第千百五十話 再びアバードへ
ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアがアバードを目指して王都ガンディオンを出発したのは、五百二年十一月一日のことだった。目的地はアバードの首都バンドールであり、その目的は、アバードの王子セイル・レウス=アバードが戴冠式を行うことに決まったからだ。アバードは、国王不在のまま数ヶ月を過ごしているが、それは、セイルがまだ若いというよりは幼く、王位を継承するには早過ぎるという様々な判断からそうなっていたのだが、アバード国民からのセイル王子の即位を求める声が異様なほどであり、このままでは暴動に発展しかねないというアバードからの悲鳴を聞いたガンディアがそれを了承するという形になった。
なぜ、アバード国王の即位にガンディアの許可が必要なのかといえば、簡単な話だ。アバードは、いま、ガンディアに属しているからだ。いわゆる属国のひとつであり、ルシオン、レマニフラ、ジベルのような同盟国とは違い、多くのことにおいて支配者であるガンディアの判断を仰がなければならなかった。
もちろん、属国になったことは悪いことばかりではない。ガンディアはバンドールの復興支援に多額の資金や人員を提供していたし、国土防衛のための戦力を供出してもいた。アバードはそのことをガンディアに感謝しているようであり、アバード人のガンディアへの印象はそれほど悪いものではないらしい。そもそも、ガンディアがアバード動乱に首を突っ込んだときも、シーラ姫の救援というお題目を掲げており、アバード国民から一定の支持を得ている。アバード動乱があのような結果に終わったとはいえ、ガンディアに対する印象が悪くなるということはあまりなかったようだ。
「セイル王子の即位か。まだ早いと想うのだがな」
アバードへの道中、馬車の中でレオンガンドはつぶやいた。属国の王子が王位を継承するに当たって、支配国の王であるレオンガンドがみずから出向くのは当然のことだったし、その事自体は、彼としても問題にもしていなかった。
ガンディアはいま、落ち着いている。問題はいくつかあり、どれも重要な案件ではあったが、表面上、安定していると言っても過言ではない。いくつかの問題のうち、もっとも重要なひとつを動かすためにも、国を空けるというのは必要なことかもしれないのだ。
内憂を完全に断つ。そのためには、だれが敵でだれが味方なのかを明らかにする必要がある。
敵を見出すためにも、敵に自由を与えるというのも悪くはないのではないか。自由に動き回らせることで、敵か味方かを判別する材料になりうるのではないか。
そのため、レオンガンドは今回、アバードにはジゼルコートを連れて行かなかった。
ジゼルコートは、仮想敵といってもいい。彼にはベノアガルドと繋がっているという疑いがあり、そうである以上、本来ならば野放しにはできないのだが、監視下に置いたところで尻尾ひとつ掴めないということであれば、自由に振る舞わさせてみようと思ったのだ。もちろん、ジゼルコートが同行しないことには、ちゃんとした理由がある。同盟国ルシオンの国王ハルベルク・レイ=ルシオンの戴冠式には、ジゼルコートが参加し、もうひとりの領伯であるセツナは参加しなかった。今回こそはセツナを連れて行きたかったということもあって、ジゼルコートには遠慮願ったというわけだ。ルシオンは同盟国で、アバードは属国だ。同盟国の王の戴冠式には領伯ひとりしか参列せず、属国の王の戴冠式には領伯揃い踏みでは、同盟国への聞こえが悪い。政治的配慮の重要性は、ジゼルコートほどのものならば理解できないわけもなく、彼はセツナがレオンガンドらに同行すると決まった瞬間には、自分が王都に残ることを認識していたようだった。不満を持つこともない。むしろ、ルシオンより余程遠方であるアバードが若いセツナであってよかったと心底ほっとしているようなことをいってきたものだ。ジゼルコートは高齢だ。長旅は遠慮願いたいというのは、嘘偽りない本心だろう。
もっとも、長旅を遠慮したいという本心とは別の思惑を持っていたとしてもなんらおかしくはないし、だからこそ、レオンガンドは彼を王都に置いた。ジゼルコートの監視のためにアーリアも王都に残した。アーリアという最強の護衛と離れての長旅など何年ぶりかもわからなかったが、幸い、今回はセツナと彼率いる《獅子の尾》が同行している。《獅子の尾》は王立親衛隊である。レオンガンドは、セツナを側に置くことで安心を得ようとした。そして、それは間違いではなかった。ガンディアの英雄が側に居てくれるだけでなんとも心強く、頼もしかった。
アーリアは、常に影のように寄り添ってくれているのだが、姿が見えなければ、認識することもできないこともあって、不安を感じることも多々あった。アーリアは、みずからを半身という。レオンガンドの半身だと。影だと。しかし、その心の奥底にはガンディア王家への憎悪や怒りが燻り続けていることは疑いようがない。いつ気が変わってレオンガンドの敵に回ったとしてもおかしくないのだ。それなのに常に側に置いているのは、彼女の持つ異能が護衛としては完璧に近く、彼女自身の超人じみた能力とともに有用だと判断したからだ。もし、アーリアがレオンガンドを裏切ったならば、そのときは、レオンガンドは彼女を恨まず、己の不徳を恥じるだけだろう。
ともかく、実態の見えないアーリアと違って、常に姿形のあるセツナが側にいることは、それだけで安堵を得ることができた。馬車の中、そんな実感を抱くことが少なくなかった。
「アバードの国民がセイル王子の即位を熱望している、というのもどうなのだ? 彼らはシーラこそ王位継承に相応しいといっていたのではないのか?」
「それに関しては、なんともいいようがありませんな。王女時代のシーラ殿のアバードでの人気は、それはもう国民的といってもよいほどのものでした。シーラ派と王宮の対立においては、シーラ派に同情を寄せる声も大きかったですし、ガンディアがシーラ殿の救援を掲げた軍を起こすと、支持する声も少なくなかったということです。しかし、アバードの動乱があのような形で決着が付き、王都がシーラ殿の手によって破壊されたことが知れ渡ると、状況は多少、変化したようです」
とは、ゼフィル=マルディーン。目に通している資料とはまったく別のことを問われても動じず、淀みなく答えてくれるのが、ゼフィルという男だった。彼もまた、有能で優秀だった。でなければレオンガンドの側近になどなれるはずもない。レオンガンドは、四人の友を友だからという理由で側近にしているわけではなかった。彼らがそれぞれの分野で優秀だから置いているに過ぎない。もし、四友の中でひとりでも能力の足りないものがいれば、三友になっていたかもしれないし、五友、六友になっていた可能性も皆無ではない。
もっとも、多ければ多いというわけでもなく、四人くらいでちょうど良かったのだろう。そこから側近はさらに増えている。エリウス=ログナーとジルヴェール=ケルンノールのふたりだが、ふたりには王都に残ってもらっていた。ジゼルコートの監視というよりは、ジゼルコートとともに国政に携わってもらうためだった。
「シーラへの人気に陰りが見え始めた、ということか?」
「いえ……シーラ殿への人気にさほどの変化はなく、むしろ、同情の声が増えたようですな。イセルド=アバードがアバード動乱の元凶としてすべてを背負ってくれたおかげでしょうが。単純に、セイル王子を同情する声が大きくなったようなのです」
「ほう」
「それに、シーラ殿はみずから王家との関わりを断たれましたからな。もう二度とアバードに関わることはないと仰られた以上、シーラ殿を頼るのは良くないと考える国民が多かったのでしょう。となると、セイル王子を応援する声が増えるのも必定」
「ふむ……そういうことか」
「国王という国の支柱が不在のまま数ヶ月が経過しました。バンドールの復興こそ少しずつ形になり、政情も安定しているとはいえ、支柱の不在は、国民にとって耐え難い苦痛だったのでしょう。アバード国民がセイル王子の即位を求めるのは、わからなくはありませんな」
「暴動に発展しそうなほど……だろう?」
眉根を寄せる。
「いささか誇張しているのでしょう。セイル王子殿下に早く即位させたいというアバード政府の意向ですよ」
ゼフィルが口髭を撫でて、笑った。
アバード政府の考えは、わからないではない。国王が不在のまま、幼い王子を支えながら国を運営していくのは、困難だというのだろう。幼くとも構わないから、セイルには国王になってもらうほうが色々と都合がいいのだ。
「セイル王子殿下が国王になられたところで、ガンディアとの関係に変わりはありませんし、後見人は我らがアスタル将軍ですがね」
ゼフィルのいうとおりだ。セイルが国王になったからといって、ガンディアとアバードの従属関係が解消されるはずもない。むしろ、関係が強化される可能性のほうが遥かに強いといっていいい。なぜなら、幼い王の後見人にガンディアの右眼将軍アスタル=ラナディースがつくからであり、アバードの政治における最終判断は、後見人であるアスタルに任されることになるからだ。アスタルは、ガンディアにとってより良い判断をしてくれるだろう。
「そういえば、シーラも同行しているそうだな?」
レオンガンドは、セツナに尋ねた。
「はい。黒獣隊もシドニア戦技隊も、戦力としても頼りになりますから」
セツナがすぐさまうなずいてきた。そのはきはきとした口調は、普段の彼とは少し違う。緊張しているのかもしれない。そういえば、セツナと同じ馬車に乗るのは、めずらしいことだった。普通ならばありえないことでもある。
黒獣隊、シドニア戦技隊は、ともにセツナの私設戦闘部隊であり、《獅子の尾》を含めてセツナ軍と呼ばれることもあったが、それは、ルシオンでの活躍が大きく影響している。セツナ軍はたった数十人の戦力で、百倍以上の兵力を誇るワラル軍を見事撃破せしめたのだ。セツナの人気は言うに及ばず、セツナ軍の評価が高まるのも当然といえる。王立親衛隊《獅子の尾》までセツナの軍勢に数えられるのは問題ではあるのだが、仕方のない側面もある。《獅子の尾》の隊長がセツナで、《獅子の尾》といえばセツナの部隊という印象が強いのだ。
セツナ軍は、今回のアバード行きにおいての主戦力でもある。大将軍アルガザード・バロル=バルガザールが王都に残ることもあり、ガンディア方面軍のほとんどがガンディア本土に残ることになった。アバードは遠い。ガンディア方面軍を連れて行くよりも、道中、途中途中で護衛戦力を見繕ったほうがいいのではないかということになったのだ。
そもそも、国内での移動がほとんどだ。
同行する人数など、最小限で良かった。
「シーラは、なにかいっていたか?」
「自分には関わりのないことだ、とだけ」
「……そうか」
シーラは現在、龍府の領伯近衛・黒獣隊の隊長という立場にある。龍府の領伯とはセツナのことであり、セツナは、アバードを逃れてきた彼女を匿うために黒獣隊を結成し、彼女を隊長に任命した。アバード動乱後、アバード王家の人間であることをやめ、王女であることを辞めたシーラは、黒獣隊長の座に戻り、セツナの配下として日々を過ごしている。
そんな彼女だが、ナーレスとしては彼女をアバードの女王にするつもりだったらしい。シーラをアバードの女王にして、ガンディアの意のままに操ることが、アバード動乱に参戦した理由だった。シーラの意向など完全に無視したものだったが、ナーレスが他人の意向など気にするわけもない。軍師とはそのような生き物だし、だから嫌われるのだ。なにを犠牲にしても構わない。戦果を上げることだけが軍師の正義だった。
しかし、ナーレスの思惑は外れた。シーラは女王にはならず、アバードは傀儡政権としてではなく、属国としてガンディアの下についた。シーラはただのひとりの人間となって、セツナの元に帰ってきた。セツナは彼女を受け入れ、ガンディアも、彼女の立場を保証した。シーラ・レーウェ=アバードではなく、ただのシーラとしての立場をだ。
だが、いくら言葉でそういったところで、彼女がアバードの王女であったという事実を消し去ることはできない。アバード政府自体、シーラのことを無関係とは認めていないのだ。ガンディア政府に対し、シーラの身の安全を願ってくるくらいには、アバード政府はシーラを大切にしていた。
シーラ自身はあずかり知らぬことではあるが。
(ひとと国の関係は、そう簡単に断ち切れるものではないのだ)
シーラは、どうあがいてもアバードのシーラなのだ。だからどう、ということはないが、彼女が王都に着けば歓待されるのは間違いないし、セイル王子からも姉として迎え入れられるに決まっている。そのとき、シーラはどう想うのか。
そんなことが少し、気になった。
レオンガンドたちを乗せた馬車がアバード首都バンドールに辿り着くのは、十一月十八日になる見込みだった。
北へ。
ただひたすら、北へ。
長旅になる。
その間、王都ガンディオンでなんらかの変化が起きるのではないかという期待と不安が、レオンガンドの胸の底で渦を巻いた。