第千百六十二話 リョハンからの使者(三)
「わたしはね、嬉しかったのよ」
逡巡の末、ファリアが絞りだすようにいってきたのは、そんな言葉だった。
「ん?」
話が繋がっていないように感じて、セツナは疑問符を浮かべた。
玄龍殿の玄関先とでもいうべき場所。セツナとファリア以外に人影はない。警備兵がいるはずなのだが見当たらないところを見ると、気を利かせて離れてくれたのかもしれない。セツナは龍府の領伯であり、天輪宮の主だ。警備兵としては、主の不興を買いたくなかったというところだろうか。いずれにせよ、正しい判断だといえる。
ほかにだれもいないから、思ったことをいえるのだ。
ファリアが、ようやくこちらを見た。緑の目が、妙に綺麗に見えた。いや、いつも見惚れるほどに綺麗なのだが、いまはなぜか、いつも以上に美しく感じられて、セツナは茫然としてしまった。
「セツナが、手を差し伸べてくれたでしょ」
「……ああ」
「護山会議の命令を無視し、リョハンでの居場所、リョハンとの関わりさえ失ったわたしに、君は居場所をくれたわ。《獅子の尾》という居場所を、わたしに示してくれた。わたしは、本当に嬉しかった。ここにいていいって、いってくれて。それだけで、わたしは救われたのよ」
ファリアが、セツナを見つめながら言葉を紡ぐ。その口から発せられる言葉のひとつひとつがセツナの耳朶に染み入り、心まで浸透していくかのようだった。彼女の感情が伝わってくる。本当に喜んでくれているのがわかる。それが、セツナには嬉しくてたまらない。
「わたしの居場所はここにあるんだって、思えた。信じることができた。だって、君の言葉だもの。君の言葉だから、わたしは全身全霊で信じることができるのよ」
「ファリア……」
「だから、ここにいるのよ」
ファリアは、自分の胸に手を当てて、いった。
だから、ここを離れられない、というのだろう。ここを、《獅子の尾》を離れてまで、リョハンに戻ることはできない、と。彼女の言い分もわかる。いいたいことも、伝わってくる。理解できる。でも、それでも、セツナには、そんな彼女だからこそ、リョハンに戻ってもらいたかった。もちろん、彼女の気持ちは嬉しいし、天にも昇る気持ちだった。
信じてくれている。
自分の言葉だから、全身全霊で信じてもらえている――そんな言葉を聞かされれば、涙が出るほどに嬉しくなるのも当然だった。
だから、セツナは口を開くのだ。
「だったら、俺の言葉に耳を傾けてくれてもいいんじゃないか?」
「……でも」
彼女は、目線を下げる。できない、というのだろう。セツナが説得にかかっているのがわかるから、受け入れられないというのだろう。受け入れるということは、いまのいままで話していたことすべてをひっくり返すことになりかねないから。
「たとえリョハンに戻ったって、ファリアの覚悟や決意が薄れるわけじゃないだろ? それとも、リョハンに戻ったら、もう二度と《獅子の尾》には帰ってこれないってのか?」
「そんなこと、一言もいってないでしょ」
「だったら、なにを迷うことがあるんだ?」
セツナは、ファリアに歩み寄った。俯き加減な彼女の目を見つめ返すには、下から覗きこむよりほかない。ファリアはセツナの思惑を感じ取ったのだろう。体ごと、セツナに背けた。
「だから……わたしは。わたしは――」
「大ファリア様に逢いたくないのか?」
問うと、彼女は勢い良くこちらを振り向いた。
「逢いたいわよ! すぐにでも顔を見せてあげたい。側にいてあげたいわ。でも、でもそれじゃあ駄目なのよ」
「駄目じゃないだろ」
「どうして? 君の側を離れたら、わたし……」
「離れたらなんだってんだ」
ぶっきらぼうに、いう。
本当に、それがどうしたというのだろう。それが、なんだというのだろう。もちろん、ファリアにとっては至極重要な問題だということは、わかるのだ。きっと、それがいまの彼女の心と行動を縛るものなのだろうということも、なんとはなしに理解する。
しかし、セツナには些細な問題にしか、思えない。
それはきっと、セツナがファリアではない他人だからなのだろうが。
「え……?」
「俺の側を離れたとしても、ファリアの居場所がなくなるわけじゃないだろ」
「セツナ……」
「居場所ならここにあるさ。そうだろ?」
セツナは、自分の胸を指し示しながら、いった。居場所とは、物理的な空間の話ではない。もっと、精神的な話だ。セツナの求める居場所も、そうだ。欲しているのは、求めているのは、物理的、物質的な居場所のことではなかった。自分が必要とされる状況、状態こそ求めていて、物理的、物質的な居場所は、本質的にはどうでも良かったりする。なくてはならないものなのは間違いないのだが。
ファリアが、茫然とこちらを見ていた。
その開かれた両目には、なにが映っているのだろう。そんなことが気になりながら、セツナは、さらに問うた。
「それとも、俺の言葉は信じられない?」
ファリアは、はっとしたようだった。声を絞りだすようにいってくる。
「……なにを、いうのよ。いまさっき、いったでしょ。君の言葉だから信じられるって」
「だったら、信じてくれるよな」
「……信じる。信じるわよ。当然でしょ」
不機嫌そうな言い方だったが、その言葉に嘘がないのは、セツナにもわかった。
それから、不意に心配そうな顔になった。
「でも、本当にいいの? わたしがいなくなっても、大丈夫なの?」
その表情、声音は、既にいつものファリアのものだった。
「隊のことならルウファがなんとかしてくれるだろうし、それ以外のことならレムがいる。たぶん、おそらくだけど、心配ないよ」
「たぶん、おそらくじゃ心配なのよね」
「だよなあ……俺がもう少ししっかりしてたら、なんの問題もないんだけど」
「ふふ……セツナはしっかりしてるわよ」
ファリアが口に手を当てて笑った。穏やかな笑顔。やはり、彼女には笑顔が似合うのだと、セツナは惚れ惚れしながら想った。
「そうかな?」
「そうよ。だから、わたしは君を信じられる」
「ありがとう」
「それはわたしの台詞よ。セツナ」
そういって、彼女は、両腕を伸ばしてきた。そのまま、抱きしめられるのに抗いもしない。当たり前だ。抗う必要は、どこにもなかった。
「ありがとう」
耳元で囁かれた言葉の柔らかさに、セツナは目を閉じた。そのまま聞き入りたくなるくらいに穏やかで、優しい声だった。
しばらくして、セツナはファリアの腕の中から解放された。もうしばらく彼女に抱きしめられているのも悪くないと想ったのだが、ふと見上げると、彼女が赤面しているのがわかって、仕方ないと諦めた。らしくない行動に、ファリア自身が恥ずかしくなったのだろう。
「わたし、行くわ。リョハンに。お祖母様のところに」
「ああ。それがいい」
「お祖母様に顔を見せたら、すぐに戻ってくるから」
「そんなに急がなくていいよ。できるだけ、側にいてあげたほうがいい」
「でも、そう長い間隊を留守にはできないわ。副長の負担も考えるとね」
「……それもそうか」
うなずきながら、やはり自分の不甲斐なさを想い、セツナは打ちひしがれたりした。こういうとき、セツナは自分の無力さを痛感する。一方で、事務仕事や雑務をほかに放り投げているから、戦いに専念できるのだとも考えているのだが。
「でも、もし、もしかしてよ」
「うん?」
「リョハンがわたしを手放さなかったら、どうするの?」
それは、ファリアがリョハンに戻るのを渋っていた理由のひとつでもあるのかもしれない。
ファリアは、リョハンの戦女神ファリア=バルディッシュの実の孫であり、ファリアという名を与えられたことからもわかる通り、リョハンでは戦女神の後継者として見られている、らしい。戦女神とは、リョハンにおける精神的支柱であり、リョハンの指導者でもあるという。リョハンがヴァシュタリアの勢力圏で独立不羈を貫けるのは、ファリア=バルディッシュの戦女神という名に相応しい働きがあったからであり、以来数十年、リョハンは戦女神を頂点とする世界を維持し続けている。
その戦女神が倒れたのだ。
リョハンが、大ファリアを見舞うために戻ってきたファリアを、つぎの戦女神として擁立する可能性も考えられなくはなかった。
ファリアがいっているのは、そういうことだろう。
「そのときは、俺が連れ戻しに行くよ」
セツナが告げると、ファリアは目をぱちくりとさせた。
「リョハンまで?」
「飛んで行くさ。ルウファを酷使してでも」
「副長が可哀想よ」
「だったら、俺ひとりで跳んでいく」
「……その結果、リョハンが敵に回っても?」
「関係ない。ファリアは、《獅子の尾》の隊長補佐なんだぜ? 連れ戻すのは当然だろ」
とはいったものの、セツナは、彼女が《獅子の尾》隊長補佐だから連れ戻したいわけではなかった。ファリアだからだ。しかし、そんなことは照れくさすぎていえるわけもなく、そういう風にいうしかなかった。しかし、それでも彼女にはいいたいことが伝わったらしい。
「うん。わたしの居場所は、ここよね」
「そうだよ」
「セツナ。ありがとう」
再び感謝されて、セツナはどぎまぎした。
「これで、どこにいっても安心していられる気がする」
「そっか。それなら良かった」
「心配ばかりかけてごめんね」
「それはこっちの台詞、かな」
セツナがいうと、ファリアは吹き出した。
「そうかも」
しばらく笑いあったのち、セツナはいった。
「リョハンについたら、ファリア様によろしく伝えておいてくれ。一日も早い回復を、遠いガンディアの地から祈ってる、ってな」
「うん。ちゃんと伝えておくわ」
「それから」
「うん?」
「お孫さんの居場所は確保してるってな」
「ふふ……お祖母様の驚く顔が目に浮かぶわ」
ファリアがにこやかに笑った。
風が吹く。
冷ややかで、穏やかな風が、吹き抜けていく。
風に煽られて天を仰ぐと、やはり雲ひとつない青空がこちらを見下ろしていた。