第千百六十話 リョハンからの使者(一)
話は遡って十一月二十六日。
セツナは、レオンガンドらとともに龍府に到着した。
アバード王都バンドールで行われたセイル王の戴冠式から六日。レオンガンド以下、ガンディア関係者はだれひとり欠けることなくガンディアの地に帰ってきたのだ。
龍府に到着したとき、セツナが唖然とするほどの熱烈な歓迎ぶりだったのだが、天輪宮に到達後、どうやらそれを画策したのが司政官ダンエッジ=ビューネルだということが判明して、セツナは苦笑したものだった。つまり、龍府の人々が心から歓迎したのではなく、ダンエッジの仕込みによるものだったということだ。
『陛下へのセツナ伯の心証を少しでもよくしておこうと思ったのですが』
とは、ダンエッジの弁。
彼なりの気遣い、心遣いであろう。
セツナは、もちろん、ダンエッジに感謝しながらも、今後は、このようなことはしなくていいといっておいた。ありがたいことだが、照れくさいことでもあった。特に、レオンガンドよりも声援が大きかったことには、恥ずかしさが先に立った。
レオンガンドたちは、翌日には龍府を出発する予定だったが、セツナたちは、ガンディオンを出発する前から決めていた通り、龍府に残ることにしていた。もちろん、レオンガンドには了解を取っている。いくら領伯とはいえ、突然龍府に滞在する、などといえるわけもない。
龍府での滞在はミリュウの望みであり、彼女の望みを叶えるというのが一番の目的だったが、それ以外にも、龍府の領伯としての仕事をしようという魂胆もある。もっとも。
『セツナ伯様におかれましては、なにもしていただかなくてもまったくもって問題ないのですが』
容赦のないダンエッジの一言が、セツナのやる気を限りなく減退させたのはいうまでもない。
龍府に到着したセツナたちがまず行ったことといえば、天輪宮への直行だった。天輪宮は、古都龍府を代表する歴史的建造物であり、龍府の中心として知られる場所でもある。泰霊殿を中心として東西南北にひとつずつ、合計五つの殿舎があり、それぞれに権威的かつ享楽的な外観を見せつけている。
そのうち、中心の建物であり、通常は龍府の主たるセツナが利用している泰霊殿は、レオンガンドの宿所として利用されることになっていた。これは、バンドールに向かっていたときと同じであり、セツナは国王と同じ殿舎で寝泊まりするということを無礼として、玄龍殿の一室に自室を設けた。元より天輪宮には空き部屋が多い。特に天輪宮がセツナの所有物となってからはその傾向が顕著であり、セツナの関係者が利用している以外の部屋は、ほとんどが空室となっているといっても過言ではなかった。つまり、どの部屋を利用しても問題はないということだ。
ともかく、セツナは、レオンガンドを泰霊殿まで送ると、玄龍殿へと向かった。玄龍殿の自室で休もうと思ったのだ。
しかし、泰霊殿と玄龍殿を繋ぐ通路へ至ろうとしたセツナを予想もしない事態が待ち受けていた。
「ぼくを無視してどこへ行くのさ」
棘のある声には聞き覚えがあった。はっとして振り返ると、幼さを残した少年が、泰霊殿の通路の壁にもたれて立っていた。彼がだれなのかは、一目見た瞬間にわかった。マリク=マジク。リョハンの戦女神ファリア=バルディッシュに従う四大天侍のひとりであり、その圧倒的な実力は、セツナの記憶に鮮烈に焼き付いている。
「マリク!?」
「無視もなにも、なんでここにあんたがいるの?」
ミリュウが、驚きながらも問いかける。その場には、セツナ以外にも、ミリュウ、ファリア、ルウファ、レム、ラグナ、ウルクといった面々がいた。シーラたち黒獣隊は紫龍殿に入り、シドニア戦技隊は双龍殿に入ったため、この場にはいない。レオンガンドに付き添ってきただけなのだ。あまりにぞろぞろとついていくのもどうかというレオンガンドの意見もあり、セツナは私設部隊の二隊にそれぞれの殿舎にて待機するよう命じた。シーラは不服そうだったが、エスクはこれでゆっくりできると喜んでいた。
「なんでって、用事があるからに決まっているでしょ」
マリクが、当然のようにいう。相変わらずの態度は、クルセルクで逢ったときとなんら変わらなかった。
「そりゃまあそうだろうけどさ。リョハンの四大天侍様が、だれになんの用事なのよ?」
「小ファリアにだよ」
「わたしに……ですか?」
「うん。とても大事なお話」
マリクは、そういうと、めずらしく生真面目な顔をした。いつものほほんとしていて、なにを考えているのかわからないような表情ばかり浮かべている印象のある彼が、少しでも真面目な顔をすると、それだけで雰囲気が変わった。だから、だろう。セツナは、胸がざわつくのを認めた。横目にファリアを見ると、彼女も不安そうな表情をしていた。
四大天侍のマリク=マジクが、ファリアに名指しで用事があるというのだ。ファリアに関連するなにごとかが起きたのは間違いなかった。通路の空気そのものが、緊張した。
「端的にいうとね、大ファリアが倒れられたんだ。戦女神様がね」
「倒れた……!? お祖母様が……!?」
ファリアが衝撃の余り、言葉を失うのも当然だった。
「ファリア様が!?」
「嘘でしょ……」
セツナやミリュウでさえ、衝撃を受けた。レムもルウファもだ。ファリア=バルディッシュを知っているものならば、当然の反応だろう。ラグナとウルクだけが話題に取り残されていたが、それも仕方のないことだ。ラグナもウルクもクルセルク戦争の内容こそ知っていても、ファリア=バルディッシュや四大天侍たちには逢ってもいないのだ。マリクから話を聞いても、正直、なんとも言い様がないだろう。
大ファリアこと、ファリア=バルディッシュは、ファリアの実の祖母であり、リョハンにおいては戦女神と謳われるほどの人物だ。アズマリア=アルテマックスの高弟のひとりであり、武装召喚術の黎明期から今日に至るまで、最高の武装召喚師のひとりとして挙げられている。なにより、リョハンの最高指導者であり、リョハンを取りまとめている人物でもあるのだ。そんな人物が倒れたとあれば、衝撃を受けるどころの騒ぎではない。
「嘘なんかじゃないよ。九月の頭くらいからね、体調が良くないってよくいっていたから、心配していたんだけど、今月に入った途端、倒れられてね……。大事はなかったけど……いまも床で臥せられている。あまりいい傾向じゃない」
マリクは、そういっている間、神妙な顔つきを崩さなかった。声音も、いつものような奔放さからは考えられないほどに低く、どこまでも沈んでいくかのように重い。マリクが、ファリア=バルディッシュに甘えているような光景を思い出して、セツナは目を伏せた。彼にとってファリア=バルディッシュがどういった人物だったのかなど想像するしかないのだが、その想像だけでも胸に迫るものがあった。
「本当……なんですね?」
ファリアが、慎重に尋ねる。その声は、震えていた。当然だろう。ファリアにとって、大ファリアとは戦女神である以前に祖母であり、肉親なのだ。
「本当だよ。だから、ぼくがここに来た。君を連れていくためにさ」
「わたしを……連れて?」
「小ファリアに逢わせてあげたくてね」
「それで、リョハンからここまで?」
ファリアは、マリクの目をじっと見つめていた。目をそらさす、しかし、その姿は妙に心細そうに見える。ミリュウが、彼女の手を握っていた。ファリアの不安そうな様子が心配になったのだろう。
「急いできたよ」
彼は、何気なしにいってのけたが、リョハンから龍府まで簡単に移動できる距離ではない。
リョハンは、大陸小国家群にではなく、大陸北部を支配下に置くヴァシュタリア共同体の勢力圏に存在する自治都市だ。龍府からリョハンまでの距離は、龍府からガンディオンまでの距離の何倍もあるといい、道の険しさなども考慮すると、往路だけで数ヶ月はかかるだろうという。そんな距離を数日足らずで移動できるのは、マリク=マジクくらいのものなのだろう。彼は、長距離移動を得意とする召喚武装レイヴンズフェザーをクオール=イーゼンから受け継いでいる。レイヴンズフェザーの能力と、マリクの武装召喚師としての実力が合わさったのだ。龍府とリョハンを行き来するくらい、簡単なことかもしれない。
マリクは、黒き矛に内包された力をセツナ以上に引き出したこともあった。無論、セツナとクオールでは武装召喚師としての実力は比較しようもないのだが。なんにしても、マリクならば、レイヴンズフェザーも使いこなせているに違いない。
「残された時間がどれほどのものか、わからないから」
「そんな……そんな不吉なこと、いわないでくださいよ」
ファリアが自分の胸を押さえながら、マリクを睨んだ。マリクは、ファリアのまなざしにも、表情ひとつ変えない。
「ぼくだっていいたくないさ。でも、本当のことだ」
「それにしたって、言い方くらい考えてもいいんじゃないの?」
「言い方を変えたって、事実はなにも変わらない。言葉でいくら装飾したって、現実を覆さえるわけじゃない」
「それもわかるけどさ……」
ミリュウはなおも食い下がろうとしたようだが、ファリアが彼女の手を引っ張ったことで、言葉を引っ込めざるを得なくなった。ファリアが、ミリュウを見つめながら、微笑んだ。
「いいのよ、ミリュウ。気を使ってくれてありがとう」
「ファリア……あ、あたしは別に……」
ミリュウは、ファリアの笑顔に耐えられなくなったのか、顔を背けた。
ファリアはしばらく彼女を見て微笑んでいたが、やがてマリクに目を向けたときは、その表情から笑みが消えていた。
「マリク様、大ファリア様が倒れられたのは、どういう理由なのか、ご存じですか?」
「もちろん、知ってるよ。それを聞いてどうする? 理由次第で行く行かないを決めるつもり?」
「そういうことでは――」
「まあ、知りたいよね。わかったよ。教える」
マリクは、ファリアが大声を上げかけたのを制すると、ゆっくりといった。
「大ファリア様が倒れられた原因は、病でもなんでもないよ。老いによるものなんだ」
「老い……?」
「そう。老い。ひとはだれしも老いるもの。大ファリアも、人間だからね。当然、老いていく」
静かに語るマリクの姿は、十代の少年であるのに、なぜか何十年、何百年も生きているもののように見えてならなかった。
セツナは目をぱちくりさせながら、マリクの話を聞いた。
「病なら治る。治れば元通り、元気にもなるだろう。けど、老いは止められるものじゃない。時間は止まらない。巻き戻すことなんてできるわけがないない。ひとは、生まれた以上、ときとともに老い、死に向かっていく。生物として当然のことなんだ。でも、だから」
「だから、わたしを……」
「そう。逢わせてあげたいんだよ。あなたは、あのひとの数少ない家族だから。せめて」
「……わたしは――」
ファリアは、言葉を区切ると、こちらに目を向けてきた。潤んだ目には、迷いが見える。なにを迷っているのか、セツナは即座に理解した。
ファリアは、リョハンには帰れないと考えているに違いなかった。ファリアは以前、リョハンを統治運営する護山会議の決定を破ったことがある。アズマリア討伐任務から外されたにも関わらずアズマリアを攻撃したことで、ファリアは、リョハンとの関係を断たれることになったのだ。その結果、ファリアは居場所を失ったが、セツナはそんな彼女に手を差し伸べた。クオールとの約束もある。
セツナは、彼女の居場所としての《獅子の尾》を護らなければならなかった。