術を広めるため大陸各地に旅立つことくらいだろう。通常、リョハンに生まれた人間は、リョハンで育ち、リョハンで生涯を終えるものだ。それはリョハンが武装召喚術の生誕地となる遥か前から連綿と受け継がれてきたことであり、リョハンが武装召喚術誕生の地となり、《協会》の総本山となってからも変わってはいない。
ファリアは、そのリョハンに帰ろうとしている。
しかし、そのままリョハンに居着くつもりはなかった。数少ない肉親である祖母を見舞うための一時的な帰郷に過ぎない。リョハンの統治機構である護山会議に別の思惑があったとしても、いまのファリアには関係のないことだった。
が、緊張するのは、それもあるだろう。
護山会議に詰め寄られたとき、ファリアは自分の意見を押し通すことができるのだろうか。
北の大地に到達してからも、マリクは飛び続けた。レイヴンズフェザーの加速と飛翔は、飛び立つ際ファリアの視界を目まぐるしく変化させ、瞼を閉じていなければ、目を回しそうになったりした。一定の高度に到達してからはどれだけ速度があがろうとも、周囲の景色に変化はなく、目が回ることはない。ただし、今度は寒さとの戦いが始まる。地上の人間に見つからないように飛び続けるには、かなりの高度を維持しなければならず、そうなると冬めいた空気の中を突き進むということであり、ファリアは、最初の飛翔中、寒さに耐え切れなくなってマリクに地上に降りるよう頼んだことがあった。それから衣服をさらに着込み、それによって寒さに対抗したのだが、
『その格好、セツナ伯には見せられないね』
着膨れしたファリアを見て、笑いを噛み殺すマリクの言葉が胸に突き刺さった。
ともかく、寒さ対策を施してからの飛翔は順調そのものだった。ヴァシュタリア勢力圏に入ってからも、だれに見咎められることもなく、ただひたすらに飛んだ。飛び続けて、あっという間にリョハンの山門街に辿り着いた。
山門街に到着してから確認したところ、その日は、十二月二日だった。たった六日で、龍府からリョハンまで辿り着いている。さすがはクオールのレイヴンズフェザーといったところであり、マリクが彼の召喚武装を引き継いでくれてよかったと心底思った。彼がクオールの召喚武装を勝手に使っていたときは微妙な気持ちだったが、リョハンとガンディアを行き来することを考えれば、必要なことだったのだ。
マリクは、必要なことしかしない。そんな少年だった。
あの日、龍府を訪れたのも、必要なことだと想ったからに違いない。
山門街は、御山の腕とも呼ばれる巨大な城壁に囲われた都市だ。レイヴンズフェザーの能力を行使すれば、飛び越えることなど簡単だろうが、マリクはそれをしなかった。門兵たちのいる巨大な城門の手前で降り立ったのだ。さすがにリョハンへの出入りには、正式な手続きを踏まなければならないという頭があるのだろう。
マリクが門に歩み寄ると、重武装の門兵が、彼に敬礼した。彼が四大天侍だということを思い出す。
「いつもお疲れ様です、マリク様……そちらの方は?」
「見てわからない? 小ファリアだよ」
(わからないんじゃないかしら)
とファリアが思ったのは、相変わらず着膨れしているからだった。そして、そのこともあって、多少気恥ずかしかった。ついさっきまで寒風吹きすさぶ高空を飛んでいたのだ。地上に降り立ったからといってすぐさま上着を脱げるわけもない。
門兵が、兜の奥の目を見開くのが見えた。
「は? はっ……小ファリア様でしたか!?」
「様だなんてやめてください。わたしはただの武装召喚師ですよ」
「護山会議から役目を奪われた、ね」
「マリク様」
睨むも、彼は涼しい顔だ。戦女神を主と認識する四大天侍である彼は、護山会議など、なんとも想っていないのかもしれない。その点、クオールとはその立場は大きく異なる。
ふと、考える。
もし、クオールが生きていて、彼がレイヴンズフェザーの召喚主であったとすれば、ファリアはいま、この場にいなかったかもしれない。クオールは護山会議の決定に従わなければならない。彼は護山会議の狗だったのだ。翼を生やした走狗である彼が、戦女神のためとはいえ、護山会議の意思を無視するとは思い難かった。
四大天侍のマリクだからこそ、護山会議の意向を黙殺し、ファリアを連れ戻しにガンディアくんだりまで飛んでいけたのだ。
「あー、ごめんごめん。じゃあ、そういうことだから、通してくれるよね?」
「もちろんです。門を開け!」
『開門!』
門兵たちが唱和すると、リョハンの山門街と外界を隔てる巨大な門が、音を立てて開いていった。
山門街は、空中都市リョハンを構成する三つの居住区のうちのひとつであり、山門の名の通り、リョフ山という巨大な山の麓に位置し、御山への出入りを厳しく監視しているのだ。空中都市リョハンの名の由来となった空中都に至るためには、まず山門街に入る必要があった。山門街以外からこの旬権極まりないリョフ山を登ることは困難であり、ヴァシュタリアの軍勢が何度となくリョフ山の踏破を試み、失敗したという事実があった。成功したわずかな例も、踏破した先で待ち受けていた武装召喚師たちに難なく撃退されたことで無意味となっている。リョフ山を登るよりも山門街を制圧するほうが効率的だと判断したヴァシュタリア軍だったが、ファリア=バルディッシュの護る山門街を制圧することなどできるわけもなかった。それでも諦めることを知らないヴァシュタリアとの山門街を巡る戦いは長きに渡って続いたという。
その長きに渡る戦いに勝機が見えないから、ヴァシュタリアはリョハンとの間に交渉の席を設けた。結果、リョハンはヴァシュタリア勢力圏で唯一、独立自治の権利を勝ち取ることができ、リョハンの歴史はその日から新たな始まりを告げた。
つまり、戦女神の治世である。
圧倒的な物量を誇るヴァシュタリアの軍勢を相手に、リョハンが一歩も引かず、勝利を掴み取ることができたのは、前線に立ち、だれよりも雄々しく、だれよりも苛烈に戦い抜いたひとりの武装召喚師の存在があったからだ。
その名こそ、ファリア=バルディッシュ。
ファリアの名の由来になった人物であり、ファリアの敬愛する祖母だ。
ファリアがリョハンを訪れたのは、その祖母に逢うためにほかならず、山門街の懐かしくも数年前と何ら変わらない風景を楽しむ余裕などはなかった。このマリクとの旅が始まってからずっとそうだった。祖母のことが心配だった。
祖母ファリア=バルディッシュは、老いによる体調の悪化で、倒れたというのだ。
山門街の宿での休憩中も、気が急いて仕方がなかった。
「すぐにでも逢いたいのはわかるけれど、焦りは禁物だよ。大召喚師様に逢うのは、簡単なことじゃないからね」
ファリアが焦燥感に駆られているのが、マリクにもわかったようだった。彼のそんな一言に、ファリアは部屋に飾られていた鏡を見て、顔色の悪さを自覚した。龍府を発ってから、ずっとこんな調子だったのかもしれない。
マリクのいうとおりでもあった。
戦女神と謳われ、大召喚師とも呼ばれるファリア=バルディッシュと面会するのは、簡単なことではなかった。通常、山門街の役所で手続きを済ませても、認可が降りるまで短くても数日はかかったし、長ければ数ヶ月要することもあった。それはファリア=バルディッシュがリョハンにとって最重要人物であり、その身に危険が及ぶようなことがあってはならないからであり、場合によっては護山会議の審議の結果を待たなけれならないからだ。
そのことを考えると、ファリアに許可が降りるのかどうか不安だった。
「なに、護山会議だって馬鹿じゃないさ」
一方、マリクは、楽観的だった。彼の姿が龍府を飛ぶときよりもやせ細っているように見えるのは、気のせいなどではない。消耗しているのだ。肉体的にも、精神的にも。そして、血液も。
レイヴンズフェザーは、その絶大な能力を発揮するために、精神力だけでなく、血液も必要とした。血を代価として差し出さなければならない能力なのだ。飛べば飛ぶほど、血を消費するという。そして、消費した血は、他者から吸うことで回復することができる。クオールの二つ名“吸血鬼”の由来であり、彼が数多の女性と浮名を流した原因でもあった。彼に血を吸われた女性は、その瞬間から彼の虜となったものだ。
レイヴンズフェザーの吸血行為にはある種の快感が伴う、とはクオールの説明だった。その快感が病みつきになるから、女性たちはクオールに血を吸われたがったらしい。そういう女性を各所に作っておくのが、護山会議の狗たるクオールのやり方であり、リョハン各地にもクオールと血の絆に結ばれた女性が何人もいた。
もっとも、吸血対象は女性限定というわけではない。現に、龍府に辿り着いたマリクは、セツナから血を得たという。ファリアはその吸血現場を目撃したわけではないのだが、血を吸われすぎたセツナは、しばらく動くこともままならない様子だったことを覚えている。
「血が必要なら、わたしの血を――」
ファリアがいうと、マリクが手を振ってきた。
「いや、いいよ」
「でも」
「小ファリアから吸ったら、セツナ伯に嫌われるでしょ」
「はい?」
セツナの名が出てきたのは、完全に不意打ちで、ファリアは素っ頓狂な声を上げた。
「上にいけば、ニュウがいるし」
「ニュウ様が?」
「ニュウに頼めばなんとかなるから、心配しないで」
マリクは、ファリアの疑問を捩じ伏せるように笑いかけて来た。
そんな風にして、ファリアはマリクとふたり、山門街役所の連絡を待った。
結局、ファリアの登頂許可が降りたのは、翌々日のことだった。