第千百四十七話 レムと死神
力が欲しいと想ったのは、いつ以来だろう。
レムはひとり考える。
だれもが寝静まった夜の淵、だれひとりいない食堂で、物音ひとつしない闇の中で、彼女はひとり考える。
約十年前、レムは死んだ。レム=マーロウという名の哀れな少女の十三年の人生は、あっけなく幕を閉じた。そのまま死んでいれば、ある意味では幸せだったのかもしれない。
いや。
彼女はひとり、頭を振る。闇の底で、首を振る。
いや、あのまま死んでいたなら、レムは人並みの幸せさえ感じることもなく、絶望の底なき闇に落ちていったに違いない。家族を呪い、世界を呪い、すべてを呪い続けたに違いなかった。
だから、二度目の生も、間違いではなかったのだ。
少なくとも、カナギの愛情は本物だったし、死神たちとの疑似家族は、レムに幸せの形を教えてくれたのだ。十年あまりの死神の日々は、十三年の少女の人生よりも余程濃密で幸福感に満ちたものだった。
クレイグ・ゼム=ミドナスへの愛情が偽りのものであったとしても、クレイグの愛が彼女を操るための欺瞞だったとしても、あの瞬間、あの日々までもが嘘だったわけではないのだ。
結局、クレイグはレムを利用して、殺した。
そして、三度目の生――。
「こんな夜更けにひとり酒って……柄でもありませんか」
聞き知った声にびくりとしたのは、時間が時間だからだった。真夜中も真夜中。日付が変わろうという時間帯であり、普段なら、隊舎の住人全員が眠っている頃合いだった。その全員とはもちろん、レム自身も含まれる。
レムは、この体になってからというもの、まったくもって眠る必要はないのだが、セツナの言いつけもあって、できるかぎり睡眠時間には眠ることにしている。眠る必要はないが、眠ろうと思えばいつでも眠れた。そして、ありがたいことに想定した時間通りに目覚め、覚醒した瞬間には脳が完全に起動しているといってもよかった。
夢は、見ない。
故に寝ることも苦痛ではなかった。
「あら、ゲイン様」
声を振り返ると、食堂に入ってくるゲイン=リジュールの姿が視界に飛び込んできた。
ゲイン=リジュールは、《獅子の尾》専属の調理人であり、いまではこの隊舎に必要不可欠な人材といってもよかった。彼の手料理はどんな簡単なものであっても美味であり、セツナ以下、隊舎の住人に日々幸福な時間を提供してくれていた。彼がいなければ、隊舎での生活はもっと退屈なものになっていただろう。
闇の中、彼の手にしている携行用の魔晶灯の光が、彼の姿とレムの姿を浮かび上がらせている。食堂内は、真っ暗だ。レムが魔晶灯の火を灯していなかったからだが。
「はは、その、様っていうのはやめてくれませんかね。こそばゆくてかなわねえや」
「それは無理な相談でございます。わたくしは御主人様の下僕。御主人様に雇われておられるゲイン様をゲイン様と呼ぶのは、当然の道理」
「そうはいうけど……なあ」
「慣れてくださいませ」
「慣れやしねえって」
「では、あきらめてくださいませ」
「はあ……とりつく島もねえなあ」
ため息混じりに笑い顔を見せたゲインは、壁に設置された魔晶灯に触れ、食堂内の魔晶灯を点灯させた。冷ややかな光が闇を吹き払い、食堂内を明るくする。ゲインは気を使ってくれたのかもしれないが、不要な気遣いではあった。もちろん、そんなことを言葉にすることもない。
ただ、尋ねる。ゲインが食堂、あるいは厨房を利用する時間としては早過ぎるのではないか、という疑問がある。
「それにしても、こんな夜中に食堂に用事があるのですか?」
「明日の仕込みさ」
「なるほど。それにしてはいささか早すぎるのではありませんか?」
「いつもならまだ寝てる時間なんだが、セツナ様の快気祝いにと思ってだな」
「そういうことでしたか。きっと、御主人様もお喜びになられると思いますわ」
「はは、セツナ様は本当に美味しそうに食べてくださるからさ、こっちも気合いが入るし、やりがいがあるってもんさ」
セツナががむしゃらに料理を口に運ぶ様を思い出したのか、ゲインは、至極嬉しそうに頬を緩めた。その表情ひとつとってみても、彼の人の良さがわかるというもので、レムは、セツナが彼を調理人として隊舎に置いている理由が理解できる気がした。もちろん、彼の手料理がこの上なく美味であるということも大前提としてあるのだが。
「セツナ様には、調理人として燻っていた俺に、料理を振る舞うことの喜びを教えてくれた恩もあるからなあ」
「そんなことがあったのでございますか?」
「セツナ様はただ普通に飯を食ってただけなんだがな」
ゲインは、たっぷり間を置いて、言葉を続けた。
「そのときのセツナ様の表情がさ、俺の心に火を点けたのさ」
にかっと表情を崩すゲインからは、セツナへの心からの敬服が感じ取れた。
(心に火を……)
「ま、そういうわけだ。厨房にいるから、酒でもつまむもんでも欲しくなったらいってくれ」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「いや、当然のことさ。俺は《獅子の尾》の調理人だからな」
そう言い切るゲインの表情は、とてつもなく誇らしげで、レムは心から嬉しくなった。理由は簡単だ。《獅子の尾》はレムの主が隊長を務める部隊なのだ。その調理人であることを誇りに想ってくれていることが嬉しくないはずもなかった。
ゲインが食堂の奥の厨房に消えると、厨房に明かりが灯った。魔晶灯の冷ややかな光は、気温の低さと相俟って、いつになく冷たく見える。それは、この食堂を照らす光も、同様だ。冷ややかで、それでいて闇を払う強い光。
(光。心の……)
レムは、みずからの胸に手を当てた。冷えた体の奥底で心臓が脈打ち、身体中に血液を巡らせているのがわかる。命。仮初の生命。本物ではない。偽りの、世界を欺瞞する命だ。
そしてそれは、三度目の命でもある。
(三度目の……)
胸中でつぶやいて、はたと気づく。
本当の意味で力を欲したのは、これがはじめてのことなのかもしれない。
ふと思ったことが真実に思えたとき、彼女は、はっとした。
気が付くと、対面の席に闇の少女が座っていた。闇人形と“死神”が同化したことによって生まれたレムの新たな力。まるで自分の影そのもののそれを“死神”と呼ぶのは、おかしなことではない。レムは、死神なのだ。死神の影が“死神”であることはなんら間違いではなかった。いままでの“死神”とは形状も違えば、その能力も大きく異なる。
本当に強くなったのか、本当に変わったのか。
変わったのは瞳の色だけで、ほかはなにも変わってなどいないのではないか。
疑問は、少女の姿をした“死神”を見れば、氷解する。理解したのだ。“死神”に備わる力の容量が莫大に増加している。膨大な力。それを上手く引き出すことができれば、これまでよりもずっと激しく戦えるだろう。もっと、セツナの側で戦い続けていられるだろう。
彼の傍で、彼の命が燃えて尽きるまで、戦い続けることができるに違いない。
そのための力だと、彼女は勝手に思っていた。
勝手に想い、ひとり納得しながら、対面の席に座る闇の少女に手を伸ばした。少女もまた、手を伸ばしてくる。華奢な腕。細い手。長い指先。青白い光の中で病的な白さを見せつけるレムの手と、ただ闇の塊のような少女の手が触れ合い、重なる。
「あなたはわたし。わたしはあなた。これからともにあの方を護るのよ」
レムは、闇の少女を見つめながら、つぶやいた。
「セツナを」
もう二度と、彼を失いかけるようなことはしたくなかった。