第百十四話 接触
レオンガンド・レイ=ガンディア一行がマイラムに到着したのは、ガンディオンを発って四日後のことだ。二日目にはログナーに入っており、そこからマイラムに着くまで大きな問題もなかった。
ガンディア王国領ログナー方面マイラム。
ガンディアがログナーを制圧して以来、そう呼ばれるようになった。
とはいえ、レオンガンドには自分の国にいるという実感は沸かなかった。戦いに勝利を収め、ログナー王が降伏したことにより、この地はガンディアのものとなった。レコンダールでの殲滅戦の結果、ガンディアに逆らおうとするものの心は折れ、以降、小規模な戦闘さえ起きなかった。ログナー王家はガンディアの貴族となり、将軍も騎士もレオンガンドに服した。飛翔将軍と謳われた女将軍アスタル=ラナディースの帰属は、ログナー全軍を掌握するのに大いに役立った。
もはやログナーにガンディアへの敵対意志は残っていないだろう。
しかしそれでも、レオンガンドには他人の領土に足を踏み入れた感じがしてならなかった。この地が、完全にガンディアのものとなるまで時間がかかるだろうし、それは仕方のない事かもしれない、長年に渡る敵対関係は、互いの心に傷跡を刻んだ。国境付近での小競り合いや、バルサー要塞を巡る攻防で命を落としたものは数知れず。ガンディアの要塞奪還時に至っては、ログナー側の死傷者は千人を軽く超えた。ログナー制圧戦におけるガンディアの損害も忘れてはならない。
憎しみが、強く渦巻いている。
マイラムに到着した一行は、宮殿に入った。
主人のいなくなった宮殿は、ガンディアから派遣された司政官と呼ばれる職員たちによって管理されている。司政官は、ログナーにおける行政の一切を取り仕切る立場にあり、宮殿の管理も彼らの管轄にあった。
ログナー方面の政務の一切を取り仕切る司政官には、ガンディアでも有数の人材を手配しており、いまのところ民衆からの不満は少なかった。それでいい。不平や不満はなくなるものではないのだ。民衆の声をすべて拾い上げることはできないし、そんなことをしていれば国が立ち行かなくなる。どの声に耳を傾け、どんな要望に答えるべきなのか、その宰領を任せられる人物こそ、司政官に相応しい。
王宮に入ると、アスタル=ラナディースが待っていた。レオンガンドのマイラム行きの報を聞き知り、レコンダールから飛んできたのだろう。レコンダールからマイラムまでは、ガンディオンからマイラムより遥かに近い。とはいえ、ガンディオンから報告が届く日数を考えれば、さすがは飛翔将軍といった速度ではある。
ガンディア・ログナー間に手配した通信網を利用しても、一日以上はかかるはずだ。
彼女は、ガンディア軍の再編により、大将軍に次ぐ地位である右眼将軍に任命してあった。ガンディア全軍を統括するのが大将軍の役目なら、右眼将軍の役目は、ログナー方面軍の統括である。ちなみに、デイオン=ホークロウは左眼将軍であり、彼はガンディア方面軍を担当する。
ログナーの人間を扱うならば、ログナー人の将を使うのがよい。これはナーレスとの相談の末に決めたことだ。アスタルはログナーに忠誠を誓う、まさに義の人であった。彼女の義の苛烈さは、国民を顧みない王に武力を以って譲位を迫り、新王即位後は、国を骨抜きにしたザルワーンに牙を剥いたとでわかる。
アスタルは、ログナーの民心を安んずる限りはレオンガンドを裏切りはしないだろう。その点で心配はほとんどなかった。
ログナーの元王族の扱いも丁重にしている。新王として立ったエリウス=ログナーも、排斥された先王キリル=ログナーも、その妻ミルヒナも、ガンディオンでの暮らしを楽しんでいる様子だった。
そのことは彼女にも伝わっているらしく、会話の中で何度か触れた。ログナー王家は、国の上に立って民衆を支配するよりも、貴族として風雅の中に暮らすほうが向いていたのかもしれない。
アスタルとの会話は、軍の編成に及んだが、ログナー方面に関しては彼女に一任していたし、全体の話ならば大将軍アルガザード・バルガザールに相談するほうがいいという結論だった。アルガザードを大将軍に据えたのも、レオンガンドの構想を理解している人物だからであり、彼に任せておけば万事うまく行くという確信があったからだ。
ガンディア軍の再編は、レオンガンドひとりの構想ではない。着想は先王シウスクラウドであり、それを元に、ナーレスとレオンガンドが現状に合わせて作り変えていったものだ。シウスクラウドの最盛期は、アスタル=ラナディースが頭角を現す遥か前であり、また、当時のガンディアを支えていた人材もいまと大きく異なっていた。アルガザードも大将軍候補にすら上がっていなかったのだ。
時代は流れ、状況は変わった。
レオンガンドたちは構想の修正を行い、そして、再編した。
もちろん、反発もあった。中でも王宮召喚師の新設は、王家の伝統に反するという名目で盛大な反感を買った。が、彼は強行し、セツナ=カミヤ、ルウファ=バルガザール両名を王宮召喚師として叙任した。
レオンガンドには、反発している連中の目的が見え透いていた。彼らはレオンガンドの権力が強くなることを恐れているのだ。先の戦いで多大な戦功を上げた武装召喚師に特別な名を与え、箔をつけるということは、レオンガンドの権威も高めるものだった。
彼らには、それが憎らしい。
くだらない政争だ、と一蹴できないのが心苦しい。
彼らは、レオンガンドの母――つまり先王の后を後ろ盾とし、ガンディアにおいて権勢を振るっており、太后派、あるいは王母派と言われている。そして、そういわれることを喜んでいる節があった。無邪気なのだ。無邪気に悪意を振りまいている。だからこそ手に負えないのだが、かといって一掃することができないのは、レオンガンドの母グレイシア・レア=ガンディアが彼らを可愛がっているからだ。
愚にもつかぬ連中なのだが、王の母が目にかけているというだけである種の権勢を誇っている。半数とはいかないまでも、貴族のうちの三割以上が太后派に属するか感化されており、その状況を覆すには骨が折れるだろう。
太后派が権力を持ってしまった原因のひとつは、先王シウスクラウドの病に倒れて以降の言動にある。
レオンガンドの父は、病からの復帰だけを夢見ており、故に後継者を明確にしなかった。王子はレオンガンドただひとりで、本来ならば王位継承権を争うような相手もいなかったのだ。が、愚鈍の烙印を押されたレオンガンドよりも、若年ながらも戦場に立っていた王女リノンクレアこそつぎの王に相応しいという動きが、太后派の中から出てきた。グレイシア王妃は必ずしも乗り気ではなかったようなのだが、女王擁立の動きは、一時期ガンディア全土を熱狂させたほどだった。
しかし、リノンクレアはルシオンのハルベルク王子の元に嫁ぎ、女王擁立の熱狂は一気に鎮火した。だが、太后派の中でも一部の連中は、リノンクレアの政略結婚は、リノンクレアを即位させないためにレオンガンド派が仕組んだものだと主張しており、いまでもレオンガンドを憎悪しているという。
無論、根も葉もない話だ。リノンクレアを嫁がせたのはシウスクラウドであり、ルシオンとの同盟関係を強化する目的以外のなにものでもない。
なんにせよ、一時期ガンディアを熱狂の渦に巻き込んだ女王擁立の動きは、“うつけ”の悪評を加速させることになり、レオンガンドの即位から要塞奪還までの間、彼の立場を苦しめることになった。
先王の死に乗じて奪われたバルサー要塞を取り戻したことで、太后派の動きが鈍った。領土の復帰ほど、王の力を示すものはなかったのだ。それによりレオンガンド派――いわゆる新王派が頭角を現すと、王侯貴族がこぞってこれに靡いた。そして、ログナーの制圧である。
レオンガンドの立場は確立された。いまでは、シウスクラウド以上の英傑として称える声さえ上がり、彼を“うつけ”と誹る声はなくなったといってもいい。新王派は主流になり、ガンディアの政情は安定の一途を辿っている。それでも太后の威を借りた連中が、なにかとちょっかいを出してくるのが困りものなのだ。母グレイシアの手前、無碍にもできない。
(困ったひとたちだ)
といって、レオンガンド自身は彼らに思うところがあるわけではない。無能なりに、この国を憂えている。ガンディアの行く末を案じ、そのために自分たちができることに全力を上げている。愛嬌さえある。しかし、無能な頑張り屋ほどの悪はないのも事実だ。
その日は、そんなことばかり考えながら夜を過ごした。さすがに、マイラムに到着した日に《白き盾》に会いに行くのはやめた。旅で汚れた格好では示しがつかないし、なにより急ぐ必要がなかった。彼らがマイラムに長期滞在するというのは、事前の情報でわかっていたのだ。だから明日でなくともよかったのだが、レオンガンドは我慢するのが苦手だった。
いままで、我慢し続けた。
父が倒れてから十数年、なにもかもを我慢し続けた。父の教えを守り、戦場に立つことも禁じられた。“うつけ”という評価を甘んじて受け入れた。ガンディア国内を巡り、ひとというものを知った。待ちに待った。そして、王位を継承し、それでも待ったのだ。
一月前、やっと、動き出すことができた。
要塞の奪還から始まった彼の戦いは、まだ序章に過ぎない。さらに力を蓄え、国土を広げていくための。
「行こうか」
翌朝、午前十時過ぎ、レオンガンドはふたりの側近、バレット=ワイズムーンとゼフィル=マルディーンを連れて宮殿を出た。《獅子の尾》隊も同行させており、セツナ・ゼノン=カミヤは、宮殿を出るときから注目の的だった。
それも当然だと思わないではない。鎧甲冑を身につけていないと、ごく普通の少年に見えた。黒髪に赤い瞳の、気さくそうな少年。凄惨な戦場の影も感じさせず、子犬のようにレオンガンドに付き従った。レオンガンドはその光景に安堵を覚えてしまう。
ファリア=ベルファリアも、ルウファ・ゼノン=バルガザールもいるが、マイラム市内では、やはりセツナに対する視線が一番多いようだった。とはいっても、マイラム市民の中に、彼が黒き矛の使い手だということを知るものはいないだろう。知れば、憎悪の目で見つめるかもしれない。
セツナは、ログナーの人々にとって悪夢のような存在だった。
《白き盾》の宿は、マイラムの郊外にあった。
宮殿からは程遠く、これならばどこかに呼び出して交渉するべきだというゼフィルの提案を許可しておくべきだと思わないでもなかった。しかし、交渉したいのはこちらであり、出向くのが礼儀だと彼は思っていた。一国の主が大した供回りも連れずに出向くなど、普通はありえないことなのかもしれないが。
いや、レオンガンドの護衛としては、これ以上ないくらいの戦力だ。黒き矛に、ふたりの武装召喚師。バレットもゼフィルも十分に強いし、アーリアが影に隠れている。大軍勢に囲まれても生き延びられるかもしれない。
そんな戦力とともに、《白き盾》が宿として借りている屋敷に辿り着く。話によると、ログナーの騎士が余生を過ごした屋敷らしく、実に立派な建物だった。
そして、屋敷の前で、《白き盾》団長クオン=カミヤの出迎えを受けた。
「まさか、こちらの返答も待たずに来られるとは思いもよりませんでしたよ、陛下。わたしはクオン=カミヤ。傭兵集団《白き盾》の団長を務めています」
一言でいうならば、美しい少年だった。セツナと同年代で、背格好も似ている。彼のほうがやや逞しいか。黒髪に青い瞳、肌は白く、整った顔立ちは女性的とすらいえる。彼は、《白き盾》の制服を身に纏い、武器は一切身につけていない。
「はじめまして、クオン=カミヤ殿。わたしがこの国の王レオンガンド・レイ=ガンディア――」
挨拶を交わそうとしたのも束の間、レオンガンドの網膜に閃光が瞬き、火花が散った。ぶつかり合う金属の音が、鼓膜を突き破るかのように響く。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
眼前には、視界を縦に割るように、黒き矛の穂先がある。矛は、相手の斬撃を受け止めたまま静止している。形の異なる二本の剣が、黒き矛によって阻まれている。セツナが反応していなければ、レオンガンドの首は飛んでいたかもしれない。
(いや……)
冷静に見ると、視界にきらめきが走っていた。極細の鋼線が無数、レオンガンドを防衛している。アーリアの姿は見えないが、どこかに出現していることだろう。
剣を手にしているのは、若い女だ。憎悪に燃えたぎる目でレオンガンドを睨み据えていた。灰色の目。アーリアによく似ていた。
「イリス!」
クオンが怒声を上げると、女は、はっとなって剣を引いた。飛び退る。姿が、宿の周囲からも消えた。
「これは、どういう趣向ですかな? まさか陛下を亡きものにしようとしたのではありますまいな?」
ゼフィルが問うと、クオンは、取り乱すこともなく告げてきた。
「失礼。彼女は、ガンディアという国をたいそう恨んでおりましてね。こうなることはわかっていたので、ほかのものと市内に退避させていたのですが」
「ほほう。つまりあの女は、団長の命令を無視した挙句、我が王に斬りかかった、と」
「そういうことです」
「わかっているでしょうが、これは大変なことです。我々も事を荒立てたくはないのですが」
「いや、いい。理由はわかっている」
レオンガンドはゼフィルを制して、クオンを見た。レオンガンドは、彼が口走った名前を反芻するうちに彼女のことを思い出したのだ。イリス。アーリアの妹であり、ウルの姉。彼女ら三姉妹は、ガンディアの暗部の記憶そのものだった。
彼女がレオンガンドを憎む理由は、十分すぎるほどにあった。
「外法機関か」
「はい」
クオンが肯定するのを見ながら、レオンガンドは苦い記憶が蘇るのを認めた。
この国の闇を暴いた結果、彼は英雄の真実を知ってしまった。英傑と謳われた王の、生への執着が生み出した怪人たち。彼らを手元に置いたのは、必ずしもその能力が有用だからという理由だけではない。父がしたことへの言葉なき怒りであり、懺悔であった。無論、そんなことで許されるものではない。痛いほど理解しているが、彼になにができるわけでもない。
「陛下、それでは示しがつきません」
ゼフィルが、冷ややかに告げてくる。
レオンガンドは、多少の苛立ちを覚えた。彼らはレオンガンドの心中を察しているはずだ。にも関わらず食い下がってくるのは、レオンガンドの王としての立場を鑑みてのことなのだろうが、レオンガンドとしては大きなお世話だといいたかった。もちろん、いえるはずもない。それこそ、彼らの立場がなくなる。
「示す必要もない。だれもなにも見ていなかった。いや、なにも起こってすらいない。わたしとクオン殿が挨拶を交わしただけだ。そうだろう?」
「……は」
「……わかりました」
レオンガンドの言葉には、バレットもゼフィルも同意するほかなかっただろう。王の命令は絶対だ。たとえ間違っていたとしても、従わざるをえない。たとえ王の友人と呼ばれる立場にあったとしても、臣下の契りを交わしたときから、彼らの意志は王のものとなったのだ。もっとも、彼らはただ唯々諾々と従う人形ではない。ガンディアのためにならないと思えば堂々と反論するし、レオンガンドとの議論の末に喧嘩しそうになったこともある。今回は、ガンディアの将来のために、交渉を優先するべきだと判断したのだろう。
レオンガンドは、後ろを振り返った。セツナが黒き矛を携えて、こちらをじっと見ていた。彼の瞬時の判断は間違いではない。攻撃を受け止めるだけにとどめ、反撃をしなかったおかげで、クオンとの交渉に望める。彼がイリスを攻撃していたらどうなっていたのか――考えるだけでぞっとしない。
「セツナ、苦労をかけた。武器はもう必要ない」
「はっ」
セツナが黒き矛を掲げると、漆黒の矛は光の粒子となって消えた。武装召喚術とは不思議な力だと、レオンガンドはそういう光景を目にする度に思った。異世界から呼び寄せた武器。それはまるで彼のようだ。異世界から現れた少年は、ガンディアにとって最高の武器になりつつある。
向き直ると、クオンが興味深そうにセツナを見ていた。
「彼が、セツナ・ゼノン=カミヤ……」
本当に知り合いなのかもしれない。
レオンガンドは、この交渉はうまくいく気がした。
そして、矛と盾が揃う。
戦いが有利になる以前に、その事実に胸が躍った。