第千百六十一話 リョハンからの使者(二)
「ここまで聞いても、リョハンには帰れない、とでもいうのかい?」
マリクが、静かに尋ねる。
深刻なファリアの表情とは対照的に、マリクの表情は穏やかなものだ。とても十代半ばの少年の見せる表情とは思えなかった。老成している、とでもいうのだろうか。ファリアを見つめるマリクの表情は、ファリアよりも何歳も、何十歳も年上に見えた。実際の年齢は、ファリアのほうが十歳近く年上だというのにも関わらずだ。
「わたしは、ガンディアの、《獅子の尾》のファリアなんです。リョハンとはもう関係がない」
「そういうと思ったよ。話に聞いた通り、融通が効かないひとだな」
「なんといわれようと、決めたことなんです」
ファリアは、強くいった。苦しそうな表情は、彼女がその言葉を発するために無理をしているのではないかと思わせ、セツナは、つい、ふたりの会話に割り込んだ。
「ファリア」
ファリアの目とマリクの目が、ほとんど同時にセツナに刺さる。ファリアの鋭いまなざしと、マリクの穏やかな日差しのような視線。対照的な両者の視線が、ふたりの立場を明確にするようだった。
「本当にそれでいいのか?」
「そうよ、お祖母様に会いに行ってあげたら?」
「セツナ、ミリュウ……わたしは……でも」
こちらを見る彼女の目に、迷いが生じた。逡巡の末、苦しそうにいってくる。
「迷惑は、かけられないわ」
「ファリア様、御主人様のことはわたくしどもでなんとでもなりますし、《獅子の尾》のことは、ルウファ様に任せてしまえばよろしいのですよ」
「え、お、俺ひとりに? い、いやあまあ、そういうことならなんとでもしますけど」
「そうじゃそうじゃ。なにがなんだかよくわからぬが、セツナのことならばわしに一任するがよいぞ」
「セツナはわたしが護りますので、安心してください」
レムが勝手なことを言い放てばルウファがそれを補足し、ラグナとウルクがそれぞれに放言する。すると、ファリアは、明らかに困ったような顔をした。どう対処すればいいのかわからないとでもいうような表情。混乱が、見て取れた。
「みんな……」
「皆もこういってるし、さ」
セツナがいうと、ファリアは、きっ、とこちらを睨んできた。
「わたしだって、いますぐ飛んでいきたいわよ! でも、でも……それじゃあ駄目なのよ。それじゃあなんのために覚悟したのかわからなくなるわ!」
だからごめん、とだけいって、彼女は泰霊殿を出ていった。ミリュウが呼び止めようとしたが、無駄に終わる。彼女は、既に玄龍殿への通路へと姿を消してしまっていた。
呆然とするミリュウと目を合わせて、セツナは頭を振った。それから、マリクに目を向ける。
「……意固地というか、頑固というか。まあ、わかっていたことではあるんだけど」
「それでも連れていきたいんだろ?」
「はい」
マリクは、にっこりと頷くと、すぐさま真面目な顔になった。
「大ファリアは、ぼくにとって大切なひとだから……最後の願いくらい、叶えてあげたいんだ」
「最後……」
「うん。もう、長くはないんだよ」
マリクの深刻なまなざしは、彼が大袈裟にいっているわけではないことを告げていた。脳裏に浮かぶのは、今年の始め、クルセルクの地で出逢ったときの、健康そのものといった様子のファリア=バルディッシュであり、あれから一年足らずで倒れるなどとは、想像のしようもなかった。
若く優秀な武装召喚師たちと比べるまでもないくらいに凄まじい強さを見せつけ、ルウファをして驚嘆させ、畏怖さえ抱かせたという。
セツナは、残念ながらファリア=バルディッシュの戦いを目に焼き付けることはできなかったものの、話だけは聞いて知っていたし、マリクたち四大天侍が尊敬して止まないほどの武装召喚師ならば、その実力は疑うまでもないと思っていた。
人柄は、想像していたものとはまったく違って、自由奔放とか天真爛漫といった言葉がよく似合う女性だったことを覚えている。
「時間がないんだ。一秒でも早く、リョハンに戻りたい。戻って、あのひとの側にいたいんだ。でも、それはぼくの役目じゃない。家族が、側にいてあげるべきなんだ。それが、人間というものだよね?」
「……わかった。ファリアと話してくる」
「ありがとう」
「気にすんな。マリクには世話になったからな」
セツナは、マリクの肩に軽く手を触れ、笑いかけた。世話になった、というのはファリアの誕生日プレゼントのことだ。マリクは注目通りの品を届けてくれている。そのことにはセツナのみならず、ミリュウやファリアまでも感謝していた。
もちろん、仮にそんなことがなかったとしても、セツナはファリアの説得に向かっただろうが。
「小ファリアのこと、よろしくお願いします」
しおらしいマリクの態度に、セツナは、面食らいながらもうなずき、踵を帰して泰霊殿を出た。
ファリアの向かう場所などわかるはずもないが、天輪宮の外に飛び出したとは考えにくい。
ファリアは、先程の言動からもわかる通り、立場や規律、掟といった秩序に縛られている。
だからいますぐリョハンに飛んで帰るという選択肢を取れない。本当は、すぐにでも飛んでいきたいはずだ。マリクの翼に掴まって、一瞬でも早くリョハンに戻り、祖母の顔を見てあげたいはずだ。側にいてあげたいはずなのだ。しかし、立場が彼女の行動を縛っている。
(いや、心か……)
セツナは、玄龍殿への通路を駆け抜けながら、胸中でそう考えなおした。
ファリアは、玄龍殿ではなく、玄龍殿を抜けた先にいた。玄龍殿の外であり、天輪宮の敷地内――庭とでもいうべき空間で、ひとり空を見上げていた。
見事なまでに晴れた空だった。雲ひとつない滲んだような青空は、澄んだ水面を思わせる。太陽は昇っているものの、日差しは柔らかく、穏やかだ。十一月も終わろうとしている。冬も間近ということもあって、これだけ晴れていても妙に肌寒かった。一応、着込んではいるのだが、それでも肌の露出した部分に触れる風の冷たさを誤魔化すことはできない。
「わたしは、ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリアなのよ」
ファリアが突如として口を開いたのは、気配でセツナの接近に気づいたからなのだろう。肯定する。
「ああ。知ってるよ」
「ゼノンってね、王宮召喚師なのよね。ガンディアの」
「ルシオンの王宮召喚師も、そういうらしいな」
「陛下の真似よ。だって、ゼノンなんて称号、陛下が考えるまでこの世に存在しなかったんだもの」
王宮召喚師は、ファリアのいう通り、レオンガンドが考えだした称号だ。ログナー戦争で活躍したセツナのために急遽新造したものであるといい、《獅子の尾》同様、いかにセツナがレオンガンドの寵愛を受けているかがわかるというものだった。そのことを想うたびに、セツナはレオンガンドへの忠誠を新たにするのだが、いまもそうだった。王宮召喚師は、セツナ以外にも、ルウファ、ミリュウ、ファリアがそれぞれ拝命している。
ガンディアには、この四人以外には武装召喚師がいないというわけではない。王宮特務にはカイン=ヴィーヴルがいるし、術師局には十人ほどの武装召喚師が所属している。しかし、それらは王宮召喚師ではなく、ただの武装召喚師だった。王宮召喚師とは、騎士に匹敵する称号であり、武装召喚師ならだれもが与えられるものではないのだ。それ相応の功績を残したものに与えられる、名誉ある称号だった。
レオンガンドの創作である。最初は、なんの歴史的価値も持たなかった称号も、時を経て、強烈な力を持つものとして認識され始めていた。その証拠が、ルシオンの王宮召喚師の存在だ。ルシオンの王宮召喚師は、クルセルク戦争後に任命されており、ガンディアの影響を受けていることは疑いようがない。
「それだけ、ハルベルク陛下がレオンガンド陛下の影響を受けているってことだよな」
「ええ。影響を受けることは別に悪いことじゃないわ。将来的には、ゼノンも王宮召喚師も、ルシオンだけでなくて、普遍的なものになっているかもしれないもの」
「かもな」
「きっとそうよ。だって、ガンディアが歴史を紡いでいく限り、ゼノンの名は特別なものにならざるをえないもの」
「そうだな」
ファリアの断言に、セツナは微笑を浮かべた。彼女は、クルセルク戦争後に与えられたその名をいたく気に入っているようだった。気に入っている、というよりは、誇りに思っている、というべきだろうか。そういった感情が、言動の端々に見えて、それがセツナには嬉しくてたまらなかった。
そのセツナの感じ方が間違いではなかったことが、彼女の言葉によって証明された。
「わたしは、このゼノンという名にも、立場にも誇りを持っているわ。君と一緒に戦ってきて、ようやく認められたという証だもの。そしてこれがわたしなのよ。わたしの居場所、わたしの立ち位置、わたしの存在意義。その立場を放棄して、いまさらどんな理由があっても、リョハンに帰るなんて、できるわけがない」
「うん……」
静かに、うなずく。
ファリアの考えもわからないではない。いや、むしろ、理解できるから、強くはいえないのだ。彼女には彼女の考えがあり、想いがあり、人生がある。そこに強引に踏み込むことは、躊躇せざるを得ない。善悪が明確なことならばまだしも、世の中には、善悪で割り切れることばかりではない。
今回のこともそうだ。どちらが正しい、どちらが悪い、ということではない。どちらも正しいのだ。祖母の容体を見舞わせようというマリクのはからいも間違ってはいないし、立場に殉じることに拘っているファリアの考え方も、間違いとは思えない。それでも、セツナはファリアを説得しようとしているのは、それが正しいからとか、そういうことではなかった。
ファリアに後悔してほしくなかった。
祖母が倒れたのだ。それも、回復の見込める病などではなく、老いによる衰えが原因だという。しかも、マリクの見立てでは、長くは持たないらしい。
死ぬかもしれない、ということだ。
ここで彼女がリョハンに戻らないという選択をすれば、親の、祖母の死に目に会えなかったということを後悔する事になるに違いなかった。それも、一時ではない。一生引きずっていくことになりかねない。
「わたしはね、リョハンの、護山会議の命令を無視したわ。覚えてる?」
「もちろん、覚えてるさ」
エンジュールでの出来事だ。
セツナがはじめて領地として賜った地は、温泉街だった。そのエンジュールが誇る温泉に浸かっていたとき、ファリアが追い求める仇敵であるところのアズマリア=アルテマックスが現れた。ファリアは、当時、既にアズマリア討伐から外されていて、アズマリアと戦うことさえ禁じられていた。しかし、アズマリアを目の当たりにした彼女は、自分を止めることができなかった。護山会議の命令よりも、自身の感情を優先したのだ。リョハンの使者であるクオール=イーゼンがファリアを制止したものの、ファリアは、彼の制止をも振り切った。そうしなければ、ファリアはファリアでいられなかったのだろう。
それもまた、彼女が彼女である所以だ。
心が、彼女の考えを縛り付けていた結果だ。
「覚悟の末の行動なのよ。後悔はないわ」
ファリアは言い切ったが、それが本心なのかどうか、セツナには判断のしようもない。神ではないのだ。他人の心の奥底まで覗き込めるわけでもない。
「だから、戻らないってのか?」
「いったでしょう。いまリョハンに戻ったら、なんのための覚悟だったのか、意味がわからなくなる」
「たとえそうだとしても、大ファリア様を見舞わなきゃ、絶対に後悔すると思う」
「……でも、それでも、わたしは……」
ファリアの声には、逡巡があった。
だから、セツナは、彼女の思いの丈をすべて聞き届けようと思った。