第百十三話 思惑
傭兵集団《白き盾》が、マイラムに到着したのは数日前のことだ。
かつてログナーの首都として機能していた街は、いまやガンディアの国旗や紋章で塗り潰されており、以前とは別の色彩に覆われているといってもよかった。しかし、活気はなくなってはいない。いや、むしろにぎわいは増していた。恐らく、ザルワーンによる支配から脱却したことが大きいのだろう。ログナーという国はガンディアによって飲み込まれてしまったが、ひとびとの暮らしが急変するわけではない。支配者が変わっただけともいえる。そして、支配者がザルワーンからガンディアに変わったことは、ログナーの人々にとっては喜ぶべきことらしかった。
ザルワーンの属国当時のログナーは暗いイメージがつきまとっていたのだが、いまは大きく変わっていた。明るく、本来の色彩を取り戻したかのような気配がある。
それは、クオンの勝手な思い込みかもしれなかったが。
宿は、郊外といってもいいほど都心部から離れた場所にある。交通の便を考えると、都市機能の充実した中心部に近いほうがいいのだが、《白き盾》は百人を超える大所帯だ。宿をひとつ借り切っても部屋数が足りないのが普通であり、分宿するにしても条件に見合った宿を見つけるのに苦労するのはいつものことだった。そんな中で見つけたのがこの《鹿の骨》亭である。実のところ、《鹿の骨》亭の建物だけでは収まりきらなかったのだが、店主が隣の屋敷の主人に話を通してくれたことで事なきを得たのだ。
屋敷は元々、ログナーにおいては高名な家系であったテウロス家が所有していた別邸だったらしい。先代の当主の死後売りに出されたものを、テウロス家を慕う人々が購入し、共同で管理しているのだという。
クオンは、幹部ともどもその屋敷を宿泊場所に選んでいた。
屋敷は、緑に包まれている。鬱蒼と生い茂る森の中に建てられた屋敷のような雰囲気を帯びており、たくさんの木々に囲われた庭は、自然との調和が取れていた。郊外ならではといえるかもしれない。都市部では、これほど自由に屋敷を演出することはできまい。
その緑に囲われた庭に、《白き盾》の主要団員が顔を揃えていた。団長クオン=カミヤにふたりの武装召喚師ウォルド=マスティア、マナ=エリクシア、それにイリス。ほかにも《白き盾》の戦闘員たちが集っている。
副長スウィール=ラナガウディは、グラハム他数名を連れてマイラム市内に出かけている。スウィールはログナーに豊富な人脈を持っており、それらに当たって有用な人材が転がっていないか探してみるといっていたが、期待は薄いだろう。人材が欲しいのは、どこも同じだ。ましてやログナーはガンディアに飲まれたばかりだ。ガンディアの人間が血眼になって人材を探しているに違いない。
クオン自身は、人材をそこまで執拗に求めてはいない。《白き盾》の層が厚くなるのは歓迎するが、喉から手が出るほど欲しくなるような状況に置かれてはいない。そもそも、いまでも十分にやっていけている。これ以上の戦力を保有すれば、国々からの視線が厳しくなりそうだ。ただでさえ《白き盾》は目立っている。無敵の傭兵団は、負けることを知らないのだから。
「いつでも、どうぞ」
拳を構えたウォルドが、手招きするような仕草をしてきた。いつもの制服ではなく、シャツにパンツという簡素な出で立ちだった。袖なしのシャツから伸びた腕は、筋肉の塊であり、クオンのそれの比ではない。彼は、人並み以上に鍛えられた武装召喚師の中でも、桁外れの肉体を誇っている。召喚武装に頼るよりも肉体に頼る戦い方のほうが性に合っている、というのが彼の弁だが。
クオンも、似たような格好だ。半袖のシャツに動きやすいパンツ。ウォルドと同じように拳を作り、構えている。思考は明瞭、視界は良好、問題はない。《白き盾》団員からなる観衆の視線も気にならない。庭の真ん中。間合いは五メートルほど。
地を蹴る。跳躍。低い弾道でウォルドの元へ。ウォルドは動かない。いや、半歩後ろに下がっている。着地と同時にクオンの視界をウォルドの膝が覆った。顔面を強打される。が、痛みはない。左へ流れながら右腕で足を刈る。直撃。ウォルドは微動だにしない。上げたままの足で踏みつけようとしてくるが、後ろに退いてかわす。ウォルドの左足が地を踏み抜いた瞬間、再度飛びかかる。一瞬の隙。だが、相手はそれも織り込み済みだったのか、拳がクオンの胸に突き刺さった。クオンの拳は、ウォルドにまったく届かない。そのまま地に叩き落とされ、額を蹴られる。地面を転がり、追撃から逃れる。地面から体を引き剥がすように立ち上がり、ふたたび相手と対峙する。
ウォルドもまた、一応拳を構えてはいるが、そこに殺気はなかった。
通常なら息ができなくなるような打撃も、脳震盪を起こすかもしれない蹴撃も、この訓練では意味を持たない。どれほどの力を込めた攻撃も無力化し、無効化される。
クオンは観衆を一瞥した。剣呑な顔をしたイリスと、微笑を湛えたマナが、ふたりの組手を見つめている。マナは、両腕で盾を抱えていた。真円を描く純白の盾。《白き盾》の象徴であり、名の由来となったクオンの召喚武装である。彼自身が考えた名は、シールドオブメサイア。その名に相応しい力を持っている。
ふたりの打撃がまったく通用しないのは、場が、白き盾の影響下にあるからだ。この広い庭全体に、盾の守護領域を展開している。無敵の盾といわれるほどの力だ、互いの攻撃は直撃したとしても無力化され、痛手を負わせるどころか、かすり傷ひとつつけられない。だからこそ、訓練とはいえ、手を抜く必要もなく拳を交えることができるのだ。
《白き盾》の全体訓練を行うときは、いつも盾の力を使った。本気でぶつかり合えば、自分の実力を確認できるし、相手の力量もわかるというものだ。ただし、攻撃が無効化されるということは、自分の全力が相手にどれだけの影響を及ぼすかはわからないということでもある。この方法で訓練し続けると、力の加減もわからなくなるだろう。だから全体訓練の時にしか取らない方法だった。
この方法で訓練するのには、もうひとつ大きな理由がある。
クオンは、イリスが抱えている時計を確認して、額を流れる汗を拭った。時計は、二時半を少し回ったところを示している。
(まだ行けるか)
確信はなかったが、彼はウォルドに向かって飛び出した。ウォルドの太い腕が、機先を制するように伸びてくる。屈み、大気の唸りを聞く。拳を突き上げる。相手の腹への一撃。しかし、空いていた方の手で払われた。力は相手のほうが上なのだ。盾の影響下でも、筋力の差が均等になるわけではない。クオンが押し負けるのは当然だった。
それに、くぐり抜けてきた修羅場の数が違う。実力も経験もウォルドのほうが遥かに上だ。だからこそ、真正面からぶつかり合いたくなる。戦ってみたくなる。壁は高いほど、厚いほど、挑みたくなるものだ。もちろん、必ず超えられるわけでも、突き破れるわけでもないのだが。
足払いも効果が無い。太い足は、地に根ざした大樹のように動かない。諦めて後ろに飛ぶ。相手の空振りを誘ったつもりが、乗ってこなかった。逆に、突っ込んでくる。肩からの猛烈な体当たり。両手で受け止めたはいいものの、力押しに押されている最中、全身を包んでいた違和感が消えた。
「あ」
しまった、ということさえできなかった。盾の力が消失し、ウォルドの全体重がクオンに襲い掛かってくる。気が付くと、弾き飛ばされていた。視界が流転する。体当たりの体勢のまま驚いたように固まったウォルドに、イリスが投げつけたのであろう時計が直撃する。空が見えた。青い空。雲が流れている。覚悟をしたものの、背に衝撃はこなかった。だれかが、クオンの体を受け止めてくれたようだ。もっとも、そんな芸当ができるのはひとりしか思いつかない。
「ありがとう、イリス」
「いえ、当然のことをしたまで」
超人染みた怪力の持ち主は、クオンを地面に下ろすと、さっと離れた。両手が痛みを訴えてきているが、骨が折れているわけでもない。体当たりの衝撃は、盾の力によってほとんどが相殺されていたのだ。余韻だけで吹き飛ばされたといってもいい。それはそれで恐ろしいものだ、と、クオンは前方で頭を擦っている男を見た。筋骨隆々の大男だ。素の力だけでもクオンには太刀打ち出来ないが、彼には召喚武装がある。武装召喚師は、鍛えあげられた肉体と召喚武装の相乗効果で真価を発揮するのだ。もっとも、彼はいま、涙目になってイリスを睨んでいたが。
「いてえじゃねえか、このやろう」
「クオンはもっと痛かったといっている」
勝手に代弁されたものの、クオンは口を挟まなかった。
「ぐ……そういわれるとだな」
「反省しろ」
「なんでおまえはそんなに俺に厳しいんだよ……」
「おまえはクオンではない」
「くっ……」
なにやら口惜しげにしながらも、ウォルドは足元の時計を拾った。時計は、盾の守護領域の持続時間を計算するために用意したものである。組手中に確認した限りでは問題ないと踏んだのだが、守護障壁が消滅したところを見ると、計算を間違っていたらしい。あるいは、認識外のものまで守護してしまっていたのか。どちらにせよ、クオンの失態であることに違いはない。
盾の能力を利用して訓練をする理由のひとつが、それだった。盾による守護の持続時間を延ばし、有効範囲を拡大すること。無敵の盾が真に無敵になるには、それが必須なのだ。いまでも、守護対象を個人に絞れば、長時間の運用も可能ではある。しかし、それでは意味がない。彼は、自分の目に映る全ての人を守りたいと思っている。
「クオン様も失敗するのですね」
「ぼくだって人間だからね。失敗だってするよ」
マナからタオルを受け取り、汗を拭う。いつの間にか全身が汗で濡れていた。全力でぶつかったからだろう。心地よさが、盾の使用による精神的疲労を癒してくれる。
マナが抱えていた白き盾は、守護領域の消滅とともに消えたようだ。
「ひとつ、聞いておきたかったことがあるのですが」
「なんだい?」
「なぜマイラムに?」
「ここにいれば、ガンディアから声がかかると思ってね」
「ガンディアに雇われたいと?」
「いや……それは違う」
クオンは、物陰に向かって歩きながら否定した。マナのほかに、イリスがついてくる。見ると、ウォルドは時計と睨み合っていた。壊れたのかもしれない。
庭の片隅に、大きな木が根を張っている。なんという木なのだろう。天に向かって枝葉を延ばし、己の存在を主張しているかのような姿は、この屋敷の庭で一際目を引いた。
影で涼んでいた団員たちが、クオンたちに気を利かせてかその場を離れた。
「セツナ=カミヤに興味がある」
いまは、セツナ・ゼノン=カミヤだったか。ログナー制圧における活躍により、彼の名はガンディアの歴史に刻まれることになったのだ。かたや傭兵集団の団長、かたや一国の王の親衛隊長。同じ世界に召喚されたものではあったが、立場も身分も大きく異なってしまった。違う人間、違う人生。当たり前の差異。そこに絶対的な隔たりがあろうと、クオンには関係がなかった、
「クオン様のお知り合いだというお話でしたね」
「なんとなく、確信してはいるんだけどね。実際に逢ってみないことには」
別人かもしれない。その可能性は限りなく低いと、勝手に思い込んでいる自分に、彼は苦笑を飛ばしたくなる。聲を聞いた。それは彼の慟哭で、だから逢いたくなった。逢って、守ってあげたいのだ。彼はそんなもの不要だと怒るかもしれないが、クオンの気持ちは昔から変わっていないのだ。
「別人の可能性もあると?」
「そのときは落胆するだろうね」
「では、本人だった場合は、どうなさりたいのですか?」
マナに問われて、クオンは瞑目した。脳裏に浮かぶいくつかの光景が、彼との日々を思い出させる。彼はクオンにとっては大事な友人であり、半身だと思っていた。勝手な思い込みだ。彼はそう思ってはいないかもしれない。しかし、長い間一緒にいたのは事実なのだ。
淡い青春の残光が、網膜の裏にきらめいている。
「彼を仲間に引き入れたい」
「仲間に……ですか」
「もちろん、彼が応じるかはわからないけどね」
おそらく、断られるだろう。彼にも立場があり、役職がある。王宮召喚師という立派な地位を捨てて、傭兵に転じるとは考えにくい。しかし、それでも逢って話してみなければわからない。話してみて、その上で考えてもらえばいい。それで駄目なら素直に諦めることができる。
「クオン様!」
声は、団員のものだった。庭の外から、飛ぶように走ってくる。その慌て方が尋常ではなかったので、クオンは思わず立ち上がった。
「そんなに慌ててどうしたんだい?」
「マイラムの司政官から通達があり、明日、レオンガンド陛下がこちらに見えるとのことです!」
彼の声は上擦っていたが、聞き取れなかったわけではない。しかし、クオンは生返事を浮かべる以外になかった。
「は?」
期待していたとはいえ、あまりにも突然過ぎたのだ。