第千百三十六話 死神の願いごと
呼吸を整え、精神を落ち着かせ、意識を集中する。神経を研ぎ澄ませるために、深く、静かに染まっていく。
得物は、矛。黒き矛。カオスブリンガーと名付けたセツナの腕。黒く禍々しい形状が特徴的過ぎる漆黒の矛。破壊と殺戮、そして混沌をもたらすもの。
柄を握るだけで力が湧いてくると感じるのは、錯覚ではない。実際に膨大なまでの力が流れ込んできている。それが五感や身体能力を強化する力であり、武装召喚術の副作用と呼ばれるものだ。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚――感覚という感覚が肥大し、ただ肥大しただけではなく鋭敏に研ぎ澄まされる。
武装召喚師の強さの所以のひとつであり、武装召喚師が知識だけでなく肉体的な力、精神的な力を必要とする一因である。
普通とはまったく比較にならないほどの超感覚は、ともすれば自分を見失わせ、召喚武装の支配を許すことになりかねない。そうなった末に起こるのが逆流現象であり、逆流現象の行き着く先は精神的な死だという。
かつて、ミリュウが黒き矛の複製を試み、成功したことがある。オリアス=リヴァイアの召喚武装のひとつ、幻龍卿の能力がそれを成した。なにからなにまでまったく同じ召喚武装を複製する能力は、見事カオスブリンガーを再現さしめ、ミリュウに圧倒的な力をもたらしたことは、未だに思い出すことがある。
あのとき、セツナは死を覚悟した。セツナ以上に黒き矛の力を引き出す武装召喚師だ。セツナこそ本物のカオスブリンガーを手にしていたとはいえ、いや、カオスブリンガーを手にしていたからこそ、死を感じたのだ。
だが、セツナは死ななかった。ミリュウがカオスブリンガーから流れ込む力に飲み込まれ、意識を失ったからだ。
ミリュウは、黒き矛に取り込まれた。複製の、紛い物の黒き矛に、だ。だが、偽りの黒き矛は本物となにもかも同じであり、ミリュウは逆流現象の中でセツナの記憶を見たという。
幸運にも意識を取り戻すことができたものの、場合によってはあのまま精神を蝕まれ、二度と目を覚まさなかったかもしれなかった。
そのときの話になるたびに、ミリュウは思春期の少女の顔になるのだが、それは、彼女が目覚めるきっかけがセツナの呼び声を聞いたから、らしい。
ともかく、召喚武装とはそれほどに恐ろしい存在であり、生半可な気持ちで扱ってはいけないものなのだ。
異世界の武器や防具だ。それも、意思を持ち、使用者に干渉してくることさえある。その干渉に打ち勝つ精神力と、膨大な力に翻弄されない肉体がなければ、武装召喚師になどなれるわけがないのだ。
召喚師学園が開校したとして、生徒たちが使い物になるまで最低でも五年はかかるというのも当然の話で、戦力として運用したいのならば十年は見たほうがいいという武装召喚師たちの意見には、うなずくほかない。
そのことはレオンガンドをはじめ政府首脳陣も理解しているし、長期的視野でもって学園を設立したのはセツナにもわかることだ。即戦力となる武装召喚師が欲しければ、《協会》と交渉するか、《協会》未所属の武装召喚師を探し出すしかない。
もっとも、ガンディアには現在、十五名ほどの武装召喚師が所属しており、戦力が不足しているわけではないのだが。
その十五人の中には、当然、《獅子の尾》の四人も入っている。
ちなみに、レムは武装召喚師には数えられていない。彼女の“死神”は、かつてはクレイグの召喚武装マスクオブディスペアが作り出した仮面の能力だったが、いまは彼女自身の能力といっていい。黒き矛による再蘇生の影響なのだろう。彼女は、死神部隊の死神たちが使っていたすべての“死神”を用いることができた。
前方、メイド服のままのレムが立っている。防具は不要だと、彼女はいう。殺されても死なないし、腕を切り飛ばされたところで復元することができるのだから、身を守る必要はないというのだ。しかし、痛覚がないわけではなく、ラグナとの戦いでは凄まじい痛みを覚えたというし、ミーティア・アルマァル=ラナシエラとの戦闘で腕を切断されたさいの痛みは、その比ではなかったという。しかし、彼女は敵の攻撃から身を守るために重い防具で全身を包み込んで体を重くするよりも、メイド服という形相極まりない格好で縦横無尽に飛び回るほうが性に合っているというのだ。そして、これがなによりも重要なのだが、もし、重装備の状態でミーティア・アルマァル=ラナシエラと戦っていたら、レムはなにもできずに完封されていただろうということだ。
ミーティア・アルマァル=ラナシエラは、ニーウェ・ラアム=アルスールの仲間(おそらく部下だろう)のひとりであり、その俊敏極まりない身体能力は、死神レムでさえ捉えるのが困難なほどだったらしく、軽装でなければまともに戦うことなど不可能に近かったらしいのだ。今後、ミーティアと再戦する可能性がないとはいえない。それにミーティアとの戦いだけを想定してのことではなく、武装召喚師のような超人的身体能力の持ち主との戦いを考慮しての結果だった。武装召喚師との戦いでは、防具などほとんど意味をなさない。それならば、メイドの格好のままで十分だと彼女は考えている。
手には、大きな鎌が握られている。柄だけで身長ほどはあるだろうか。曲線を描く鋭利な刀身は禍々しく歪んでいる。死神の鎌。“死神”と同じく、彼女が影から取り出したそれは、通常の武器よりは強力だが、召喚武装のような特異な能力を持っているわけではない。が、だからといって油断していいものでもない。
そして、彼女の右隣には、“死神”が立っている。闇色の衣を纏う髑髏の化物だ。レムと同じく大鎌を手にした“死神”は、現在の“死神”の基本形であり、彼女は壱号と呼んでいる。弐号、参号、肆号、伍号、陸号と合わせて六つの形態に変身させることができるのであり、それぞれに特徴があるらしい。
基本形の壱号は、すべてにおいて平均的な能力を持つ形態であり、基本の“死神”という言葉通りのものだ。しかし、すべてにおいて平均的ということは、どのような状況でも使いやすく、汎用性に長けるという意味でもある。そしてなにより、彼女が昔から慣れ親しんだ“死神”なのだ。彼女がよく呼び出すのも当然なのかもしれない。
ふたりが対峙している場所は、《獅子の尾》隊舎の裏庭だった。隊舎の敷地は広い。敷地の内外を隔てる壁の内側には巨大な建物のほか、前庭と裏庭があるのだ。前庭はそれこそ客人を迎え入れるために整えられているのだが、裏庭は、自主訓練用の空間としてだだっ広く、ほとんどなにもない場所となっていた。裏庭の片隅に設けられた倉庫には、訓練用の武器防具が収められており、いつでもだれでも好きなときに持ち出すことができた。セツナが療養中、隊舎の警護に駆り出されていた傭兵たちが、任務の合間合間に持ち出しては訓練を行っていたのは記憶に新しい。また、裏庭には、ファリアのために木製の的が設置されている。ファリアは木剣や木槍での訓練よりも、弓による訓練を好んだし、そのほうがいいのは彼女の召喚武装を見れば明らかだ。
セツナがいま、レムと対峙しているのは、訓練のためだった。しばらくぶりの訓練。長期間、体を動かすことさえ困難だったこともあり、セツナの体は鈍りきっていた。せっかく日夜鍛え上げ手に入れた筋肉は、療養中、少しずつ落ちてしまい、取り戻すためにも早く回復しないものかと思ったものだった。焦っても仕方がないことはわかっていたが、それでも鍛錬の再開ばかりを望んでいた。いつ戦いが起きてもいいように、準備万端に整えておきたかった。
やっと、体を動かしてもいいというマリアからの許可が降りたのが今朝のことだった。背中の傷も、脇腹の傷も完全に塞がっており、激しい運動をしても問題はないだろうというお墨付きを得た。マリアは、もう少しの間休んでいてくれたほうが安心できるというのだが、それでは筋肉が落ちきってしまいかねないこともあり、セツナは訓練に踏み切った。
セツナは準備運動を済ませたとき、ふと、思い立って自主鍛錬の見学をしていたレムに稽古の相手を頼んだのだ。木剣や木槍を用いるものではなく、召喚武装を用いる実戦形式の訓練。そんなことができるのは、万が一負傷させてしまっても問題なく回復するレムくらいのものであり、レムは、そのことをいうと何故かいつになく嬉しそうな顔をしたものだった。ラグナは、不服な声を上げてきたが、小飛竜の彼がセツナの訓練に協力できるはずもない。防御魔法を駆使すれば無敵の的になることくらいはできるだろうが、訓練のために魔力を浪費させたくなかった。話を聞く限りでは、現在の魔力はアバード潜入時以上だというが、だからといって魔法を使いまくれば簡単に消耗し尽くすだろう。
もっとも、アバード潜入時、ラグナの魔力があっという間に枯渇したのは、魔法の防壁で受け止めた相手の攻撃が強力だったからであり、強力な攻撃からシーラを護るためにより強力な防壁を構築する必要があったからだという。
それならばなおのこと、セツナと黒き矛の訓練には使えなかった。ロウファ・ザン=セイヴァスの光の矢よりも、黒き矛の一撃のほうが強いに決まっている。
「いつでも来い」
セツナは、黒き矛を構えた姿勢のまま、告げた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
レムが、地を蹴った。レムが左に飛べば、“死神”が逆方向に飛ぶ。死神と“死神”による挟撃を画策しているのだろうが、セツナは、構わず前進した。左右の死神たちが同時に急停止し、一瞬の時間差もなく、同時に襲い掛かってくる。セツナは、右に矛を向けて光線を発射し、左からの斬撃には矛の柄で対処した。激突音とともに衝撃が手に伝わる。カオスブリンガーの穂先から放たれた光が“死神”の頭を貫いたつぎの瞬間のことだ。レムの大鎌の斬撃が、セツナの繰り出した矛の柄に激突した。見やる。大鎌の刃の向こう、レムのいつも通りの笑顔があった。
「さすがでございます!」
「こんなもんじゃねえだろ」
「はい!」
レムの威勢の良い返事を聞いた瞬間、寒気がして、セツナは大鎌を捌いて右に飛んだ。なにかか空を切る音がした。爆音。一瞥する。“死神”の巨大な腕がセツナがさっきまで立っていた地面を抉っていた。剛力を誇る“死神”は陸号だったか。
「殺す気かよ」
「本気でかかってこいと仰られたのは、御主人様でございます」
レムは悪びれもしない。当然だろう。セツナがそういったのだ。本気でやろう、と。本気ということは、殺すつもりということだ。セツナにレムを殺すつもりなどはないし、全身全霊で戦っているわけではないが、彼女にはそれを求めた。そうでなければ、練習にもならない。
「確かにな」
「もし、御主人様がわたくしか“死神”の手で命を落とすようなことがあれば、わたくしもこの世から消えてなくなりますので、ご安心を」
「どう安心しろってんだか」
「死ぬときは一緒にございます」
「寂しくはないか」
「はい」
力強くうなずいたレムが心底嬉しそうなのが妙におかしかった。
しかし、悪くはない。
そう思えたのは、死ぬのが怖くなくなるからかもしれない。
レムがいる。彼女が一緒に消えてくれる。それならば、死ぬことを恐れる理由はなくなる。そんな気がした。
レムの斬撃と、陸号の打撃を捌きながら、そんなことを考える。馬鹿馬鹿しいことだ。死ぬことなど、死ぬ瞬間のことなど、いま考えるべきことではない。いま考えるべきは、いかに体を鍛え直し、さらに鍛え上げるかであるべきだ。
巨躯を誇る“死神”陸号の拳が空を切った瞬間、その胴体を両断し、一対一に持ち込むも、レムは瞬時に“死神”肆号を呼び出し、セツナに襲いかからせた。四本腕の肆号は、ゴーシュ・フォーン=メーベルの“死神”だ。四本の腕にそれぞれ、柄の両端に穂先を持つ槍を持っている。手数で押す“死神”なのだろう。連撃のいくつかを捌き、飛び退く。穂先を“死神”に向け、光線を射出。精神力が吸い取られるような感覚に歯噛みする。
カオスブリンガーの光線は強力だが、消耗が多い。多用は禁物だ。とはいえ、使わなければならない場面で躊躇する必要はない。
肆号の破壊を確認するまでもなくレムの斬撃に対応する。横薙ぎの一撃を切っ先で受け止め、流す。大鎌が空を切った瞬間、レムの影が膨れ上がり、“死神”が飛び出してくる。華奢な“死神”は伍号。速度が取り柄の“死神”は、咄嗟に仰け反ったセツナの鼻先を掠めて頭上へと飛んでいった。
“死神”を破壊することに成功したとしても、つぎの瞬間には別の“死神”が控えているのだから質が悪い。
「鬱陶しいでしょう?」
レムが、まるでこちらの心境をのぞき見たかのようにいってくる。地を掃う斬撃を軽く下がってかわす。闇の大鎌が地を抉り、土砂を飛ばした。
「そうだな。本当に厄介な能力だ……!」
「この能力をくださったのは、御主人様ではございませんか」
「知ったことかよ」
「あら、哀しい」
「はっ」
背後から地を滑るように突進してきた“死神”伍号を、大きく飛び退いてかわす。宙返り。視界が変転し、青空から裏庭の風景、地面を滑る“死神”が映る。レムは、“死神”を踏み台に、飛んだ。空中のセツナに向かって突っ込んでくる。
「ちっ」
舌打ちしたのも束の間、セツナはレムの体当たりをまともに食らった。景色が目まぐるしく変わる。どうやったのか、背中から地面に叩きつけられ、一瞬、呼吸ができなくなる。視界が暗い。なにかと思えば、レムの顔が間近にあった。
「悪手でございますね」
レムの満足気な表情と声は、セツナに敗北感を植え付けるには十分だった。重量を感じる。腹の上に跨がられているらしい。見ると、首筋に鎌の刃が突きつけられていた。完全敗北といってよかった。
「なんじゃ、御主人様のくせに情けないのう」
「セツナの負けですか。残念です」
「るせー、外野は黙ってろ!」
セツナは、唐突に飛び込んできた二種類の声に叫び返した。どちらも人間の声ではない。聞く限りでは人間のそれと大差ないのだが、人間が発している声ではなかった。ひとつは、ドラゴン。緑柱玉のような外皮が美しい小飛竜が、もうひとつの声の主の手の上でふんぞり返ってこちらを見ている。ラグナシア=エルム・ドラースという長たらしい名を持つドラゴンは、魔晶人形のウルクとともに、この訓練を最初から見学していたのだ。
裏庭には、ほかに見学者はいない。シーラは黒獣隊の連中とともに訓練に出掛けていたし、シドニア戦技隊も訓練と称して旧市街に繰り出していた。ルウファはエミルとともにバルガザール家に帰っていたし、ファリアは王宮に呼ばれていた。ミリュウは、エリナのいる新市街にいっていて、隊舎にはいなかった。
「負け犬の遠吠えというやつじゃな」
「セツナは人間ではないのですか?」
「あやつは犬よ。王なるものを前にすれば尻尾を振ることしかできん」
「犬……尻尾……?」
「てめえ、ラグナ。ウルクに余計なこと教えてんじゃねえっての!」
セツナが叫ぶと、ラグナはそっぽを向いた。ウルクはいつもどおりの無表情でこちらを見ているだけだが。
「ったく、これだからドラゴン野郎は……。病み上がりにしては上出来だっただろ?」
セツナは、レムが鼻息が掛かりそうな距離にあった顔がいつの間にか離れていることを認めて、静かにいった。負け惜しみにしか聞こえないかもしれない。病み上がり。それは事実なのだが、負けてからいえば、ただの負け惜しみだ。
こちらは、黒き矛の補助を受けている。病み上がりとはいえ、こちらに分が有るのは明らかだ。それで負けたのだから、素直に認めるべきだった。
「はい、上出来でございます。さすがはわたくしの御主人様。しかし、わたしの勝ちは勝ちでございます」
レムが、セツナの体の上から退きながらいってきた。そして、手を差し伸べてくる。
「わかってるよ」
「では、わたくしのお願い、聞いていただけますね?」
「ああ……」
セツナは、レムが差し伸べてきた手を掴み、彼女に引き起こされながらうなずいた。