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第千百六十四話 魔龍の呼び声(一)

 その日の朝、ミリュウは、自分でも驚くぐらいの爽やかさの中で目を覚ました。早朝。静寂といってもおかしくないくらい静かだというのに、いつも頭の奥底で鳴り響く雑音がまったく聞こえず、意識も明瞭で、なにもかもすっきりしていた。とても奇妙な感じがした。

 以前は、それが当たり前だった。

 しかし、“知”の継承からこっち、そういった当たり前から随分遠ざかっていた。特にこの二ヶ月あまりは酷く、寝起きが快かったことなど皆無といってもいいくらいだった。

 いや、一度だけあったことを思い出して、彼女は苦笑した。セツナの寝室に忍び込んだ夜、彼の体を枕に寝たつぎの朝、想像以上にすっきりと目覚めることができたのだ。そのときの理由はわかっている。セツナの鼓動を聞いていたからだ。セツナの鼓動を聞きながら眠れたことが、快い目覚めにも繋がっている。

 今日も、同じだ。

 ミリュウは、布団の中で他人の体温を感じながら、想った。昨夜、まったくもって寝付けなかった彼女は、頭の中の混乱を鎮めるため、セツナの寝床に潜り込んでいた。ファリアがいれば、ファリアの部屋に侵入したのだが、残念ながら、彼女はリョハンに旅立ってしまっていた。そのため、ミリュウはセツナの寝床に潜入することにしたのだ。別にセツナでなければならないわけではない。マリアでもよかったし、エミルでもなんの問題もない。おそらく、レムでも構いはしないだろう。

 しかし、ファリアの不在による心細さを解消するには、セツナ以外には考えられなかった。ほかの仲間では、ファリアの穴を埋めることはできない。

 もっとも、セツナの場合、ファリアの穴を補ってあまりあるのだが。

(それがいいんじゃない)

 ミリュウは、セツナの腕に抱きつきながら、もう一度目を閉じた。二度寝しようかと考えたのだが、すぐさま思い直す。顔を上げて、枕に乗ったセツナの横顔を見る。眠っている。規則正しい呼吸音は、ミリュウの意識にも強く影響を及ぼす。頭の中がすっきりしているのは、まず間違いなく、セツナのおかげだった。体内に脈打つ血の音色、鼓動、呼吸音――セツナが発する様々な音が、ミリュウの頭の奥底で蠢く雑音をかき消してくれる。

 そのまま背伸びして彼の頬に口付けしようかと思ったが、やめた。ファリアがいないときにそういうことをするのは、なんとなく不公平だ。

(不公平なのはいまに始まったことじゃないけどさ)

 胸中で笑う。

 ミリュウにできてファリアにできないことを平然とやってのける時点で、不公平なのだ。ファリアは、ミリュウのようにセツナの寝室に忍びこむことなどできまい。ましてや、彼と一緒に寝ることなど、想像するだけで顔を真っ赤にすることだろう。その点、ミリュウは気楽だった。気楽に、セツナの寝床に潜り込み、彼の胸に耳を当て、心音を聞きながら眠ることができた。

 それは、セツナから積極的に迫ってくることがないという確信があるからだ。もし、セツナがミリュウの肩に手を回してきたりしたら、それだけで正気を保っていられなくなる自信があるのだが、幸いなのか、セツナはそういったことを一切してこなかった。ミリュウのするがまま、なすがままなのだ。

(それってちょっとどうなの、って思わないではないけどさ)

 だが、そのおかげでミリュウは平穏な朝を迎えることができたのだ。

 今日という日を、機嫌よく迎えることができたのは、なによりも大きい。

 十一月二十七日の今日は、ミリュウにとって決戦の日といってもよかった。

 決戦。

 過去との対峙を行うための戦い。

 眠りこけているセツナの頬を指で軽くつつくと、なんとはなしにくすりと笑って、彼女は寝台から抜けだした。ふと見ると、枕の上で緑の飛竜が身動ぎしている。ラグナは、常にセツナと一緒にいる。レムとは違って嫉妬を抱いたりはしないものの、羨ましく思うことはある。いつでもどこでも一緒というのは、ミリュウにはできないからだ。さすがのミリュウも、セツナと一緒に風呂に入るということはできなかった。何度か挑戦しようとしたが、無理だった。すべてをさらけ出すというのは、恥ずかしいものだ。

 不意に、ラグナの双眸が開く。宝石のような目があざやかだった。

「もう朝かのう?」

 彼は、そう尋ねてくると、大きくあくびをした。ドラゴンもあくびをするものらしい。

「あんたも朝早いのね」

「わしをなんと心得ておる。ドラゴンは早寝早起きぞ」

「そうなの?」

「冗談じゃ」

 平然とそんなことをいってくるドラゴンに対し、ミリュウは半眼になった。

「なんなの、あんた」

「なんなの、とはなんじゃ、なんなのとは」

「あんまり騒がないでよ。セツナが起きちゃうでしょ」

「起きればよいではないか。もう朝じゃぞ?」

 ラグナが窓から差し込む光に目を細めながら言い返してきた。ここは泰霊殿ではなく、玄龍殿の一室であり、大きな窓がついていた。もちろん、開けっ放しで寝ていたわけではないが、窓の外からは陽の光が差し込んできていた。気温の低さは、秋が終わり、冬が訪れようとしていることを感じずにはいられない。

 時計は、午前六時を半分過ぎたところを示している。

「とはいっても、みんな寝ている時間よ」

「む……ならばわしも寝るぞ?」

「寝ればいいわよ」

「おぬしはどうするのじゃ? ミリュウ」

「あたしは用事があるから。セツナと昼まで寝ていたいっていう気持ちもあるけど」

「さすがのセツナも、昼前には起きるぞ」

 ラグナがあきれたような顔をしてきた。彼の言うとおりだ。いくらセツナでも昼間で寝て過ごすようなことはなかった。傷の療養中ですら朝のうちに起き、朝の挨拶に訪れる面々にも笑顔で応えるほどだったのだ。彼の朝は早い。少なくとも、ラグナよりは早起きだった。いつも七時までには起きている。今日も、じきに目を覚ますかもしれない。

「そうよねえ。たまには一日中寝ていてもいいのに」

「我が主は残念ながら休むということを知らんのじゃな」

「あんた、セツナのことよくわかってるじゃない」

「そうじゃろうそうじゃろう」

 ラグナがどことなく満足そうにうなずく。

 小さな飛竜がなぜそこまでセツナのことを慕っているのかは、ミリュウには皆目見当もつかない。ミリュウはラグナのことが嫌いではないが、仲がいいわけでもない。

 ラグナがセツナの下僕となってから半年以上が経過した。いまとなっては彼がセツナの側にいることが普通であり、いないことのほうが不自然とさえ認識してしまうほど、彼の存在を受け入れていた。ミリュウだけではない。従者仲間のレムはもちろんのこと、ファリアもルウファも、ほかの皆も、彼の存在を普通に受け入れていた。

 彼はドラゴンだ。この地上に生息するあらゆる生物の頂点に君臨する存在である彼が、セツナの下僕として振る舞っているという異常事態が正常なものとして受け入れられているのだから、奇妙という他ない。もっとも、いまの彼の姿は、万物の霊長たるドラゴンにはまったく見えないし、むしろ愛嬌に満ちた小動物にしか見受けられなかったが。

「ふふ。従者なら当然のことかしら」

「うむ」

「じゃあ、セツナのことは任せたわ」

「任せよ。わしと先輩がいるかぎり、主は安泰じゃ」

 先輩とは、レムのことだ。レムもまたセツナの従者であり、ラグナより先に従者となったことから先輩と呼ばせているのだ。レムも一時期セツナの寝床に忍びこんだり、常に彼の寝床を見張っていたりしたものだが、いまはそういうことはしなくなっていた。

 クルセルク戦争終結後――つまり、セツナと黒き矛による再蘇生後のレムは、以前にもましてセツナへの親愛を言動で表すようになった一方で、立場を弁えるようにもなっていた。彼女が従者として半歩引いた距離感を保つようになったことには、ミリュウも嬉しく想っていたりする。レムがセツナから離れるということは、それだけ、ミリュウがセツナに近づく機会が得られるということだからだ。

 もっとも、そうもいってはいられないこともわかっている。

「そうかもね」

 笑いながらうなずいて、ミリュウは、ラグナがもう一度丸くなるのを見届けた。それから、部屋を出る。物音を立てないように、慎重に、だ。

 彼はじきに起きるだろう。慎重に警戒するほどのこともない。それもわかっている。しかし、彼にはできるだけぐっすり眠っていてもらいたいという気持ちもあるのだ。

 セツナには、我儘を聞いてもらっている。

 それはセツナのためでもあるが、自分のためでもある。

 この静寂とともに頭の中を掻き乱す過去の残響を止める方法を探すためにどうするべきなのか。

 ミリュウは考えに考え抜いた末、ある結論を下した。結論を出すためには、決断をしなければならなかった。彼女にとっては耐え難い苦痛を伴う決断だったが、脳内を掻き乱す混乱を鎮めるとともに、新たなる力を得られるかもしれないという可能性があると思えば、乗り越えられるはずだった。

 セツナの寝室を抜け出したミリュウは、前方の壁際に直立不動で佇む人形めいた女を目の当たりにして、背筋が凍るような驚きを覚えた。危うく大声を発しそうになったのをぐっと堪えることができたのは、日々の鍛錬の賜物というよりは、たまたま偶然というべきだろう。

「おはようございます。ミリュウ」

 人形めいた女は、相変わらずの根暗そうな表情のまま、そしていつもどおりの無機的な声で挨拶してきた。人並み程度には会話や意思疎通が図れるのが、この人形の恐ろしいところだった。魔晶人形のウルクである。

 わずかに発光する両目が、彼女が完全に人外であることを証明している。

「お、おはよう、ウルク。ずっと、ここにいたのね?」

「はい。セツナを護衛するのがわたしの役目ですので」

 ウルクの答えはいつだって明快だ。セツナを主と仰ぎ、セツナを護るためだけにここにいる。納得できる理由があるといえばあるし、ないといえば、ない。

 ウルクの動力源となる魔晶石が、セツナの持つ特定波光なるものによってでしか起動できないからだ、というのが納得できる理由なのだが、その理由に納得できるかどうかといえば、微妙なところだ。ミドガルド=ウェハラムの一方的な言い分でしかないからだ。本当のところは、ウルクを研究開発したミドガルドにしかわからないし、彼がミリュウたちにすべての真実を明らかにする道理はないのだ。

「そ、そうだったわね。でも、扉の前に無表情で立っていられると、さすがのあたしでも驚くわよ」

 気後れしたのは、ミリュウにとってウルクという存在が未知の怪物にほかならないからだ。セツナ第一主義という点で見れば、レムやラグナと同じといえるし、自分とだって変わらないといえるかもしれない。しかし、彼女には感情というものがまるでなく、ラグナやレムと同じように接するわけにもいかなかった。どうにも、とっつきにくいというか、話しにくいのだ。話しかけても、返ってくる言葉にも表情はなく、面白みにかける。

 相手をしてもつまらない、ということだ。

「魔晶人形に表情を求められても困ります」

 ウルクの反応は、予想通り、なんの面白みもないものだった。

 しかし、ミリュウは、彼女を扉の目の前に立たせておくのも、セツナのためにもよくないことだと想い、会話を続けた。

「まあ、そうよね……そうねえ、扉の横に立っていたらどうかしら」

「扉の横?」

 小首を傾げる人形に、ミリュウは手で、寝室の扉の隣を指し示した。魔晶人形がすみやかに移動する。

「ここですか?」

「そうよ、それがいいわ。それなら、セツナも驚かないでしょうし」

「忠告、感謝いたします。ミリュウ」

「忠告ってわけじゃないんだけどね」

「はい?」

「ううん、なんでもないわ。セツナの護衛、任せたわよ」

「お任せください」

 ウルクは、力強くうなずくと、ガンディア式の敬礼をしてきた。ミリュウの知らない間に覚えたのだろう。ミリュウは、彼女の敬礼に敬礼で返すと、静かにその場所を離れた。

 しばらく歩いていると、セツナの驚嘆する声が聞こえてきたのだが、ミリュウは気にしないことにした。


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