第千百五十四話 姉と弟
静かに、ときが流れている。
とても穏やかで、心が安らぎを覚えられるくらいの静寂。
シーラは、彼女の太腿を枕にして昼寝をしている少年を見下ろしながら、その特徴的な白い髪を優しく撫で付けた。セイル・レウス=アバードという名の少年。シーラの実の弟だ。父が違うということを知ったのは、つい半年ほど前のことだが、だからどうだというのだろう。姉と弟という事実に変わりはなく、シーラがアバード王家を離れ、ただのシーラとなったいまでも、その関係を切り離すことなどできなかった。
そう、できなかったのだ。
十一月十九日。
シーラが徹底的に破壊したアバード王都バンドールは、ガンディアやベノアガルドの協力もあって、想像以上の速さで復興が進んでいる。さすがにすべてが元通りになったわけではないし、完全に復興するまでにはまだまだ時間も金もかかることだろう。しかし、一年、二年も経てば元通りになるのではないかというくらいの復興の速度だった。
シーラは、バンドールに来ることを躊躇った。
セイルの即位が決まり、戴冠式の日程までも決定したということを聞いたとき、その場に立ち会いたいとは思った。しかし、シーラにそんな資格があるわけもない。シーラは、母であり王妃であるセリス・レア=アバードの死も、父にして国王であったリセルグ・レイ=アバードの死さえも止められなかった。その上、王都を破壊し、それによって自分が殺されることですべてを終わらせようとした。
いまにして思えば、なんと卑怯なことだろう。
ただ、逃げようとしただけなのだ。
目の前の現実から目を背け、逃避するために命を絶とうとした、それだけのことなのだ。自分で自分を殺せないから、ひとに、セツナに殺してもらおうとした。他人を巻き込み、多くのものを破壊して、そうまでして自殺しようとした。
どうしようもなく愚かで、救い難いほどに卑劣な真似だ。
アバード王家の人間であることを辞めたのも、同じことだ。本来ならば、すべての責任を背負って、王女としての責務を果たすべきなのだろう。が、それからも逃げた。逃げてしまった。すべての重責をこの幼く、小さな弟に背負わせて。
いまさらのように、己の愚かしさを想い、呪いたくなる。
が、ここでさらに逃げてはだめなのだ。向き合わなくてはならない。現実を見つめ、目を背けず、自分のしてきたことを受け入れなければならないのだ。でなければ、シーラはさらに自分を許せなくなるだろう。
だから、バンドールへの同行をセツナに願い出た。セツナはあっさりと了承してくれるとともに、シーラのことを気遣ってくれもした。
『大丈夫なのか?』
たった一言が、嬉しかった。
シーラは、大丈夫だと答えた。本当のところはわからなかったが、そういうほかなかった。大丈夫ではないといった場合、セツナは同行を許してくれなかっただろう。セツナは、優しすぎるくらいに優しい。だからつい甘えたくなるし、依存してしまう自分がいる。それではいけないとわかっていても、セツナの優しさに包まれたくなるのも事実だった。
そういった己の弱さと決別するべく、シーラはバンドールの地を踏んだ。あらかた復興された王都の風景は、シーラが破壊し尽くしたときとは一変してはいたものの、彼女が王都に刻みつけた破壊の爪痕は未だ痛々しく残っていた。シーラは自分がしたことの重大さを噛み締めながら、それでも歓迎してくれる王都のひとびとに目頭が熱くなった。
シーラはいま、セイルの部屋にいる。
今日の昼過ぎ、シーラにセイルからの使いが来て、ふたりだけで話したいというセイルからの申し出があったのだ。相手は弟とはいえ、アバードの王子であり、次期国王だ。いくらなんでもシーラひとりで勝手に応じるわけいにもいかないとセツナに伺いを立てたのだが、彼は苦笑しただけだった。
『そんなことまで俺に決める権利はないよ』
今度はシーラが苦笑する番だった。
なにからなにまでセツナに話を通すようになったのは、現在の立場を考えれば当然のことだ。シーラは、黒獣隊の隊長であり、黒獣隊はセツナの私設部隊だ。ガンディアではなく、ガンディアの一領伯でありセツナにこそ忠誠を誓い、彼の指示通りに動くのがいまのシーラの役割だった。だから今回のこともセツナに聞いたのだが、セツナにしてみれば、そんなことまで構っていられないといったところかもしれなかった。
それから、こうもいってくれた。
『殿下に呼ばれたのがシーラだけなら、丁重に応じればいいさ』
シーラは、セツナの配慮に感謝して、セイルの呼び出しに応じた。
バンドール城は、シーラが破壊する以前とそっくりそのままに復元されたわけではない。再建というよりは再構築といったほうが正しく、以前のバンドール城とは色々な部分で大きく変わっていた。
バンドールは歴史ある都市であり、バンドール城もまた、何百年も前に建てられたものをそのまま使っていたのだ。復元することそのものは難しくなくとも、旧バンドール城建造当時よりも発達した技術を用いれば、より強固でより堅牢な城塞にすることも難しくはなく、今後歴史を積み重ねていくことを考えれば、元通りにするよりも新たな城を建てるほうがいいだろうという判断が下されたのだ。
以前の城と区別するため、バンドール新城と呼ばれているらしい。
シーラが案内されたのは、その城の奥まった一室だった。その広い部屋は、ほかの部屋と同様、飾り気というものがなく、質素で、まるで一般の人々が生活する空間のようだった。派手さときらびやかさを競い合うことにこそ命を燃やす王侯貴族の住居とは、とても思えなかった。
新城全体にいえることだが、それにも理由がある。新城を含め、バンドールは依然、復興の最中なのだ。そんな情勢下にあって、新城内部を飾り立て、王侯貴族の暮らしだけを良く見せるなど、いまのアバード王家にできるわけがなかった。そんなことをすれば、王都市民の反感を買うだけでなく、ガンディア政府からも白い目で見られるだろう。アバードは、王都の復興費用の多くをガンディアから提供されている。新城の再建が進んでいることをいいことに調子に乗ったりすれば、ガンディア政府からの資金提供が止まり、バンドールの復興すらままならなくなるかもしれない。そもそも、アバードは現在、ガンディアの支配下にあるのだ。ガンディア政府の機嫌を損ねるのは、得策ではない。
内乱によって戦力が低下したアバードが、現在、国土を保っていられるのは、ガンディアの庇護下にあるからにほかならない。ガンディアの支配を受け入れたということは、そういうことだ。ガンディアは、支配したアバードの領土を庇護する責任が生じたのだ。同時に、アバードはガンディアの命令に従う義務が生じている。
ガンディアは巨大な国だ。圧倒的な戦力と国力を誇るガンディアの庇護下に入るだけで、アバードの周辺諸国は、アバードに手を出せなくなった。シャルルムは、二度とアバードに手を出してはこないだろうし、ジュワインやマルディアがアバード領に攻め込んでくる可能性も極端に減ったとみていい。アバードに手を出せば、ガンディアが軍を差し向けるからだ。絶大な軍事力を誇るガンディアと敵対することなど、小国家を脱却できていない国々が考えるわけもない。
つまり、アバードはガンディアの支配を受け入れている限り、安泰ということでもある。そういう意味で、アバード政府がガンディアの被支配国となったのは正解だったのだ。その結果主権が失われ、国としての独立性が失われるのだとしても、国そのものが消え去るよりはましだ。
そんなことを考えながら、シーラは、セイルと対面した。セイルの待ち受けていた部屋には、彼と、彼の侍従、侍女たちがいた。侍従と侍女たちは、セイルの護衛も兼ねている。当然、武芸に秀でたものばかりであり、かつてはシーラの配下だった侍女も少なくはない。シーラの侍女団の中から引き抜かれたのだ。栄転といってもいいだろう。王子の侍女ということは、国王の侍女になるということなのだから。
数ヶ月ぶりの再会は、シーラを驚かせた。セイルは九歳になったばかりであり、まだまだ幼い子供だ。しかし、会えなかった数ヶ月の間に見違えるように成長していたのだ。
背はほとんど変わらないものの、顔つきが、少しばかり男らしくなっていた。
シーラは、セイルの前で畏まった。当然のことだ。相手は一国の王子で、シーラは、支配国とはいえ、その国の領伯の部下でしかない。身分が違いすぎる。
「シーラ殿、貴殿には領伯近衛という役目があるというのに、わざわざ呼び立てて済みません」
「いえ、殿下にご指名頂き、恐悦至極にございます。して、わたくしごときになに用でございましょう?」
シーラは、畏まったまま、慎重に尋ねた。相手の立場を考えながら、言葉を選んでいる。血の繋がった弟ではあっても、異国の王子様であるという事実を忘れてはならない。
そもそも、シーラは、セイルに対しては常に臣下の礼を取っていたも同じなのだが。
セイルは生まれながらの王位継承者であり、シーラは、セイルの誕生後、王位継承権を放棄した、ただの王女だった。つぎの国王に対し、臣下の礼を取るのは必然だった。求められれば姉として振る舞うこともあったが、大半はそうではなかった。
セイルは、少しばかり迷ったあと、シーラに尋ねてきた。
「……ふたりきりで話したいことがあるのですが、構いませんか?」
「わたくしは、構いませんが」
「では、皆、下がってくれ」
『は』
セイルの侍従と侍女たちは、セイルに一礼し、流れるような動作で部屋を出て行った。柔和な表情を浮かべる侍女の多さが、シーラへの信頼の現れのように思えて、彼女は嬉しくなった。アバード王家との関係は断ったとはいえ、過去の繋がりまでが失われるわけではない。
それは、シーラとセイルの関係にもいえることであり――。
「話というのは、ほかでもありません」
セイルが口を開いたのは、ふたりきりになって、たっぷり数分が経過してからのことだった。それまで、シーラは畏まったまま、時計の針が刻む時の旋律に耳を傾けたりしながら、セイルが話しだすのを待ち続けていた。セイルが話したいことがあるといってふたりきりになったのだ。シーラから話しかけるのは、憚られた。
「わたしは、明日、王になります」
「存じ上げております」
「この年で一国の王になるのは、荷が重いのではないかと想うのですが、ガンディアのアスタル将軍や、大臣たちが助けてくれるでしょうから、心配そのものはしていません。なんとかやれるでしょうし、やれなくとも、そこから学んでいけばいいのだと想っています」
セイルの言葉は力強い。彼にならアバードを任せていけるだろうと確信できる。まだ十歳にも満たない子供の言葉とは思えなかった。シーラが同じ年の頃のことを考えると、信じられないほどだ。だが、同時に痛ましくも想う。
そうさせたのは、自分ではないのか。
「しかし、ひとつだけ心残りがあるのです」
「心残り……ですか?」
シーラは、セイルのいう心残りに心当たりがなく、顔を上げた。彼は、こちらを見ていなかった。どこか、遠くを見ている。
「わたしには姉がおりました」
「……はい」
胸になにかが刺さる。柔らかく、抜けない棘。痛くはない。だが、苦しくはある。
「姉とは随分と年が離れていたのですが、わたしにとって姉は太陽であり、希望であり、女神であり、とにかく、必要不可欠な存在だったのです」
セイルの告白が胸を締め付けるようだった。
シーラは、セイルが自分のことを慕ってくれていることは知っていた。セイルのシーラ評を人伝手に聞くたびに頬を綻ばせたものだったし、面と向かって賞賛されたことも数限りなかった。そんな弟のことがシーラも好きで好きでたまらなかったし、だからこそ、シーラは彼のために戦うと決めたのだ。行く行くはアバードの王となる彼のために、彼の剣となり盾となるべく戦い抜いた。
それが仇となることも知らずに。
「その姉は、忽然と姿を消してしまった」
「殿下……」
「わたしは、姉に逢いたいのです。逢って、話したい。シーラ・レーウェ=アバードと、思う存分話したいのです」
セイルの言葉がシーラの心に響く。慟哭のようだった。苦しみ
「シーラ殿。どうか、わたしの願いを聞き入れてくれませんか? わたしは明日、王になります。王になれば、このような我儘はいえないでしょう。いまだからいえるのです。いまだけ、この瞬間だけは、姉に戻ってくれませんか」
「……まったく、我儘な王子様ですね」
シーラは、表情を緩めて、セイルの目を見た。セイルの顔は、既に子供のそれに戻っていた。
ずっと、無理をしていたのではないか。無理をさせすぎていたのではないのか。成長したのではなく、ただ無理をしていただけではないのか。両親を失い、たったひとりの姉が家を捨て、国を捨て、離れてしまったのだ。心寂しさたるや凄まじいものだったのではないか。孤独を感じていたのではないか。そして、そうさせたのは、シーラだ。シーラが、彼を孤独にしてしまった。
アバードが安定するまでは、側にいてやるべきではなかったか。
自分の価値観に囚われ、周りが見えていなかったのは、疑いようがない。
さまざまな感情がシーラを襲い、自責の念を駆り立てる。
「姉上……!」
セイルは感極まったのか、言葉を詰まらせた。
「セイル……」
シーラは、セイルに歩み寄ると、彼の小さな体を優しく抱きしめた。
それからシーラとセイルは、何年ぶりかの姉弟としての時間を過ごした。
次期国王と王女ではなく、ただの姉弟としての時間を、過ごしたのだ。
そのうち、セイルは、話し疲れたのか、シーラの太腿を枕にして眠りについた。その寝顔は安らかなもので、満足そうでもあった。
シーラもまた、満足感を覚えるとともに、こういった時間を持てたことを喜んだ。