第千百五十六話 獅子と矛(二)
「陛下」
セツナは、上体を起こすと、みずからの首に触れた。
まだ痛みは残っているが、支障はなかった。当たり前のことだ。レオンガンドは常人であり、その膂力も人並み外れたものではない。もちろん、あのまま首を締められ続けていれば、窒息死したことは疑いようのない事実だが。
「俺は、陛下から居場所を与えてもらいましたよ」
「居場所?」
「はい。居場所。《獅子の尾》という居場所は、いまやかけがえの無いものです。俺にとってなくてはならないものになりました」
王立親衛隊《獅子の尾》は、レオンガンドがセツナのために設立してくれたといっても過言ではない組織だった。王立親衛隊は、王の盾たる《獅子の牙》と王の剣たる《獅子の爪》だけでも十分だったのだが、レオンガンドたっての希望で、《獅子の尾》が造られた。セツナの身の置き場所として、だ。そういう話を聞いているから、セツナはレオンガンドを敬愛してやまない。
「居場所など……君が実力で勝ち取ったものではないか」
「しかし、陛下が用意してくださったのは事実でしょう?」
「……君をガンディアに留め置くためだ」
「それが嬉しいんです」
「なにが――」
レオンガンドがこちらを振り返った。訝しげな表情は、セツナの心情がまったく理解できない故のものだろう。
「なにが嬉しいというんだ。わたしは君を、君と黒き矛を他国に渡したくないから、そうしただけのことだぞ。君のことなど、君の心情など顧みてもいない。ただ、ガンディアの利益のことだけを考えて、君をガンディアのものにしようとしただけだ。それだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「俺は、だれかに必要とされたかった」
セツナは、自分の胸に手を置いて、いった。
「ただ、それだけなんです」
自分の存在を必要としてくれるひとのいない世界にいた。
必要としてくれたのは母だけで、ほかのだれも、セツナのことを必要とはしていなかった。存在すら黙殺するひとばかりで、だから、居場所を探し続けた。ただひとり、クオンが彼に居場所を用意してくれたが、彼の側にいるということは、彼の庇護下にいるということであって、常に劣等感に苦しまなければならなかった。クオンは、純粋にセツナを必要としてくれたのかもしれないが、あの当時のセツナには、そんなことがわかるはずもなかったのだ。
この異世界でも必要としてくれるひとがいなければ、どこに行けばいいのか。
両方の世界で不要とされるのならば、消えてなくなるしかないのではないか。
「……セツナ」
「俺は、この世界の人間じゃない。そのことは、いいましたよね」
「ああ。聞いたよ。はじめて聞いたときは驚いたものだ。にわかには信じられなかったが、皇神や皇魔の例もある。あながちありえない話でもなかった」
「陛下は即座に信用してくださいましたよね」
「君の関心を買うためだ」
レオンガンドは、にべもなくいってくる。本心なのか、本心を偽るための言葉なのかは判断のしようがないが、セツナにはどっちでもいいことだ。あのとき、あの瞬間に抱いた感情がすべてであり、そこに偽りはない。
いまも持続する感情。
「でも、それでも嬉しかった。陛下は、俺の言葉を信用してくださっただけでなく、俺に手を差し伸べてくれた。俺には、それだけで十分だったんですよ」
あのとき、あの瞬間、レオンガンドが手を差し伸べてくれなければ、セツナは途方に暮れるよりほかなかった。異世界の存在だということで投獄され、処刑される可能性だってあったのだ。側近のひとり、ケリウス=マグナートはそう考えていたということを、あとになってセツナに教えてくれた。いまではセツナのことを信用し、敬服しているとはいっていたものの、当時のケリウスには、セツナなど皇魔と同じ異界の化物に過ぎなかったのだろう。その話でセツナがケリウスを嫌いになるわけもない。むしろ、正直に話してくれたことで好感を持てた。つい最近の話だ。
「本当に……本当にそれだけなのか?」
「はい」
「それだけで、今日までわたしに付き従ってくれたというのか?」
「はい」
「君は……本当に君という奴は、なんて男なんだ」
レオンガンドが、首を小さく振りながら、ため息まじりにいった。
「陛下?」
「済まなかった。君を少しでも疑ったりして、君を妬んだりして」
レオンガンドの告白が、セツナには衝撃的だった。疑われることもそうだが、妬まれているなど思っても見なかった。さらに、レオンガンドの口から、衝撃的な言葉が飛び出してくる。
「怖かったんだ」
「俺が……ですか?」
「ああ、そうだよ。君は、怖い。おそろしい」
レオンガンドが、言葉とは裏腹にわずかに微笑みを浮かべた。
「君は、わたしと君臣の契りを交わして以来、どんな命令にも従ってきた。わたしからの命令ならば嫌とはいわず、ガンディアのためとあらばどんな敵とだって戦ってきた。ログナー、ザルワーン、クルセルク……数えきれない戦いの中で、君はだれよりも多くの敵を倒し、だれよりも多くの血を流してきた。君ほど傷つき、君ほど敵を倒したものはいないだろう。それなのに、君はなにも求めず、なにも望まず、なにも欲さず、なにも、いわない」
「レムのこととか、シーラのこととか、色々いったはずですけどね」
クルセルク戦争後、再蘇生したレムの扱いについてレオンガンドに相談し、彼女をジベルからガンディアに引き取るという風にしてもらったのは、我儘以外のなにものでもないのではないか。シーラの扱いに関してもそうだ。アバードの元王女である彼女は、本来ならばガンディア政府なりなんなりが丁重に扱うべきであろうし、セツナの配下に加えるにしても、なんらかの処置が必要なはずだ。しかし、レオンガンドの配慮によって、シーラはガンディア政府とは無関係にセツナ配下の黒獣隊長となった。
我儘をいって困らせているではないか、と思うことが多々あった。だが、レオンガンドは、そんな風にいうセツナを見て、笑うのだ。
「君の功績に比べれば、些細なことだよ。むしろ、そうやってなにかしら要望をいってくれたことは、うれしかったのだ。君の要望を叶えるということは、それだけ、君がこの国に留まってくれるということになる。そう思えたからだ。だが、それでも、足りないだろう」
「足りない?」
「君の功績に比べて、君の要望はあまりに少ない。ガンディアの英雄と呼ばれる君ならば、もっと大それたことをいってきてもいいはずだ。なにを望んでも構わない。君の要望を叶えなければならない義務が、我々にはあるのだからな」
「そこまで、ですか?」
「そうだよ。君は、自分の功績について考えたことはあるか?」
「功績……」
「君は、これまでほかのだれにも真似のできない結果を残し続けてきている。君ほどの英雄は、人類の歴史が続く限り、今後二度と現れないだろうと言い切れるくらいには、凄まじいものだ。たとえば君がいくつかの領地を所望したとして、だれひとりとして反論できないだろうし、すぐに領地の選定を始めることになるだろう。不満や不服の声が上がることもあるまい。君がいなければ勝てなかった戦いがどれほどあるのか」
レオンガンドの賞賛は、セツナが反応に困るほど強烈で、熱烈だった。いままでも、何度だって褒めそやされてきた。レオンガンドにも、レオンガンド以外のひとびとにも、同じように強く、激しく、賞賛された。しかし、いくら褒められたところで、慣れるということはなかった。もちろん、褒められるだけのことはしてきたという自覚はある。きっと、レオンガンドのいうように、他人には真似のできないことを成し遂げてきている。ザルワーンの守護龍やクルセルクの鬼神など、ほかのだれに倒せたのか。もちろん、倒せたのには様々な要因があり、セツナひとりの力で打ち勝ってきたわけではない。が、それでも、同じ条件であっても、ほかのだれかに真似ができただろうか、と思える。
だからといって、褒められて当然、などとは考えられないところがセツナにはあった。だから、褒められるだけで嬉しいし、手放しで賞賛されると気恥ずかしさに身悶えさえしてしまう。
いまもそうだった。どういう顔をすればいいのかわからず、もじもじした。
「だというのに、君の望みというのは、きわめて個人的なことでしかない。割りに合っていないのだ。君がもっと願望をいってくれればいいのだが、君はなにもいってはくれない。だからわたしは君の関心を買うために必死に考える。君に領地を与え、領伯としたのもそれだ。龍府を与えたのも、君の願いを一も二もなく聞き入れるのも、それなのだ」
「陛下……」
「君になにが欲しいと問うても、いまのままでいいという。居場所さえあれば、それでいいという。その無欲さが、わたしにはたまらなく眩しいのだ」
レオンガンドは、セツナを見る目を細めていた。本当に眩しそうにしている。セツナには、わからない。セツナこそ、レオンガンドの目を眩しく感じている。セツナにとってレオンガンドこそが光だった。光を見ている。自分の手を見下ろす。当然だが、眩しくもなんともない。それどころか血に塗れ、赤黒く変色しているようにさえ思える。気のせいだ。血が取れないなどということはない。なかなか洗い落とせないことは稀にあるが、何日も染み付いているわけもなかった。
「眩しくて、少し、恐ろしい」
「それで、俺を試したんですか?」
「試した……か。君はなぜそうも前向きに捉えるのかな」
「はい?」
「ただの嫉妬なのだ。嫉妬ゆえの行動だよ。馬鹿げた、愚かで救い難い行動だ」
「嫉妬……」
「わたしは君にはなれない」
レオンガンドが頭を振った。その仕草、声音には懊悩が混じり、悔恨が潜んでいる。
「君のような英雄にはなれないんだ」
レオンガンドの言葉が、セツナの胸に刺さった。