第千百三十七話 死神と闇人形
実戦形式の訓練でセツナに勝てば、なんでもいうことを聞いてやるといったのは、セツナだ。当初、レムは、セツナとの実戦形式の訓練には気乗りではなかった。レム自身が傷つくのは構わないが、セツナを万が一でも負傷させるようなことがあれば、大問題だ、というのが彼女が気乗りしなかった理由だった。
彼女の気持ちも分からないではなかったが、セツナは、黒き矛の使用感覚を取り戻すためにも、実戦形式の訓練が必須だと認識し、故にレムに頼み込んだ。レムが勝てば、彼女の望みをなんでも聞くという条件で、ようやく折り合いがついたのだ。もちろん、セツナに叶えられる範囲で、だが。
その話を聞いたミリュウやシーラが、我先にと実戦訓練を申し込んできたが、それらはセツナ自身が断った。不満を漏らす彼女たちには悪いが、セツナとしては、ミリュウやシーラたちが相手では、本気で戦うことはできないと思ったのだ。
レムならば、万が一負傷させるようなことがあったとしても、問題はない。無論、本気とはいえ、訓練なのだ。彼女を傷つけるつもりなどはなかったし、殺すことなど考えてもいない。しかし、万が一ということがある。そういう場合、レム以外の相手だと、死んでしまうことだってありうるのだ。
「それでは、御主人様。お願いします」
「まったく、おまえがなにを考えているのか、俺にはさっぱりわからんが」
セツナは、黒き矛を送還すると、全身に凄まじいまでの疲労を反動的に感じながら、呪文を口にした。武装召喚術を完成させる結語。
「武装召喚」
訓練着に包まれたセツナの全身が光を発し、つぎの瞬間、彼の右手の中に重量が生まれていた。黒仮面。アバードで、正体を隠すために召喚したものだ。
レムが、セツナに勝った場合の願いとして要求してきたのが、その召喚だった。
「あ……」
不意にレムが身を捩ったかと思うと、その場にへたり込んだ。
「やっぱり、変な感じですね」
「それをもう一度確かめたかったのか?」
セツナは、右手で持ったままの黒仮面とレムを見比べながら、彼女に問いかけた。黒仮面召喚時、レムが異様な感覚に襲われたという話は、彼女自身から聞いて知っている。日時を照らし合わせたところ、間違いなくセツナが黒仮面を召喚したときにレムの体調に異変が起きていたのだ。黒仮面とレムの体調に関連性があったとしても、不思議な感じはしない。黒仮面は、黒き矛の力の一部であるマスクオブディスペアを再現したものであり、レムに仮初の命を与えているのはマスクオブディスペアに類似した黒き矛の能力なのだ。
これまで実際に使って確かめることもしなかったのは、セツナ自身、黒仮面を召喚するよりも黒い矛を召喚するほうがいいと判断しているからだったし、黒仮面を召喚するような事態に陥ることなどそうあるものでもないからだった。
一方、レムは気になっていたのだろう。自分の身に起きていることなのだ。気にならないわけがないだろうし、実際に確かめてみたいと思うのも当然のことだ。セツナが主だから言い出せなかっただけで、ずっと確かめたくて仕方がなかったのだろう。そのことを思うと、少しだけ気の毒になる。
「それもありますが、もうひとつ……」
「ん?」
「御主人様の“死神”……」
「“死神”とはなんか違うけどな。出せって?」
「お願いします」
「わかったよ」
セツナは、どこか恍惚とした目でこちらを見ているレムの様子が気になりながらも、彼女の願いを聞き入れた。
仮面を被り、闇人形を生み出す。なにか特別なことをする必要はない。ただ、意識すればよかった。念じるだけで、セツナの影の中からそれは出現した。闇色の衣を纏った人形のような物体。セツナは闇人形と呼んでいるが、それがどういったものなのか、完全に把握しているわけではない。セツナが意識して動かすこともできれば、自動的に敵を攻撃してくれたりもする。よく見ると、少女を思わせる姿形をしているのだが、闇人形がなぜそのような形状をしているのかは不明だ。深層心理の投影や、無意識の嗜好の反映というのならば、なにもいうことはないが。
「セツナ、それはなんですか?」
「闇人形だよ」
「闇人形? 魔晶人形とは違いますね?」
「当たり前だろ。この人形は召喚武装の能力だ」
「セツナの召喚武装はカオスブリンガーだけだと記憶していましたが、認識を改めなければなりません」
ウルクは、黒仮面をじっと見つめていた。
「まあ、この仮面の出番なんてそうあるもんじゃないけどな」
「そうですか。しかし、わたしとしてはセツナのことをもっと知る必要があると認めます」
「勝手にしてくれ」
「勝手にします」
ウルクのどこか機械的な反応は、彼女が人間ではなく、造られた存在であることを強く認識させた。魔晶人形。人造人間。自我が発生し、人間と同じように思考し、言葉を交わすようになったのは、開発者であるミドガルド=ウェハラムたちにとっても想定外の出来事だったらしい。本来は、遠隔操作する戦闘兵器に過ぎなかったのだ。
それがいまやある程度人間らしく振舞っているのだから不思議なものだったし、そんな無機的な振る舞いも違和感なく受け入れてしまっていることも、奇妙な感じがした。といって、ウルクを拒絶する理由もない。
ウルクから、レムに視線を戻す。彼女は、立ち上がることもままならないまま、闇人形を見つめていた。その目が濡れているように見えて、どきりとする。レムが美少女染みた容姿の持ち主なのは、最初から理解していたことだ。
「どうだ?」
「前にもいいましたが、わたくしにそっくりですね」
「そうかな」
闇人形の体型がレムに近いことに気づいたのは、以前、レムたちにお披露目したときのことだ。そのときは、ミリュウたちの指摘によって気が付かされたのだが。見れば見るほど、身長や体格など、本当によく似ていた。
「わたくしの目には、そう見えます」
「たしかにのう。わしも初めて見た時は、先輩を思い出したものじゃ」
「ラグナまでそういうんなら、そうなのかもな」
「お認めになられるのですか?」
レムが意外な顔をした。その目は潤み、熱を帯びている。見つめられるだけでどきどきしたが、セツナは自分の表情が緩みきっているのを認識して、闇人形を注視した。これで、公然と彼女の視線から顔を背けることができる。
「“死神”といえばレムっていう頭が働いたのだとしてもさ、なんらおかしくないだろ?」
「そう……でございますね」
「それで、どうなんだ? なにかわかったか?」
セツナは、闇人形をレムの側に歩み寄らせながら問いかけた。音もなく、地を滑るように移動する闇の少女人形は、夜の闇を歩くレムを想起させる。いわれてみれば、確かにそっくりだった。ラグナが思い浮かべるほどだ。
「……いえ」
「そうか」
「なにもわかりませんが、ひとつだけ、わかったことがあります」
「なんだ?」
「まるで御主人様に抱かれているような、そんな気分なんです」
レムが顔を赤らめながら告げてきた言葉の意味を理解するよりずっと早く、素っ頓狂な声が裏庭の静寂を粉々に破壊した。
「はあ!?」
「え?」
「はい?」
「なんじゃ?」
セツナは、レム、ラグナが同時に声を上げるのを聞いた。振り向くと、ミリュウが衝撃のあまり表情を引き攣らせたまま、物凄まじい勢いで迫ってくるところだった。熱気と迫力は、彼女が怒りの炎に身を焦がしているからだ。なぜ怒っているのか、理由ははっきりとわかる。
「なにいってんのあんた、正気!?」
「エリナはどうしたんだよ?」
「連れてきたわよ! 弟子ちゃんがセツナに逢いたいっていうから!」
ミリュウがセツナの質問に答えてくれたのは、彼女が怒りの中でも正気を失っていない証拠なのだろう。ミリュウが指し示した方向から、エリナが駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん!」
「エリナ、よく来たな」
セツナは、小犬のニーウェを抱えた少女の頭を軽く撫でた。数日ぶりの対面に、エリナとニーウェは全身で喜びを表してくれている。しかし、彼女たちの保護者とでもいうべきミリュウは、セツナの顔が熱くなるくらいの怒気を発していた。
「よく来たな、じゃないわよ!」
「なんだよ」
「レムの発言!」
ミリュウは、怒り心頭といった様子であり、彼女がここまで怒ったことなどこれまでなかったのではないかと思うほどだった。彼女の心に怒りの炎を灯したのは、まず間違いなくレムの一言なのだが、もちろん、あんなものはただの喩え話であり、普段のミリュウならば笑い飛ばすか話のネタにしてセツナに迫ってくるか、どちらかだったはずだ。
「それがどうしたんだよ?」
「セツナに抱かれているような、って!」
「ような、だろ」
セツナは、やれやれと頭を振った。確かにレムの発言には心音が高鳴りはしたが、それは彼女の恍惚とした表情とうっとりとしたような声によるものであって、実際にそういうことが一度でもあったからではない。あるわけがない。
「抱かれたことがあるみたいな!」
「エリナの前でなんてこといってんだ、おまえ」
「いったのはレムでしょ!」
「いやいや、レムはたとえ話でだな」
セツナは、話題を変えようと必死になった。なぜそこまで必死になって話題を変えなければならないのか自分でもわからなかったが、とにかく、現在の状況を丸く収めるためには、ミリュウの怒りを鎮めなければならないのだ。そのためにも、一度、話題を変えるべきだと判断した――のだが。
「あれは冬の日のことでした……」
「おいっ!?」
「なっ――!?」
レムの余計な一言が状況をさらに悪化させていく中、裏庭の特等席からこちらの様子を観察していた人外組が、ぼそりと話し合っているのが聞こえた。
「ミリュウはなぜ大声を上げているのですか?」
「さあのう」
「抱かれることがなにか問題なのでしょうか」
「知らぬ。わしにはわからぬ」
「人間というのは不思議な生き物ですね」
「そうじゃな。しかし、わしからいわせれば、おぬしも十分不思議じゃ」
「ドラゴンも不思議です」
「世の中、不思議なものばかりじゃな」
「そうですね」
ウルクとラグナのそんな会話が聞こえたのは、怒り狂ったミリュウを前にしてセツナの脳が現実逃避を始めていたからかもしれなかった。