第千百三十九話 バルガザール家の人々(二)
バルガザール家本邸の奥まった一室に、ルウファはいる。無論、ひとりではない。兄のラクサスと、弟のロナン、そしてバルガザール家当主にして、実の父であるアルガザードの四人がひとつの卓を囲んでいた。
大将軍アルガザード・バロル=バルガザールはその肩書き、名に恥じぬ体格の持ち主であり、家族の中でも一際大きかった。筋骨逞しい肉体は、数十年の長きに渡ってガンディア軍人として戦場に立ち続けてきたという事実を実感させるものだ。老いを感じさせないとはまさにこのことであり、見事なまでの白髪と白髭から白翁将軍などという呼び名も、アルガザードを目の前にすれば忘れざるを得ない。
その血を引いているはずのラクサスも、ルウファも、体格的にはアルガザードには遠く及ばなかった。武装召喚師としてみずからに厳しい鍛錬を課しているルウファも、騎士として、王立親衛隊長として相応しい肉体を維持するために日々自己を鍛え続けているラクサスでさえ、だ。生まれ持ってのものなのか、それとも、これからアルガザードのような堂々たる体躯を作り上げていくことができるのか。
そんなことを思ってしまうくらい、ただ座っているだけのアルガザードから迫力を感じていた。
空気が、妙に重い。その重圧と沈黙が、時の流れを遅く感じさせる。
ラクサスがいっていた、バルガザール家にとって大切な話とはいったいなんなのか、ルウファにはまったくわからなかった。ラクサスに聞いても、教えてくれなかったからだし、怪訝な顔をするロナンとともに首を捻るしかなかった。想像もつかない。
バルガザール家は現在、順風満帆といってもよい状況にあった。当主であるアルガザードは、ガンディアという大国の軍の頂点に立つ大将軍であり、家督を継ぐであろう長兄のラクサスは国王陛下の親衛隊長を務め、名実ともにガンディア最高位の騎士として国中から尊敬を集めている。ルウファは、王立親衛隊の別部隊において副隊長という役職を持っているし、王宮召喚師でもある。王宮が認めた武装召喚師ということだ。胸を張ってもいいだろう。
三男坊のロナンはまだ十代半ばで、甘やかされて育ったこともあって責任感もほとんどなく、学生生活を満喫しているといった有様だったが、武装召喚師を目指すと息巻いているところを見ると、彼にもバルガザール家の血はしっかりと受け継がれているのだ。
その上、母も健康そのものであり、今日はエミルとふたりで夕食を作るのだと嬉しそうに話していた。エミルは、いまやバルガザール家の一員のように馴染んでいて、ロナンも彼女を姉として慕い、暇を見つけてはくっつこうとするので、ルウファはロナンをエミルから遠ざけるので必死だったりする。ラクサスも、ルウファとエミルが結婚を考えていることを知ってからは応援してくれていた。
家は、ラクサスが継ぐ。ラクサスの結婚には政治力学が働かざるを得ないが、家を継ぐことのないルウファにはそういったしがらみに囚われる必要がない。それでも、家のことを考えれば、政治的価値のある結婚をするべきなのだろうかと考えたりもしたが、アルガザードも母も、ラクサスまでも、エミルとの結婚を後押ししてくれるのだから、余計なことは考えなくていいというのだろう。
順風満帆。
なにもかも順調で、不安も不満もなにひとつなかった。
それなのに、妙に胸騒ぎがするのは、どういうわけなのだろう。
ルウファは、ラクサスが口を開くのを待った。待ち続けた。アルガザードでもいい。どちらかが喋り出すまでは、この重い沈黙が解消されることはないのだ。
「父上、大将軍位を返上なされるおつもりだというのは、本当ですか?」
「え……?」
「ええ!?」
ラクサスが開口一番発した問いは、ルウファにとって衝撃以外のなにものでもなかった。ロナンにとっても同じだっただろう。衝撃の余り、頭の中が一瞬、真っ白になる。
大将軍位の返上とはつまり、大将軍を辞任するということであり、軍を辞めるということではないのか。
「本当だ」
アルガザードは、一瞬の迷いもなく肯定した。その表情、声音は、アルガザードが冗談をいっているようにも見えず、ルウファは小さく混乱した。アルガザードがみずから大将軍位を返上するなど、想像もしていなかったからだ。
「なぜです?」
「年だよ」
「年齢、ですか。しかし父上、父上はまだ齢六十を越えたばかりではございませんか」
「六十を越えたばかりか」
アルガザードは、ラクサスを見つめながら、面白そうに笑った。対するラクサスの表情は、至って真面目だ。王宮で見せる険しい顔つきそのものだった。怒っているわけではない。真面目な話をしているからこその表情であり、王宮でも常に緊張を持って行動しているからこそ、そのような表情を維持し続けているのだ。
アルガザードは、そんなラクサスを頼もしそうに見ている。
「六十だぞ? 六十。これで、まだ若い、というのは、無理がある」
「いえ、まだ若いといわせて頂きます」
「ラクサス、おまえという男は、わたしに死ぬまで戦場にでろ、というのか?」
「はい」
「兄上!?」
「ラク兄さん!?」
「不肖ラクサス・ザナフ=バルガザール、バルガザール家の人間たるもの、王家のために死すべしと教えられ、今日までその覚悟と決意を持って生きてまいりました。この命が尽き果てるまで王家に捧げ、必要ならば死ぬことも辞してはならぬ、と」
ラクサスは、アルガザードを見据えて、いった。その言葉は鋭く、真剣の刃のようだった。ルウファにも、ラクサスのいっていることはわかる。ルウファもまた、そうやって育てられたからだ。ガンディアの武門の頂点に立つバルガザール家に生まれた以上、それだけの覚悟と決意を持って生きていかなけれならないと、物心ついたときから教わってきた。国のため、王家のために命を捨てられる人間でなければ、バルガザールの家名を名乗ってはいけない、と。
たとえ血が尽き果て、そのために家が失われようとも、王家のために滅びるならば本望――。
「だというのに父上、あなたは年齢を理由に大将軍を辞めるという。そんな馬鹿な話があるものでしょうか」
「そうはいうがな、ラクサス。老いた体でなにができるというのだ」
アルガザードのラクサスを見る目は、優しい。ルウファは、ラクサスの烈しい言葉に驚き、戦々恐々としたものの、アルガザードの反応を見てほっと胸を撫で下ろした。よくよく考えて見れば、心配するほどのこともなかったのだが。アルガザードが感情的になることなど、そうあることではない。王家を不当に貶められでもしないかぎり、そんなことはありえないのだ。
「この手も足も、昔のようには動かぬ。意のままに動くというのなら、若いころのようにとまではいかずとも、二十年前と同じくらいの動きができるのであれば、引退など考えたりはしない。だが、そうはいかぬのだ。もはやこの体は老いた。日々の鍛錬ではどうしようもないほどにな」
アルガザードが、みずからの手を見下ろしながら告げてきた。大きな手だ。ルウファの頭くらいすっぽり収まりそうに思えるのは、アルガザード自身が持つ迫力が理由なのだろうか。ともかく、その大きな手を見るだけで、アルガザードがそこらの将兵に負けるとは思えなかったし、言葉で言うほど、老いを感じさせなかった。ルウファやラクサスよりも大きく分厚い体は、筋肉の塊といってよく、無駄な肉は少ないほうだ。老いたりとはいえ、一線級の活躍が見込めるのは間違いないはずなのだが。
「それに、いつまでも老人が居座っている場合でもあるまい」
「しかし……」
「ラクサス。バルガザール家は、王家のために忠を尽くし、王家のために命を費やすべしと教えたはずだ。それは、国のため、王家のためというお題目を掲げ、老醜を晒すことではないぞ。己の能力に見切りをつけ、必要なとき、必要なことができないとなれば、手を引くのもまた、国のため、王家のため。老体に鞭打って無様な戦いを続けるより、若く、有能な人間に後を任せるほうが、余程、王家に忠を尽くすということになろう」
「それは……そうかもしれませんが」
「ラクサス。おまえは若い。おまえには将来がある。燦然と輝く未来がな。それが眩しく、それが羨ましい。わたしにはないのだ。燦たる将来も、輝かしい未来も、わたしにはな」
「父上……」
「それにな、ラクサス。なにも大将軍に拘る必要はあるまい」
アルガザードの言葉に、はっとなる。
「大将軍でなければ、王家に忠を尽くせぬか?」
「いえ……」
「そうであろう。大将軍だけが王家に忠を尽くせるというのであれば、おまえも、ルウファも、ましてやロナンなど、王家の力になることさえできぬ。大将軍位がすべてではないのだ」
アルガザードがラクサス、ルウファ、ロナンを順番に見た。そのまなざしはどこまでも優しく、ルウファは、父のことがますます好きになった。いや、元々好きだったし、心の底から尊敬していたのだが、その度合が更に深まったのだ。心が震える。愛を感じている。そして、言葉の意味も理解できる。確かにその通りだ。大将軍の位に拘る必要など、微塵もない。バルガザール家は、王家に忠を尽くす家だ。どんな立場であっても、ガンディア王家のために忠を尽くすということに変わりがない。
「わたしは大将軍位を返上したからといって、王家への忠誠を捨てるつもりはない。ただ、老いたる我が身では、大将軍に相応しい振る舞いができぬだろうと判断したまで。わたしよりももっと若いものが大将軍につけば、十年、二十年はそのものが大将軍を続けることができるだろう。そのほうがいいに決まっている」
「……父上は、そこまで考えられておられたのですね」
「当然、葛藤もあったがな」
アルガザードが苦笑をもらした。さんざん悩みぬいた末の結論なのだろうことは、ルウファにだってわかる。大将軍位。ガンディア軍の最高位をそう簡単に返上することなどできるわけもない。散々悩み、苦しみ抜いて結論を導き出したに違いない。
「家のことは、ラクサス、おまえに任せようと想う」
「わたしがバルガザール家を」
ラクサスが言葉を浮かべる傍らで、ルウファはロナンと顔を見合わせた。同時にうなずく。ラクサスが家を継ぐのは、わかりきっていたことだ。既定路線といってもいい。長兄であり、もっとも優秀で峻烈なラクサスこそ、バルガザール家の当主に相応しい。
「おまえがバルガザール家の当主となり、家を盛り立てていくのだ」
そういうと、アルガザードは、ルウファとロナンを見回した。
「異論はないな?」
「もちろんです。兄上ならば、バルガザール家をよりよい家にしてくれるでしょう」
とはいったが、当然、アルガザードのバルガザール家が悪いという意味ではない。アルガザードを当主とする現在のバルガザール家も、欠点が見当たらないくらいにいい家だった。ロナンが捻くれることなく育っていることからもわかるというものだし、そんな家に生まれ育ったから、ルウファも王家に忠を尽くすことだけを考えていられるのだ。
「ラク兄さんなら、すぐに結婚相手も見つかるだろうしね」
「結婚相手?」
ロナンがにこにこしながらいうと、ラクサスが首を傾げた。アルガザードが大きくうなずく。
「そういえば、そうだな。家督を継いだのなら、すぐにでも妻を迎え入れてもらいたいものではあるな」
「そうしたいのもやまやまですが、わたしには妻として娶るべき女性がいませんよ」
「ええー!?」
「ロナン、なにを驚くことがある?」
(これだからこの朴念仁は)
ルウファは胸中で苦笑を漏らしたが、表情には出さず、ラクサスのきょとんとした顔を見ていた。ロナンがさらに素っ頓狂な声を上げる。
「シェリファさんは!?」
ロナンがいったのは、シェリファ・ザン=ユーリーンのことだったし、ルウファの脳裏に浮かんだラクサスの娶るべき女性も、彼女だった。バルガザール家とともに古くからガンディア王家に仕える武門の家、ユーリーン家の令嬢である彼女は、ガンディアでも有数の女性騎士のひとりであり、王立親衛隊《獅子の牙》においてはラクサスの部下だった。なぜ彼女の顔が浮かぶのかというと、シェリファがラクサスへの恋慕を隠せていないからだったし、一部で有名な話だったからだ。
しかし、ラクサスにはロナンの発言の意図は、伝わらない。
「シェリファはいまごろリューグに部隊長としての教育を行っているころだろうが、彼女がどうかしたか?」
まったく理解していないラクサスの反応に、ロナンが途方に暮れたような顔をした。
「はあ……これじゃバルガザール家の先が思いやられるよ」
「ロナンにまでそういわれるとは、ラクサスもまだまだだな」
「どういうことです?」
ラクサスはアルガザードに問うたが、アルガザードは微笑を湛えたまま答えなかった。すると、ラクサスの視線がこちらに向く。
「ルウファ、父上とロナンがなにをいっているのか、わかるか?」
「まあ、わかりますけど」
「わたしにわかるように教えてくれないか?」
至極真面目な顔つきで尋ねてきたラクサスに、ルウファは吹き出しかけたものだった。
ロナンのいう通り、ラクサスが家督を継いだバルガザール家は、安泰とはいえないかもしれない。