第千百三十八話 バルガザール家の人々(一)
力が欲しい。
そう思ったのは、何度目だろう。
強くなりたい。
そう感じたのは、いつ以来だろう。
力をつけるたび、強くなるたび、もっと、もっとという声が聞こえてくる。もっと力が必要になる。もっと強くならなければならなくなる。
きっと、力への意思に際限などないのだろう。
力の限界に到達するまで、無限に近く求め続けるのだろう。
それが必ずしも良いことではないことくらい、わかりきっている。
それでも、力は必要だ。
力がなければ、強くなければ、敵を倒すことなどできない。大切なひとを守るために、力は必要だ。
それもただの力ではない。
とてつもなく大きな力が、ひとの見では有り余るほどの力が必要となってしまった。
(そもそも、これ自体、ひとの身に余るものか)
ルウファは、シルフィードフェザーの翼に生えた一枚一枚の羽を見つめながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。
王都ガンディオン群臣街にあるバルガザール家の本邸、その庭園に彼はいる。食後の軽い運動のつもりで自主訓練を行っているうちに、ついシルフィードフェザーを召喚してしまった。背中から生えた一対の純白の翼は、彼をして天使のような存在へと昇華する。もちろん、天使の翼などではない。ただの召喚武装。異世界から呼び出した意思持つ兵器だ。
その翼には特別な力がある。大気を支配し、風を操るその能力は、翼の主を空に浮かせたり、飛行させることもできれば、空気の塊を飛ばすようなこともできる。また、翼で攻撃することも可能だし、羽を飛ばすこともできた。攻撃、防御、移動、あらゆる場面での活躍が期待できる召喚武装は、彼の師匠グロリア=オウレリアの召喚武装から発想を得たものだった。あらゆる状況に対応できる汎用召喚武装こそ、ガンディア王家の力となるに相応しいものだと思ったのだ。そして実際、ルウファはこのシルフィードフェザーでこれまで多くの戦争を戦い抜いてこられたし、生き抜いてくることができたのだ。これがシルフィードフェザーでなければ、ここまで自在に戦うことなどできなかったに違いない。
「いーなー、いつ見てもかっこいいなー」
不意に飛び込んてきた声に驚き、ルウファは目をぱちくりとさせた。左前方に見知った少年がいた。鞄を抱えた金髪碧眼の少年は、ロナン=バルガザール――ルウファの年の離れた弟だった。ルウファが驚いたのは、ロナンがいたことではない。ここはバルガザール家の本邸だ。ロナンがいてもなんら不思議ではない。だが、召喚武装を装着したルウファの感知範囲内に突如として出現されるとなると、驚かざるをえない。
「ロナン。いつからそこにいたんだ?」
「いまさっき帰ってきたんだよ! 兄さん、集中しすぎて気づかなかったんだね」
「……そうだったんだ。お帰り、ロナン」
「ただいま! っていうか、兄さんこそ、お帰り!」
「ああ、そうだね。ただいま」
ルウファは、ロナンの元気一杯な様子に微笑みを返した。ルウファとロナンは十歳ほど年が離れている。ロナンはつい最近十四歳になったばかりであり、手に持った鞄は学校帰りであることを示していている。彼は、士官学校などではなく、ごく普通の学校に通っている。バルガザール家の子弟でありながら普通の学校に通うのは、彼がガンディア軍に入る気が少ないからだったし、甘やかされてもいたからだ。
アルガザードが年をとってから生まれた子だ。可愛がり、甘やかすのも無理は無いだろう。そして、そのことを周りもなにもいわなかった。バルガザール家の跡継ぎにはラクサスがいて、ラクサスさえいればなんの文句もなかったからだ。ラクサスは、ロナン誕生当時、既に騎士としての道を歩み始めていた。ラクサスが立派になればなるほど、ルウファの兄への羨望が強くなり、自分の無能さ、無力さといったものを認識するはめになったのだが、一方で、そのおかげでルウファもまた、ロナン同様自由にさせてもらえたというのもあるだろう。
もし、ラクサスがアルガザードや周囲の期待に応えられないような人間だったなら、ルウファは、ラクサス以上に厳しく育てられただろうし、武装召喚師ルウファ・ゼノン=バルガザールが誕生することはなかっただろう。
いまのルウファがいるのは、なにもかも兄のおかげといわざるをえないのかもしれない。もちろん、ラクサスには感謝しているのだが、面と向かってそういったことを口にしたことはない。親衛隊の副長として、別の親衛隊長であるラクサスと言葉を交わすことはあるが、兄弟として話し合う機会などほとんどなかった。ラクサスがバルガザール家の本邸に戻ることはほとんどないというし、戻ってきたとしても、そのときルウファが本邸にいるとは限らなかった。ルウファが《獅子の尾》隊舎を寝床としているように、ラクサスも《獅子の牙》隊舎で寝泊まりすることが多いのだ、
(集中しすぎて、か)
ルウファは、庭に置かれた椅子に腰掛けるロナンを見遣りながら、彼の言葉を胸中で反芻した。そして、胸の内で頭を振る。集中しすぎて、ということはあるまい。むしろ、雑念が多すぎて気が付かなかったというべきだろう。意識を集中していたのなら、感知範囲に起きた異変に気づかないはずがなかった。気づかなかったということは、別のことに気を取られていたということにほかならない。
武装召喚師がそれではいけない、とルウファは目を細めた。
シルフィードフェザーの翼を広げ、意識を集中する。翼の力を開放し、大気への干渉を始める。まず体に纏わりつく空気を支配下に置き、徐々にその勢力圏を強めていく。急速にではなく、徐々に。ゆっくりと、しかし確実に勢力圏を広げ、やがて彼を中心とした球状の勢力圏ができあがる。風の城。実に小さく、実に脆い、
「ぼくも武装召喚師になるよ」
不意の一言にも、集中が乱されることはなかった。驚くべき発言ではあったし、虚空を見ていたルウファの視線はロナンに注がれたが、風の城が崩壊するようなことはなかった。勢力圏を維持したまま、問いかける。
「武装召喚師になる? なにをいってるんだ?」
だれかに師事でもしたのかと思ったのだが。
「王立召喚師学園、応募したんだ!」
「聞いてないぞ」
「いってないもん」
ロナンは当たり前のようにいってきた。それはそうだろう。いわれていなければ、知りようがない。だが、いっておいて欲しかったのも事実だ。王立召喚師学園とはなんの関わりもないとはいえ、一応、ルウファは王宮召喚師という立場にあるのだ。武装召喚師のことなら相談して欲しいというのが本音だった。
「父上の許可は貰ったんだろうね?」
「当たり前でしょー。いくらぼくでも父上の許可なく武装召喚師なんて目指さないよ。兄さんじゃあるまいし」
「は、はは……それじゃまるで俺が父上の許可なく武装召喚師になったみたいじゃないか」
「そうじゃないの?」
ロナンがきょとんとした。机の上に置かれた鞄が横倒しになる。ルウファの起こした風が倒したのだ。渋々ながら、認める。
「そうだけど……」
「やっぱりそうなんじゃん! 皆、兄さんが突然姿をくらまして、心配してたんだもん。父上に許可取って出て行ったなら、あんな騒ぎになるはずないし」
「騒ぎ……か」
「そうだよ。ラク兄さんだって怒ってたし、屋敷中、大騒動だったんだから。特に母上が大変だったんだよ」
「……ああ、聞いてるよ」
ルウファは、静かにうなずいた。覚えていないはずもない。武装召喚師としての修行を終え、師グロリア=オウレリアの元を離れ、バルがザール家に帰ってきたときのことだ。父アルガザードはなにもいわずルウファを受け入れてくれたし、母は泣いて喜んでくれたのだが、兄ラクサスは、ルウファを厳しく叱責したものだった。ルウファが出奔したあと、バルガザール家がどれほどの騒ぎになったのか、こんこんと説教された。あらゆることに動じないアルガザードはともかく、母は、ルウファがいなくなった衝撃のあまり、しばらく寝込んだほどだという。ルウファはそのことを心の底から申し訳なく思ったし、反省し、それからというもの母のためにできることはなんでもしようと心がけた。十年の空白を埋め合わせるには、常に側にいてやるくらいじゃなければならなかった。
「だから、ぼくは父上が反対したら武装召喚師は諦めようって思ってたけど、許可が降りたからね。っていっても、入学できるかどうかは、わからないんだけどさ」
「八十倍の応募者だったっけな」
「狭き門も狭き門だよねえ」
ロナンが机の上に置いた手の上に顎を乗せた。不服そうな口ぶりだが、彼の気持ちはわからないではない。せっかく武装召喚師になれるかもしれない機会を得たというのに、その門があまりにも狭く、通り抜けられる可能性は極めて低いからだ。
「学園側も初めてのことだからね。まずは少人数ではじめて、様子を見ないことには」
「それはわかるけどさあ」
「なに、今回落ちても、また機会は巡ってくるさ」
「でもでも、早く武装召喚術を覚えて、陛下のお力になりたいんだよね」
ロナンは、目を輝かせながらそんなことをいってきて、ルウファの胸を打った。
(陛下のお力になりたい……か)
甘やかされて育てられているとはいえ、さすがはバルガザール家の人間だと思わざるをえないような発想だった。バルガザール家は、王家のために存在しているといっても過言ではない。王家の剣であり、盾であるというのがバルガザール家に伝わる古くからの教えであり、家の存在理由といっても言い過ぎではないのだ。昔から――ガンディア建国以前から、バルガザール家はガンディア王家に付き従い、その剣と盾としてあり続けてきたのだ。その家に生まれたものには、ガンディア王家がいかに尊く、素晴らしい存在であるかを説かれ、物心ついたときから王家の剣となり盾となるべく教育を受ける。ルウファが王家第一主義となったのも、それだ。バルガザール家の教育方針がそうさせた。ロナンもまた、同じような教育を受けてきたのだろう。自由奔放な彼からは想像もつかないことだが、彼も、ガンディア王家に忠誠を誓っているのだ。
「だとしても、五年、十年先のことさ。焦ってもしかたのないことだよ」
「それはわかってるけどさ……だから、一年でも早く入学したいんだよね」
ロナンの言いたいことも理解できる。一秒でも早く武装召喚術を習得したいのだ。一瞬でも早く武装召喚師になって、王家の力になりたいのだ。その想いの純粋さは、十年に渡って厳しい修行を続けていたルウファには痛いほどわかる。早く修行を終え、王都に戻りたかったのだ。
だから、ルウファはロナンに提案した。
「もし、学園に入学できなくて、すぐに武装召喚術を学びたいっていうのなら、師匠を紹介してやってもいい」
「本当!?」
「ああ。向こうの都合もあるから、絶対に、とは約束できないけどね」
ルウファの脳裏に浮かんだのは、グロリア=オウレリアの顔だった。これまで、グロリアの居場所は不明だった。ガンディア国内にいるのかさえ定かではなかったのだが、この度、彼女がジゼルコート伯の私設部隊に所属していることが判明し、いつでも会いにいけることがわかった。グロリアが受けてくれるかどうかはともかく、頼むことはできる。
もっとも、グロリアのことだ。ルウファが頭を下げれば、ロナンを弟子として引き取ってくれるだろう。しかし、ルウファはロナンにそこまではいわなかった。それをいえば、ロナンは学園への入学よりも、グロリアへの弟子入りを優先させるかもしれない。ルウファとしては、グロリアに師事するよりも、学園に入り、正当な教育を受けるほうがいいと考えていた。グロリアの元で修行すれば、武装召喚師として大成するのは間違いないが、それは、グロリアの厳しい修行を乗り越えることができれば、の話なのだ。乗り越えることができなければ、武装召喚師としての道を諦めるほかなくなる。
一方、王立召喚師学園では、グロリアの教育のような無茶なことはしないだろう。国による武装召喚師の育成機関なのだ。武装召喚師を大量生産することが目的の機関で、落第者が続出するようなことはしないはずだ。武装召喚師同士殺しあわせたというザルワーンの魔龍窟など、言語道断も甚だしい。
「兄さん! ありがとう! それでも嬉しいよ!」
ロナンは、椅子を倒す勢いで立ち上がると、ルウファに駆け寄ってきた。そのまま抱きつかれて、ルウファはたじろいだ。ロナンの純粋さは、いまのルウファにはあまりにも眩しい。
「ロナン……ってあれ、兄上?」
今度は、感知範囲内への侵入者に気がついたものの、その侵入者がラクサスだったことにルウファは驚きを隠せなかった。もちろん、ここがバルガザール家の本邸で、ラクサスが出入りすることはなんらおかしいことではないことくらい、わかっている。
「え、ラク兄さん?」
ロナンも驚いたのだが、それはラクサスが普段から本邸に帰ってくることが少ないことに起因している。
本邸への道の途中、ラクサスが足を止めた。ガンディアにおける最高位の騎士・獅騎の称号を持つ男は、こちらを見て、少し怪訝そうな顔をしていた。
「なんだ、ふたりとも揃っていたのか」
ラクサスがその貴公子然とした表情を少しばかり緩めた。王宮では常に厳しい顔つきをしているラクサスも実家では穏やかな表情も見せるのだ。しかし、その表情を知っているのは家族くらいのものなので、多くの人間には、ラクサスは常に厳しく、怒っているのではないかと誤解されたりする。そしてその誤解の理由には、ラクサスは気づかない。
「ちょうどよかった」
「ちょうどよかった?」
「どういうこと?」
ルウファは、ロナンと顔を見合った。それから、ほぼ同時にラクサスを見る。
「父上に話があるのだ。おまえたちにも使いを出そうかと考えていたところだのだよ」
「父上に話?」
「なんでぼくたちまで?」
「バルガザール家に関する大切な話だからだ」
ラクサスの眼光は鋭く、ルウファは背筋が凍るような感覚を覚えた。