第千百七十一話 代価(一)
「龍宮衛士ねえ」
「龍宮衛士がどうかしたのか?」
セツナが、不意に聞こえた声に目を向けると、エスク=ソーマが新聞を片手にくつろいでいる姿が目に入ってきた。
場所は、天輪宮泰霊殿の広間だ。泰霊殿は、天輪宮の中心に位置する殿舎であり、一般人の立ち入りは禁止されているほか、天輪宮に出入りすることができる人間の中でも、泰霊殿に入ることが許可されているものはわずかしかいない。泰霊殿は、領伯の住居でもあるからだ。そして、領伯の住居であるがゆえに、領伯であるセツナが許可したものは、自由に出入りができ、エスクが広間でくつろぐことができるのもそういう理由からだ。
「いやなに、俺たちの仕事がとられるんじゃないかとひやひやしたんですが、どうやら杞憂だったようで」
「杞憂もなにも、戦技隊の仕事減るなんてこと、ありえねえよ」
苦笑交じりに告げる。
エスク=ソーマ率いるシドニア戦技隊は、シドニア傭兵団を元とする戦闘集団だ。“剣魔”エスクを始め、緋毛のドーリン=ノーグ、レミル=フォークレイら勇壮な戦士たちばかりで構成されており、今後どれだけセツナの配下が増えたところで、その有用性が色褪せることはないだろう。現在においては黒獣隊と双璧をなしているといってもいいが、単純に戦闘部隊がそのふたつしかないともいえる。
対して、龍宮衛士は、天輪宮の警護に重きを置いた組織であり、将来のことはわからないにせよ、いまのところセツナ配下の戦闘部隊に加えるつもりはなかった。龍宮衛士を戦闘部隊に加えるよりは、黒獣隊、シドニア戦技隊の隊員を増やしたほうがいいのではないかという考えがある。黒獣隊の増員については既にシーラが動いていて、龍府中に募集をかけている。非戦闘員を含む六名ではあまりにも少ないからだが、シーラの眼鏡に叶う人材が現れるかどうかは未知数だった。
「そういって頂けるのは嬉しい限りですがね。いかんせん、うちらは粗暴な連中が多い。大将はともかく、ほかのひとたちには嫌われるんじゃないかとか」
「そんなこと気にしてんのか?」
セツナは、エスクの発現に目を丸くした。エスクがそんなことを思っているとは想像もできなかったからだ。彼のこれまでの言動を考えると、他人にどう思われようと関係ないというような信念があるように思えたからだ。エスクが表情ひとつ変えずいってくる。
「いえ、全然」
「んだよ」
「ただ、まあ、俺たち自身のことはともかく、俺たちのせいで大将の評判が悪くなるかもしれないってのは、思いますよ」
なあ、と彼は背後に同意を求める。彼の背後にはレミルがいた。エスクの側には常にレミルがいるのだ。レミルはシドニア戦技隊の幹部であるとともに、エスクの恋人でもあった。ドーリンはこの場にこそいないものの、レミルと同じくらいには重用されていたし、戦技隊士たちを任せられるという重要な役割を与えられてもいる。
「んなこと気にすんなって」
「では、気にしない方向で」
「あっさりだな」
「あっさりのほうがいいっしょ」
「まあ、な」
セツナはエスクのあっさりした言葉にあっさりとうなずいてみせ、彼が笑顔を浮かべるのを見た。
広間には、セツナ、エスク、レミルの三人しかいない。レムはセツナの部屋を掃除しており、ラグナはそんなレムに付き合っていてこの場にはいない。ウルクは定期検査ということでミドガルド=ウェハラムとともにいて、シーラたち黒獣隊は訓練中だ。ルウファはというと、《獅子の尾》の副長業務に忙殺されている。隊長補佐の不在が、彼の仕事量を膨大化したのだ。そんなルウファのためを想ってセツナは協力を申し出たのだが、頑ななまでに断られていた。余計なことをされて仕事量が増えるのは嫌だ、というルウファの魂の叫びが、セツナの胸に突き刺さったのは言うまでもない。
隊の主な仕事は、隊長補佐と副隊長で行ってきていた。セツナの仕事といえば、書類に判を押すだけの簡単なものだけであり、報告書の作成や提出など、ほとんどの仕事はふたりに任せっきりだった。セツナは戦うことだけを考えればいい、というのが、《獅子の尾》の不文律であり、領伯としての彼の立ち位置も、まるっきり同じだった。雑務さえこなせないのだから反論のしようもないし、戦うことで十二分以上に責務を果たしているといわれれば納得もするのだが、それでも、手伝うことさえできない事実には不甲斐なさを禁じ得ない。
だからといって我儘をいってルウファを困らせることは避け、セツナは普段通りの日々を送っていた。つまり、領伯や《獅子の尾》隊長としての最低限の仕事をこなしながら、日課の鍛錬を行うという日常だ。
「ところで、赤毛女史は?」
「赤毛女史……ミリュウのことか?」
問いかけるまでもないことではあったが、一応、セツナはエスクに尋ねた。セツナの周囲にいる女性で赤毛が特徴的な人物といえば、ミリュウ以外にはいない。その赤毛も生まれついてのものではなく、染め上げての色なのだが、そこは問題ではないだろう。ちなみにだが、彼女の染料はルベンから仕入れているらしい。
「そうそう、それ」
「なんだよ、おまえまでミリュウのことが気になるのか?」
おまえまで、というのはつい先ほど、シーラにミリュウの居場所を尋ねられたからだった。シーラは、ミリュウに鍛錬の相手をして欲しいらしい。召喚武装の扱いをさらに習熟していくためには、黒獣隊士との訓練では物足りないのだという。そもそも、常人相手に召喚武装の訓練を行うことなど土台無理な話であり、訓練相手に武装召喚師を望むのは当然の話だった。
ミリュウが不在であり、しばらく天輪宮に戻ってくる気配もないことを伝えると、彼女はがっくりと肩を落としていた。シーラが訓練にやる気を燃やしているのは、ミリュウが元リバイエン家本邸を入手するのに躍起になっていたのと似たような理由だ。
ミリュウは、元リバイエン家本邸を欲した理由を強くなるため、といった。屋敷と敷地を手に入れることが強くなることとどう関係するのかはセツナにはわからなかったものの、セツナは彼女の望みを叶えるべく動いた。天輪宮の警備部隊を必要としていたのは事実だったし、龍宮衛士の設立も時間の問題だった。龍宮衛士の発足とミリュウの願いが叶うとなれば、まさに一石二鳥であり、セツナは彼女の考えに乗らないわけにはいかなかった。ミリュウにはさんざん力になってもらっている。彼女の願いをひとつ叶えることくらい、わけもなかった。
もちろん、ミリュウを特別扱いしているわけではない。ファリアがなにか望みをいってきて、それがセツナの手で叶えられる範囲のものなら、叶えるだろう。そして、それはレムやシーラでも同じことだし、ルウファやエミル、マリア、ラグナだって同じことだ。
セツナは、自分に関わりのあるひとには、幸せになってほしいと考えるようになっていた。
黒き矛を握るこの手が数えきれないほどの不幸を撒き散らすのなら、せめて、周囲のひとたちだけでも、幸せになって欲しいと思う。傲慢な考えだということは、わかっているのだが。
「いやまあ、いつも大将にべったりですし、ね」
エスクの意見はもっともではあったが、セツナは、敢えて問いただした。
「いないほうが不自然なほどか?」
「ええ」
「まじかよ」
「まじですぜ、大将」
エスクがにやりとする。彼の隣で、レミルが困ったような顔をしているのだが、それは彼女がエスクの慇懃無礼ぶりに肝を冷やしているという表情に見えた。エスクと付き合いの長いレミルでも、彼を御しきれないのだということは、常々わかりきっていることだ。
「はは、いつの間にそんなことに……」
「あと、ドラゴン野郎と死神嬢ちゃんもいないと不自然ですな」
ドラゴン野郎とは当然ラグナのことであり、死神嬢ちゃんとは、レムのことだ。エスクは特定の人物以外は名前で呼ばず、適当に考えたアダ名で呼ぶところがある。セツナのことを大将と呼ぶのも、そのひとつだろう。名前を覚えられないわけではないのだろうし、深い意味があるわけでもあるまい。単純に、そのほうが呼びやすいからだろう。
「まじか……」
「大将といえばそうなりますなあ」
「そうかあ……」
がっくりとうなだれていると、背後に気配が生じた。
「なにがそんなに不満なのでございます?」
耳元で囁かれる声にびっくりすると、頭上からも声が降ってきた。
「そうじゃそうじゃ、わしらが常に側にいるからこそ、おぬしは安心していられるのじゃぞ」
レムとラグナだ。彼らがいつのまに室内に入ってきて、セツナの背後に回ったのかは、まったくわからなかった。会話の内容に突っ込んできているということは、エスクと会話している最中だったのだろうが、まったく気づかなかったところをみると、元からセツナを驚かせるつもりだったに違いない。
「不満とかそんなんじゃねえよ。ただ、俺ってそう見られてるのかーって想っただけだよ」
「それが、不満というのでございます」
「そうじゃ!」
めずらしく頬を膨らませて不服そうな顔を見せるレムと、それに便乗するラグナの反応に、セツナは、返答に窮した。別に本当に不満に思っているわけでも何でもなかったからだ。ただ、エスクとくだらない会話を続けていただけにすぎない。
セツナは、ひとりと一匹を振り返って、頭を下げた。
「すまん」
「素直でよろしい」
「御主人様がそこまで仰ってくださるのならば、許してさしあげます」
「相変わらず尻に敷かれてるなあ、大将」
「うっせえ」
セツナは、エスクを一瞥して、それから嘆息を漏らした。ガンディアの英雄、領伯などといわれようと、周囲のだれに対しても頭が上がった試しがない気がしたからだ。
「で、なにかあったのか?」
レムとラグナの機嫌が治ったのを見計らって、セツナは口を開いた。
「御主人様の部屋にミドガルド様が尋ねられたのです。御主人様にお話したいことがある、と」
「ミドガルドさんが?」
「すっかり体調も良くなられた、ということで」
レムの口ぶりから、セツナはミドガルドの目論見を察した。
「……なるほどな」
「いまのでわかったのか?」
「まあな」
きょとんとするラグナに、セツナは得意顔でうなずいた。
ミドガルドがなぜこの国を訪れたのかを思い出せばわかることだ。
ミドガルドの目的。それは、魔晶人形ウルクの心核に使われる黒色魔晶石の解明である。いや、解明のための手引、というべきか。黒魔晶石を起動させる波光(通称、特定波光)の持ち主を探しだすことが、ミドガルドが神聖ディール王国から小国家群くんだりまでやってきた最初の理由であり、特定波光の持ち主がセツナと判明してからは、セツナを調査、研究することが目的になっていた。そして、その目的を遂げるために、彼はガンディアとの取引に応じ、魔晶人形ウルクを戦力としてガンディアに提供している。それ以来、ウルクはガンディアの軍服に身を包み、一見、ガンディア軍人のような体裁を取っていた。ウルクが戦力として機能したことはいまのところないものの、彼女の潜在戦闘力が凄まじいものであるということは、練武の間を破壊した一件と、ハートオブビーストを携えるシーラと激闘を繰り広げたことからも明らかだ。ガンディアは、ウルクの提供期間を少しでも延長したいと考えているが、それがうまくいくかどうかは、セツナ次第というところもあった。
先にもいったように、ミドガルドの目的は、セツナの調査研究である。セツナの身体を徹底的に調べあげることを許可する代わりとして、ウルクを戦力として借りだしているのだ。ウルクを使い続けるのならば、セツナも体を調べさせなければならなかった。
今日に至るまで、ミドガルドの研究に付き合わずに済んだのは、ミドガルドとガンディアの交渉当時、セツナが重傷を負った状態だったからだ。セツナを調べるのは、傷が完治し、体調が回復してからということになっていた。
傷は完全に塞がった。背中も、腹部も、だ。体調も万全といっていい。日課の訓練を再開してもなんの問題もないというマリア=スコールからのお墨付きもある。つまり、研究のときがきたということだ。
「むう。わしにはさっぱりじゃ」
「ドラゴン野郎の頭じゃわかんねえだろうよ」
エスクが、ラグナを大袈裟なまでに嘲笑った。すると、ラグナはレムの頭の上から飛び立ち、あっという間にエスクの目の前まで移動した。小飛竜の全身が強く光っているのは、ラグナがエスクの発言に起こっているからに違いなかった。
「ダメダメ野郎にいわれたくないのじゃ!」
「だれがダメダメ野郎だって!?」
「おぬしに決まっておろうが!」
「んだと!」
口論を始めたドラゴンと“剣魔”を見つめながら、セツナは椅子から立ち上がった。ふたりの幼稚な罵り合いには、エスクの側のレミルも穏やかな表情を浮かべている。
「さて、行くか」
「はい、お供いたします」
レムがしれっといってきたのには、笑うしかない。
「待たぬか! 薄情者!」
ラグナがセツナを非難してきたが、彼は気にもせずに言い返した。
「うっせえよ、喧嘩なら勝手にしてろ」
「わしはじゃな、この青臭い馬鹿者に説教をしてやろうとじゃな」
「誰が青臭いってんだよこの緑野郎!」
「ふっふーん、そんな挑発は効かぬのじゃ。万物の霊長を甘く見るでないわ!」
「万物の霊長のくせに小せえんだよ!」
「おぬしの器ほど小さくないわ!」
などと言い合うラグナとエスクを一目見る気さえ起きず、セツナは軽い頭痛を覚えた。
「どう見ても同次元で戦ってるが……」
「エスク様とは喧嘩友達のような間柄のようでございますね」
レムが、妙に嬉しそうにいってきた。彼女には、ラグナが友達とじゃれあっているように見えるのかもしれない。
「エスクのほうは心底嫌っているようだがな」
「そうなのでございますか?」
「苦手なんだとよ、爬虫類」
「だれが爬虫類か!?」
「おまえ以外にいねえだろ」
と告げたのは、無論セツナではなく、エスクだ。不遜な笑い声が響き渡る中、ラグナの怒声が室内の空気を震わせる。
「わしはドラゴンぞ!? 爬虫類などといううす気味の悪い生き物と一緒にするでないわ!」
「同じじゃねえか!」
「違うわい!」
そこから猛烈な罵声の応酬が始まったのだが、そのときにはセツナはレムとともに広間の外に出ており、扉を閉めていた。ので、ふたりがどのような罵声を叩きつけあっているのかはわからなかったし、わかろうとも思わなかった。
「まあ、放っておいて、行こう」
「よろしいのですか?」
「ミドガルドさんを待たせるのは悪いだろ?」
「それはそうですが」
「ラグナなら、飽きたらすぐに追いかけてくるさ」
「ふふふ、御主人様がどこにいったのかと騒ぐ光景が浮かびますね」
「それでエスクと喧嘩するんだよな」
セツナは、ラグナとエスクの激しい口論を聞きながら、レムに笑いかけた。