第千百四十九話 響く声(二)
ミリュウは、足を止め、息を止めた。
隊舎の二階、廊下の突き当りに彼の部屋はある。《獅子の尾》隊長にして、彼女の最愛の人物。セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドなる長たらしい名前からわかるように、このガンディアにおいても特別高い地位にいる人物でもある。ガンディアの英雄と呼ばれるようになって久しい。まさに英雄というに相応しい偉業を打ち立ててきた人物は、今年十八歳になったばかりの少年だったが、彼女にとっては彼の年齢などどうでもいいことだった。
(なにしてるんだろ、あたし)
ミリュウは、彼の部屋の前で凍りついたまま、胸中でつぶやいた。
眠れないから部屋を抜けだしたのではないのか。頭の中の混乱を静めなければ眠ることもままならず、そのためにだれかの部屋に押し入ろうとしたのではないのか。ファリアかマリアという母性に溢れた人物のいずれかの部屋に潜り込み、その胸の中で眠ろうとしたのではないのか。
気が付くと、彼女の足はふたりの部屋の前を通り抜け、階段を登り切っていた。そうなると、もはや止まらない。突き当りの部屋まで一直線だった。ほかにめぼしい部屋はない。ルウファはいないし、ルウファと寝るなど論外だ。彼にはエミルがいるし、エミルがいなくとも、考えられないことだった。
扉に触れる。鍵は、かかっていなかった。不用心なことだが、それだけ隊舎の安全性を信頼しているということだろうし、扉一枚あろうとなかろうと大差はないということかもしれなかった。
音を立てて寝ているものを起こさないようにそっと扉を開き、室内に踏み込む。足音も密やかに、ゆっくりと。室内は、廊下よりも暗かったが、完全な闇ではなかった。光があった。淡く明滅する光。緑色の――。
(ラグナか)
安堵したのは、その光源が小さく奇妙な生き物だったからだ。寝台で眠る少年の枕元で、それは丸まっている。手のひらに収まるくらいの大きさの飛竜。全身、緑柱玉のように美しい外皮に覆われているのだが、その外皮が闇の中で輝いていた。その光のおかげで、セツナの寝顔を拝むことができたのだから、感謝したいくらいだった。
健やかな寝顔を見れただけで、ミリュウは、自分の心が落ち着きを取り戻していくのを認めた。世界を満たし始めた静寂とともに復活する頭の中の混乱が収まっていくのだから、勝手なものだ。
「本当に自分勝手で我儘ね」
自嘲するが、笑えるようなものでもない。それが現実だ。扉を閉め、足音を立てないようにゆっくりと、彼の寝床へと歩み寄る。いまは、音は不要だった。外の音がなくとも、内の雑音を消す力がそこにあるからだ。セツナという存在。彼がそこにいるというただそれだけのことで、ミリュウの頭の中は静寂を取り戻した。
心穏やかになるとともに、自己嫌悪が生まれる。
脳内の混乱は、リヴァイアの“知”などではなく、セツナに会いたくてたまらない衝動が生み出した幻聴なのではないか。そんなことを考えてしまうのだが、あながち間違ってもいないような気がして、笑えなかった。
ラグナに照らされたセツナの顔を見た途端、混乱が収まったのだ。そう考えてしまったとしてもなんら不思議ではなかった。無論、おかしなことだ。昼間は、そんなことはなかった。むしろ、セツナの顔を見て、余計に加速した。感情を制御できなくなってしまっていた。
それがいまはなにごともなかったかのように落ち着き始めているのだから、奇妙な話だった。奇妙で、不思議で、不可解で、それでも納得できる。
それくらい、ミリュウの中ではセツナの存在は、大きい。
ミリュウという人間を構成する記憶の大部分がセツナで埋め尽くされた時期が、ある。
ミリュウは、セツナの枕元まで近づくと、彼の寝息を聞くために、顔に耳を近づけた。規則正しい寝息。そのかすかな音が、ミリュウの心をさらに穏やかにしてくれる。
寝台の縁に座ると、枕元のラグナがわずかに動いた。どうやら起こしてしまったらしいのだが、彼はこちらを一瞥すると、なにもいわずに瞼を閉じた。警戒さえしなかったのは従者としてどうかと思うのだが、一方、ミリュウだから警戒する必要はないと判断したのだとしたら嬉しいことでもあった。ラグナにとっては、夜中、ミリュウがセツナの寝所に潜り込んできたとしても、おかしなことではないということなのだ。
(ありがとう)
ミリュウは、ラグナの寝姿に胸中でお礼をいうと、再びセツナの寝顔に視線を戻した。ラグナの呼吸に合わせて明滅する光が、セツナの顔を闇の中に浮かび上がらせている。穏やかな寝顔だ。夢を見ているのだとすれば、きっと、いい夢を見ているに違いなかった。その夢に自分が出てくるようなことがあれば感激だが、それは叶わぬ夢かもしれない。セツナの女神はファリアであって、ミリュウではない。それはきっと、いまも変わってはいないだろうし、今後も変わることはないだろう。だからといって悲しむことはない。どうなったとしても、ミリュウはセツナのことを愛し続けるだろうし、セツナはそういったミリュウに対していままで通り振る舞ってくれるだろう。
彼は、優しい。
その優しさ、甘さが時に憎たらしくなるのだが、それはセツナが悪いわけではない。嫉妬だ。妬むほうが悪いだけの話だ。
(あれから一年以上、たったのよね)
ザルワーンとガンディアの戦争のまっただ中、森の中で戦ったことを思い出す。逆巻く紅蓮の炎が森を焼き尽くしていく中で、ミリュウはセツナを封殺するべく幻竜卿を用いた。ミリュウたちの策は見事に嵌まった。黒き矛は幻竜卿によって再現され、圧倒的な力をミリュウに与えた。ミリュウは勝利を確信した。
だが、勝てなかった。
逆流現象。
複製物であるはずの黒き矛より逆流してきた力と情報が、ミリュウの意識を粉々に破壊した。普通なら、ミリュウはそのまま精神的に死に、意識不明のまま、ただ死を待つだけの存在となっていても不思議ではなかった。
「あのとき、あたしはあなたの声を聞いた」
それが、始まり。
目が覚めたとき、彼のことを好きになってしまっていた。彼のことを考えるだけで、その名を思い浮かべるだけで胸が高鳴り、体が熱くなった。わずかばかりの彼とふたりきりの時間、ミリュウは自分を抑え、感情を隠し通すので必死だった。彼を困らせるようなことをいうことでしか、強がれなかった。そうすることでしか、己の胸の内からあふれる感情を誤魔化すことができなかった。
あのときは、誤魔化す必要があった。
彼と一緒にいられるわけがないと思っていたからだ。
あのときはまだ、オリアスへの復讐がすべてだった。
「あのとき?」
不意に聞こえた声に愕然としながら、いつの間にか閉じていた目を開くと、セツナの目が紅く輝いていた。
「……あ」
「なんだよ……」
寝ぼけ眼が光っているように見えるのは、ラグナの光を反射しているからに他ならない。濡れたように見える瞳。そこに自分の驚いている顔が映っていることを想像する。それだけで満ち足りるのだから、簡単なものだ。そこまで考えてから、問う。
「起こしちゃった?」
「うん」
「ごめんね」
ミリュウは心から謝った。悪いことをしてしまった。うなだれると、彼が静かに上体を起こした。すると、枕元のラグナがびくりとしたが、彼が目を開くことはなかった。寝入っているというわけではなく、セツナの声だということで警戒するまでもないと思ったのだろう。なぜかあのドラゴンは、セツナに全幅の信頼を寄せている。
「いや……いいよ。どうせ、寝付けないんだ」
「寝付けない? だったら、添い寝してあげようか?」
「嬉しい提案だな」
「う、嬉しい?」
「ミリュウみたいな美女が添い寝してくれたら、そりゃだれだって嬉しいだろ」
セツナの口が紡いだ言葉が妙に軽薄に聞こえて、ミリュウは、ファリアのように半眼になって彼を見た。セツナそのものは普段と変わらないのだが。
「……あなた本当にセツナなの?」
「なにがだよ」
「あたしの知ってるセツナは、そんな歯の浮くような台詞いわないんだけどな」
「はあ……確かに、俺のがらじゃねえよな」
彼はそういって、小さく笑った。
「うん。セツナには、そういうの似合わないな」
「わかってた。けど、なんかそういう雰囲気だったし」
「いつもは雰囲気とか気にしないくせに」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「むう……」
難しい顔をしてひとりうなるセツナにくすりとする。こういうのがセツナだ。歯の浮くような台詞は、ルウファやドルカ=フォームにでも任せておけばいいのだ。などというと、ルウファは怒るかもしれないが、ミリュウの中では、ルウファはそういう位置づけだった。彼が真面目な仕事人だということは百も承知なのだが。
ミリュウはそれからしばらく、沈黙を楽しんだ。
夜の静寂を感じるのは、いつ以来だろう。
とてつもなく久しぶりな気がした。ここ一月余り、雑音めいた混乱との苦闘の日々を送っていた。日中は、そうでもないのだ。だれかしらなにか物音を立てていて、完全な静寂はない。なんなら市街地にでも出向けば、音に困ることはなくなる。うるさくてかなわないほどの騒音が、王都には溢れている。しかし、夜になると、そうもいっていられなくなる。ひとは普通、夜眠るものだ。だれもが寝静まった後、世界から大きな音は消失する。静寂が生まれ、混乱が怒涛の如く押し寄せる。過去からの残響。数多の記憶が織りなす幻聴。聲。耳を傾けてはならない。聞いてはならない。知ってはならない。それは慟哭。それは怨嗟。それは絶望。聞き入れば、発狂するだけの力を持った“知”。リヴァイアの呪い。
それらから逃れるには、だれかと同じ空間にいることが重要だった。だれでもいい。だれかひとり、側に居てくれるだけで、少しは落ち着いた。音を聞いていればいい。外から響く音さえあれば、過去の残響に悩まされることは少なくなる。
だからここのところ、ファリアの寝込みを襲ったり、マリアの部屋で寝たりした。ファリアはミリュウのことを邪険にするどころか優しく迎え入れてくれるし、マリアもなんだかんだいいながら一緒に寝てくれる。だから、ミリュウはファリアのことも、マリアのことも嫌いになれなかったし、ますます好きになるのだ。
いまは、ファリアやマリアと一緒に寝ている時よりも、心穏やかでいられた。
静寂がある。
混乱が収まり、思考が明瞭になっている。こういうときこそ、考え事が捗るというものだが、セツナと一緒にいるというときにほかのことを考えたくもない。ふたりの時間を満喫したかった。
「……寝付けない理由とか、あるの?」
「あるよ。いろいろ」
「ニーウェのこととか?」
セツナの偽物という触れ込みで捜索中の帝国の皇子のことだ。ニーウェ・ラアム=アルスール。帝国を刺激しないためにも、殺してはならない相手だった。だが、相手はセツナを殺そうとしている。セツナを殺し、黒き矛を破壊することが相手の目的だからだ。こちらの都合などお構いなしだ。まったく迷惑な話だが、相手の都合を無視するのはなにもニーウェに限った話ではない、ガンディアも、そういう風に国土を拡大し、属国を増やしている。国と個人の違いはあれど、相手の都合を考えないという点では同じことだ。
もっとも、ミリュウにしてみれば、だからどうした、という話でしかないのだが。
ミリュウにとってはガンディアの都合も、ニーウェの都合もどうでもいいことだ。セツナが無事でいてくれさえすればいい。たとえ、セツナが黒き矛を失ったとしても、セツナがセツナとして側にいてくれるのならば、それだけでよかった。だから、ニーウェの狙いが黒き矛で、黒き矛を破壊することだけが目的ならば、壊させてしまえばいいとさえ、想った。
セツナにはたまったものではないだろうが、それがミリュウの想いだ。
セツナが瀕死の重傷を負うほどの相手なのだ。つぎに戦うことがあったとして、今度も無事に生き延びれるかなどわかったものではない。先の戦いでセツナが生き残ることができたのは、たまたま、偶然にすぎない。運が良かった。ただそれだけに尽きる。運良くウルクが救援に入ってくれたから生き残れたのだ。ウルクがディールの紋章をぶら下げていて、ニーウェがその事実に気づき、矛を収めたからにほかならない。もし、あのとき、ウルクが来てくれなければ、一瞬でも遅れていれば、セツナは死んでいたのだ。
セツナを失うくらいなら、黒き矛を手放してくれる方がましだ。
だが、どうやら、それだけでは話は終わらないらしい。ニーウェは、セツナを殺そうとしている、という。
「それもある。ウルクのこともそうだし、今日なんかはレムのことも考えてた。もちろん、ミリュウのこともな」
「なーんか、取ってつけたように心配されても嬉しくないんだけど」
「とってつけてねえよ」
「……ふふ、知ってる。ありがとね」
「なんだよ、急に」
「いつも心配してくれてさ」
「それをいうなら、俺の方こそ」
「セツナは……そうね。みんなに心配ばかりかけてる。無茶するなっていっても、するしね」
「無茶したいわけじゃないんだけどな」
「それだってわかってるよ。結果的にそうせざるを得ないって話も」
わかりきったことだ。無茶をしなければ、無理をしなければならない場面にばかり遭遇してきただけのことなのだ。ザルワーン戦争でも、クルセルク戦争でも、アバード動乱でも、いつだってセツナは先陣を切っていた。切らねばならなかった。風穴を開けるのが、黒き矛のセツナの役割なのだ。
「それでも、セツナが無茶をして、傷つくたびに想うの」
「うん?」
「あたしにもっと力があれば、って」
静かに、告げる。
「力さえあれば、セツナを護ることができたんじゃないか。できたはずだって、想うもの」
「俺を護る……か」
「セツナは嫌かもしれないけどさ、あたしはもっと嫌なのよ。あたしの力不足でセツナを失うようなことだけは、絶対に嫌なのよ」
セツナは、困ったような顔をしていた。どういう反応をすればいいのかわからないとでもいうような表情。微妙な表情だ。それでも構わず、ミリュウは続けた。
「だから、力が欲しい」
力。混乱を吹き飛ばすためにその言葉を紡いだのも、力を求めていたからにほかならないし、つい先刻、力を手にした人物がいたからでもある。
「そういう意味でも、レムが羨ましいかもね」
「レムが?」
セツナが驚いたのは、ミリュウがレムを羨ましがるなど、考えられないことだったからだろう。
「だってレム、力を手に入れたでしょ?」
「本当に力が手に入ったかどうかはわからないぜ?」
「ううん。あれはきっと力よ。レムの新たな力。あたしも、強くならないと駄目ね」
断言して、自嘲する。レムの新たな力がどのようなものであれ、力を得た以上、以前より強くなっていると見るべきだ。彼女はより一層、セツナの従者に相応しい存在へと昇華されたということだ。ミリュウの居場所がますますなくなるのではないかという不安が、沸いた。
「ミリュウ……」
「このままじゃ、セツナに愛想つかされちゃうわ」
「んなわけあるかよ」
「……そうだよね。セツナは、そういうよね。知ってる。わかってる。嬉しいよ」
「ミリュウ……どうしたんだよ」
「どうもしてない。なにも変わらないよ」
嘘を、いう。
「ただね、セツナが優しすぎるから、離れたくないだけ。失いたくないだけ」
それは、本当だ。本心。心の底から出た言葉。それだけに惨めで、無残な言葉になる。幼稚で、子供じみた、無力な言葉。
「だから力が欲しい。あなたを護るための力が」
「ミリュウ……」
セツナは、ただ彼女の名を呼んだ。そうするほかなかったのだろう。ほかにかけるべき言葉も見つからなかったのだろう。ミリュウは、心の中で、自嘲した。困らせてしまったことを悔いた。せっかくのふたりきりの時間を無為に費やしている気がした。そんなことはないのだが、そんな風に感じてしまうくらいには、自分勝手なことばかりをいっている。
「どうすればいいのかはわかってるの」
「どうするんだ?」
セツナは聞いてくれたが、ミリュウはどう答えるべきか迷った。答えはある。だが、いえば、またセツナを困らせることになりかねない。
「龍府にね……行くのよ」
「龍府? そこになにかあるのか?」
「うん……」
うなずいたが、それ以上はいわなかった。確証があるわけではない。確信があるわけでもない。しかし、この方法が一番手っ取り早いと判断した。ほかの方法も模索したのだ。だが、ほかの方法では時間がかかるのは間違いない。ファリアがオーロラストーム・クリスタルビットを使いこなせるようになるまで何年もの時間がかかったように、ルウファがシルフィードフェザー・オーバードライブを使えるようになるまで長いときを費やしたように、ラヴァーソウルの新境地を開くには、通常、何年もの修練が必要なのだ。幻竜卿だったらば、そうはならなかっただろう。魔龍窟にいた十年余り、ミリュウの主要武器は幻竜卿だった。幻竜卿ならば、新たな能力を引き出すのに苦労はしなかったかもしれない。もっとも、幻竜卿はオリアスの召喚武装であり、守護龍の召喚以降、幻竜卿を呼び出すことはかなわなくなってしまっていた。
だから新たな召喚武装としてラヴァーソウルを呼び、使っているのであり、習熟に時間がかかっているのだ。
セツナが、思い出すようにいってくる。
「龍府なら近々行く機会があったな」
「え……?」
ミリュウは、呆然とした。想像すらしていない言葉が飛び出してきたからだ。
「《獅子の尾》はレオンガンド陛下に従い、アバードに行く予定があるんだ」
「そうだったっけ……」
「知らないのも無理はないさ。俺も聞いたばかりだし、まだ正式には発表されていないからな」
「そうなんだ……でも、アバードでしょ?」
「そう。アバード王都バンドールに行くことになってるんだ。つまり、行きも帰りも龍府に立ち寄るってことだ。帰りなら、少しくらい滞在したって構わないさ。俺の領地でもあるしな」
「セツナ……!」
ミリュウは、思わずセツナに抱きついた。いつもしていることなのに、セツナが慌てふためくのが妙におかしかった。
「な、なんだよ」
「大好きよ」
告げて、ミリュウはセツナをそのまま押し倒して、彼の胸に顔を埋めた。