第千百六十七話 魔龍の呼び声(四)
リュウイ=リバイエンの執務室は、かつて、オリアン=リバイエンと名乗ったあの男が使用していた部屋だった。無論、リバイエン家の当主となり、屋敷の主となったリュウイがどの部屋をどう扱おうとも知ったことではないし、どうでもいいことだ。
しかし、ミリュウは、豪奢な椅子に腰掛けてふんぞり返るリュウイの姿が、どことなく矮小に見えて、そんな彼に家を任せなければならなかったオリアンのことを哀れに思った。もっとも、オリアン自身が家をリュウイに託したわけではないことはしっている。オリアンは勝手に国を捨て、何処かへと消えた。消えた先がクルセルクだったのは予想外のことだったが、ともかく、オリアンのいなくなったリバイエン家は、オリアンの嫡男であったリュウイを当主の座に据え付けたのは、当然の話だったのかもしれない。一方で、ザルワーン戦争後、リバイエン家の傍流であるユーラが、ガンディアにおいてある程度の地位を与えられ、それなりに重用され始めたことを知ったリバイエンの一族が、ユーラこそ当主にするべきだったのではないかと囁き合うのも無理はなかった。リュウイが常に不機嫌そうな表情をしているのも、ユーラを出し抜き、リバイエン家当主としての地位と名誉を回復したがっているのも、そういうところにあるということが、調べるうちにわかった。
自業自得だが、だからこそ、ミリュウは彼との交渉は成功するだろうと思えた。精神的に追い詰められているいま、リュウイは藁をも縋る想いでいるはずだった。実際、その思いや感情が、半年前、ミリュウを激怒させている。
「話をしにきたのよ。そのための使いを寄越したでしょう?」
「だから、セナにおまえの出迎えをさせたのだ」
リュウイは、傲岸にいってきた。リバイエン家の当主であるということだけを誇りとし、着飾っているような器の小さい男だ。その表情、言動、どれをとっても尊敬するに値しなかった。だが、そんな彼でも利用価値があるのなら、利用するのがいいだろう。
「それで、どういう話だ? おまえの使いは、今日、おまえが来ることしか伝えなかったぞ」
「単刀直入にいうわ。家を譲ってほしいのよ」
「家を……譲る?」
リュウイが眉根を寄せた。剣呑な顔がより険しく、厳しい物へと変わる。もっとも、どれだけ厳しい表情をされたところで、ミリュウが恐怖を感じることは一切なかったし、むしろ哀れさがましていくだけだった。
「この家をか? それともリバイエン家の当主の座をか? どちらにせよ馬鹿げた話もあるものだな」
「リバイエン家の当主になんてだれがなりたいものですか」
鼻で笑う。
ミリュウは、むしろリバイエン家との関わりを絶とうとしているというのに、リバイエン家の当主の座に着こうなどと考えるはずもなかった。リバイエン家そのものをこの地上から抹消できるというのならそうしたいほどに、憎んでいる。
「この屋敷、そして敷地のすべてを、よ」
ミリュウは、リュウイの目を見据えながら告げた。同じ血を引き、顔立ちも目つきも似ていなくはなかった。鏡を見ているほど似ているというわけでもないが、彼を見ていると、どうも若いころのオリアスを思い出してしまうことがあった。男同士、似るものなのだろう。
「だから、それも馬鹿馬鹿しいといっている。この屋敷は、リバイエン家の当主たるわたしのものだ!」
「だから、譲ってほしいっていっているんでしょう?」
憤慨するリュウイをなだめるつもりもなく、冷ややかにいう。激昂したいならすればいい。ミリュウは彼の感情の高ぶりに付き合うつもりもないし、やりたいようにやるだけのことだ。そして、彼がどれだけ怒り狂おうとも、この交渉がミリュウの思い通りに運ぶことは目に見えている。
リュウイがいま喉から手が出るほどに欲しがっているものを用意しているからだ。
「なぜだ?」
「ここをあたしの家にしたいからよ」
「いまさら」
リュウイが、ことさらおかしそうに笑った。その傲岸で不遜極まりない態度は、王立親衛隊《獅子の尾》の隊士を目の前にしているということなど、まったくもって考慮していないということの現れだろう。彼がミレルバスに重用されず、傍流のユーラに出し抜かれるのも当然のことのように思えた。もちろん、五竜氏族リバイエン家の嫡男として生まれ育った彼が礼儀作法に通じていないはずはなく、目上の人間を前にすれば、ミリュウが失笑するくらいに態度を急変させるのだろうが、ミリュウだけを相手にそのような態度は取れないとでも思っているのかもしれない。
実の妹であるミリュウには、傲慢に振る舞ってもいいとでも、考えているのかもしれない。
それが結局のところ、彼の限界なのだろうし、彼がガンディア政権下で出世できない最大の理由なのかも知れなかった。
「いまさら、この屋敷を手に入れてどうなるというんだ。おまえは領伯様とともに天輪宮で起居しているではないか。屋敷など不要なはずだ」
「必要だから、交渉に来たんでしょう」
「交渉? 交渉だと? ならば、わたしが屋敷を差し出すといえば、おまえはわたしになにをくれるというのだ?」
「そうね……」
思わせぶりに視線を巡らせる。過去の栄光に飾り立てられた無残な執務室を見回して、胸中で嘆息する。五竜氏族が支配者として君臨した時代のザルワーンを象徴するようなものばかりが、室内を彩っていた。過去にばかり目を向けているから、彼はいまだ、リバイエン家の当主であることに拘りを持ち、自分が祭り上げられてしかるべきだと考えているのかもしれない。そして、リバイエン家の出世頭であるユーラが許せず、また、実妹であるミリュウがリュウイや家族のために力を尽くしてくれると信じて疑わなかったのも、そのためだろう。
過去に囚われているのだ。
(あたしとは別の意味で、ね)
中々つぎの言葉を発しないミリュウに静かに苛立ち始めたリュウイに気づいて、彼女は口を開いた。
「地位を、約束してあげるわ」
「地位……?」
がたん、という物音は、リュウイが腰を浮かせたからのようだった。執務室には、リュウイとミリュウのふたりしかいない。ここまで案内してくれたセナ=タールトンは、部屋の外で待機している。
ミリュウは内心ほくそ笑みながら、ゆっくりといった。
「領伯様がいま、天輪宮を維持するための人員を探していることは知っているかしら?」
「天輪宮を維持するための? 知らんな」
「でしょうね。あたしたち、領伯様の近くにいるものしか知らない話だもの」
というよりは、ミリュウのためだけに考え出されたことであり、ミリュウとセツナ、そしてその周囲の人間しか知る由もないことだった。発表されるどころか、天輪宮で働く人々にさえ知らされていないことだった。
ミリュウはみずからの目的を果たすため、セツナに協力を仰いだ。セツナはミリュウへの協力を快く了承してくれただけでなく、親身に話を聞いてくれた。そういうところがミリュウが手放しで彼を溺愛する理由に繋がるのだが、それはいい。
セツナの協力を仰いだ最大の理由は、彼の立場にあった。彼は、龍府と周囲一帯を領地として封ぜられた領伯であり、龍府の支配者といっても間違いではなかった。彼の権力を使えば、龍府を好きなようにすることだって不可能ではないのだ。無論、古都を滅茶苦茶にしようものなら龍府の人々から非難され、凄まじいまでの反発を受けるだろうから、そのようなことをするつもりもなかった。そもそも、ミリュウがセツナの人気を損なうようなことをするわけもない。
たとえそれが自分の目的を果たすために必要なことであったとしても、セツナが不利益を被るようなことはしないのだ。
「それがなんだというんだ?」
「龍宮衛士」
「りゅうぐうえじ? なんだそれは?」
聞き慣れない言葉を口にして、リュウイは怪訝な顔をした。
「天輪宮の守護者の名前よ。領伯様は、天輪宮の維持や警備を新設する龍宮衛士に任せようと考えておられるのよ」
「つまり……なにがいいたい?」
リュウイが怪訝な顔をした。察しの悪さが、彼の能力のなさを明らかにしていて、ミリュウは、本当に彼に龍宮衛士を任せてもいいものかと悩んだ。が、ほかに方法はない。
敷地を強引に取り上げるということも考えないではなかったが、そんなことをすればリュウイのみならず、リバイエン一族を敵に回すことになりかねない。どれだけユーラ=リバイエンのほうが人気があり、一族の大半がユーラに靡いているとはいえ、本家を蔑ろにされて怒らない一族でもあるまい。ミリュウだけがリバイエン一族を敵に回すのならばなんの問題もないが、どうあがいてもそんなことにはならないのだ。
セツナに迷惑がかかる。セツナは領伯として、龍府のひとびとからもそれなりに支持を受けている。しかし、遥か昔からザルワーンの支配者として君臨してきた五竜氏族を蔑ろにするようなことがあれば、その支持率は急降下すること間違いない。場合によっては暴動や反対運動が起こることだって考えられる。
いまとなっては五竜氏族にそこまでの影響力はないとは思いたいのだが、完全にないとは言い切れなかった。
よって、こんな回りくどい手段を使わざるをえない。
「リュウイ=リバイエン。あなたがこの屋敷をあたしに差し出してくれるのなら、あなたを龍宮衛士に推薦してもいいわよ」
「推薦……か」
「推薦だと信じられない? 領伯様は、あたしのいうことならなんでも聞いてくださるわ」
それは、半分嘘で、半分本当のことだ。龍宮衛士の設立だって、ミリュウのためといっても過言ではなかった。なにもかも、ミリュウの我儘なのだ。ミリュウは、どうしてもこの屋敷を手に入れる必要があった。この、オリアス=リヴァイアの研究の成果が各所に散りばめられた敷地をなんとしてでも手に入れる必要があったのだ。
そのためにミリュウはセツナに頼み込んだのだが、セツナは、二つ返事で了承した。
「……おまえが領伯様に気に入られていることは知っている。だが……」
リュウイは、ミリュウの提案を受け取るべきか、迷っているようだった。地位や名声をひたすらに求める彼がなにを迷うことがあるのか、ミリュウにはわからない。さっさと首を縦に振ればいいものの、渋面の彼がうなずく未来は見えない。
そんなリュウイに対し、ミリュウは焦れた。すたすたと彼の執務机に近寄ると、懐に隠し持っていた書類を机に置く。
「これは?」
リュウイは、戸惑い気味に書類を手に取った。書類は、龍府にて新たに設立される組織の要項が記されており、龍府の領伯セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドが許可したことを示す押印があった。龍の都たる龍府の主に相応しく龍を模した押印には、黒き矛も象徴として取り入れられている。
一目見て、セツナが判を押したということがわかるようになっているのだ。それは司政官ダンエッジら龍府の役所が考案したものであり、セツナも気に入って使っていた。
セツナの領伯としての仕事の大半がそれだ。司政官らが作成した書類に目を通し、理解不理解に関わらず押印するだけのことであり、司政官らがいかにセツナに煩わせまいと努力しているかが窺えるというものだ。
「龍宮衛士の書類よ。見なさい。領伯様の印があるでしょ。あとは、あなたの名前を書き込むだけなのよ」
「……名前を書くだけで、いいのか?」
「それであなたは晴れて龍宮衛士の一員になれるのよ。しかも家格からいえば、あなたが龍宮衛士の筆頭格になるのは疑いようがないわね」
「龍宮衛士……天輪宮の守護者か」
「主はセツナ伯よ。この言葉の意味は、わかるわよね?」
「……あ、ああ」
リュウイは、ミリュウの言葉の意味をゆっくりと、噛みしめるように理解したようだった。書類に視線を落とす表情が、少しずつ変化していく。
「龍宮衛士での働き次第では、さらなる栄達も望める……ということか」
「領伯様がお認めになられれば、領伯近衛に引き上げられることだってあるでしょうね」
「領伯近衛……」
「いまをときめく英雄様の側近といってもいいわね。軍団長や大軍団長とはまったく違うものだけれど、屋敷でくすぶっているよりはいいんじゃない?」
「ああ、ああ! そうだ、そうだな!」
リュウイが喜悦満面の表情を浮かべ、得心するのを見つめながら、ミリュウは内心、ほっとした。彼が想っていた通りの人物で良かった。もしこれでかれが納得してくれなければ、別の交渉手段を用意しなければならないところだった。
領伯の権限で敷地を召し上げるということもできなくはないが、そんなことをすればどうなるのかがわからないミリュウではなかった。龍府を巻き込んだ騒動に発展することくらい、想像に難くない。
「で、どうするの?」
「……わかった。屋敷をおまえに明け渡そう」
といって書類を机の上に戻したリュウイの顔は、晴れ晴れとしていた。眉間の皺が薄れ、表情全体が柔らかくなっている。未来が開けたということが余程嬉しかったのかもしれない。
「しかし、ひとつ問題がある」
「住む場所はどうすればいいか、ね?」
「ああ。わたし個人はどうとでもなるが、家族や郎党、使用人たちのこともある」
「使用人の何人かはあたしのほうで雇い直してもいいわよ。どうせ、屋敷の方の維持は任せなきゃならないし」
屋敷と敷地を譲り受けたところで、ミリュウが利用するのは屋敷の一部と敷地の一部でしかない。使用しない部屋や通路は、放っておけば埃も積もるだろうし、屋敷を維持するためにも人員を雇っておく必要はあった。
リュウイが、不思議そうな顔をする。
「ん?」
「こっちの話」
「ふむ……まあいい。問題はわたし自身と、残りのものの身の置き場だな」
「まあ、急ぐ話でもないし、ゆっくり考えればいいわよ。すぐに出て行けなんていうつもりもないしね」
「そうか……それならば問題にもならないか」
リュウイは納得すると、再び書類を手に取った。書面とミリュウの顔を見比べるように視線を移動させる。表情には喜びがあり、まなざしには優しさが溢れている。ミリュウはなんだか毒気を抜かれるような気分になった。
「しかし、まさかおまえが家のことを考えてくれているとは思わなかったぞ」
「家のこと……ね」
「そうだろう? わたしはリバイエン家の当主であり、リバイエン一族の頂点に立つべき人間なのだ。おまえが我が家の秩序のために力を尽くしてくれたこと、心より感謝しよう」
リュウイの尊大な態度にもなんの感情も沸かなかったのは、彼の存在がとてつもなくちっぽけに見えてしまったかもしれない。
「なにより、ユーラなどという能なしに遅れを取るわけにはいかん」
リュウイの一言に、思わずきょとんとする。
(相手は大軍団長。追い抜くのは至難の業よ)
胸中嘆息しながらも、表情には一切出さなかった。
リュウイが、おそらく一年ぶりくらいに大得意になっているのだ。放っておけばいい。調子に乗って問題を起こすようなほど愚かではない。
むしろ、慎重な方だろう。
ミリュウは、書類をまじまじと見つめるリュウイの嬉しそうな顔を眺めながら、そう結論づけていた。以前、リュウイは、ミリュウを利用してでもリバイエン家当主リュウイ=リバイエンの地位を確保しようとした。が、それは、龍府がセツナの領地となり、ミリュウが実家に顔を見せたときに取った行動であり、それまでリュウイは一切、ミリュウに近づこうとも、ミリュウの名を利用しようともしていなかった。ミリュウの名を利用しようと思えば、いくらでも利用する方法があったにもかかわらず、だ。それをせず、ミリュウからの接触を待ち続けたのは、彼が慎重に慎重を重ねて行動する人間だからに違いなかった。
だから、時勢に乗れなかった、ともいえる。
ザルワーン戦争後、すぐさまガンディア政府に取り入ることができていれば、いまよりももっといい立場を得ることもできたはずだった。ただの地方貴族などではなく、ガンディアの政治に関与するくらいの立場にだってなりえたはずだ。
しかし、リュウイは慎重を期すあまり、時期を失ってしまったのだ。
一方、傍流のユーラ=リバイエンは、上手くやった。もともと、ミレルバスが手塩にかけて育て上げていた腹心のひとりであった彼は、ザルワーン戦争後、ガンディア政権下で軍団長に抜擢され、クルセルク戦争後は大軍団長へと昇格、ザルワーン人の希望の星となっている。
それもこれもユーラが時勢に乗り、リュウイが時勢に乗りそこねたというだけのことだろう。
ユーラは、軍人としては二流、三流の部類に入るという評価がある。しかし、人徳があり、彼の配下のザルワーン人たちは、彼を引き立ててやらなければならないという使命感にかられるというのだ。そういう評判が、彼のような三流軍人をして大軍団長に引き上げたのだ。
(ってことは、時勢だけが問題じゃないわね)
ミリュウは、龍宮衛士として功を上げ、領伯近衛に取り立てられることを夢想しているのであろう兄のにやけた顔を見つめつつ、胸中で訂正した。
少なくともいまのリュウイには、だれもがついていくような人徳はない。
「納得したなら、さっさと書類に記入してくれる? あたし、こう見えても忙しいのよ」
「あ、ああ。本当に名前だけでいいんだな?」
「なんなら押印でもしておいたら? リバイエン家当主なんでしょ」
「それもそうだな!」
にかっと笑うリュウイに、ミリュウはなんともいえない気分になった。