第千百二十八話 敵か味方か(十二)
戴冠式が終わり、レオンガンドたちがルシオン王都セイラーンを後にしたのは、翌々日の十月三日のことだった。
戴冠式の翌日はお祭り騒ぎの疲れを取るために費やされたが、それだけで一日を使いきったわけではなかった。各国首脳との交流も積極的に行い、そのために余計に疲れることとなったが、レオンガンドにとっては快い疲れといってもよかった。国王としての責務を果たしているという実感が充足感を与えてくれる。充足感は、疲れを満ち足りたものとし、疲労が無意味なものではないという感覚が、彼に喜びを与えた。
イシカの弓聖サラン=キルクレイドやメレド国王サリウス・レイ=メレドと今後について話し合ったり、アバード外務大臣エイドリッド=ファークスからはアバードの現状について詳しく聞いたりした。ジベルの若き国王セルジュ・レイ=ジベルとも心ゆくまで会談し、ハーマイン=セクトル将軍とも言葉を交わした。
ワラルの王女であり次期女王エリザ・レーウェ=ワラルとも話し合う機会を得たが、エリザは、セツナがいないことを何度もいった。エリザはセツナに執心らしいのだが、それは彼がワラルの国王であり、ハルンドールの戦いで散ったデュラル・レイ=ワラルの最後を看取った人物がセツナだからだという。エリザは、セツナに感謝さえしていた。セツナがデュラルを殺さなかったから、ワラルはワレリアを取り戻すことが出来たのだ、と。レオンガンドにはいまいち理解の出来無い言葉だったが、エリザがセツナに会いたがっていることは痛いほど伝わってきて、ハルンドールの戦い後、セツナがエリザになにかをしたのではないかと疑ってしまったほどだった。エリザにいわせると、そういうことではないらしのだが。
ともかく、王女エリザがセツナに執心なのはよくわかった上、彼女からセツナへの言伝も預かっていた。エリザはどうやらセツナを我が物にしたいと考えているらしいが、それだけは阻止するつもりだったし、セツナがレオンガンドのものでなくなることなどあってはならないとも考えていた。セツナが他国のものとなれば、それだけで脅威といわざるをえなくなる。いくらエリザがセツナに執心で、彼女がワラルの女王となったしても、彼を渡すことなどできるわけがなかった。セツナを差し出すことでワラルとガンディアの同盟が強固になったところで、割にあわないにもほどがある。
「まったく、ワラルの次期女王様にも困ったものだ」
ガンディオンへの道中、レオンガンドは愚痴をこぼしたことがある。
夜の野営地でのことだった。側近たちも寝て、彼はアーリアのほか、アレグリア=シーンと話をしていたのだが、そのとき、ふと話題に上がったのが、エリザのことだった。
「王女殿下がどうかなされたのですか?」
「ああ。エリザ姫は、セツナにご執心なのさ」
「セツナ様に、ですか」
「ああ。セツナのことが一目見て気に入ってしまったらしいよ」
「一目見て? セツナ様はいらっしゃられませんが」
「セツナにルシオンを任せたことがあっただろう。そのときにさ」
「王女殿下が戦場に出られたと?」
「不思議なことではないだろう。リノンクレアも、姫のころから戦場に出ていたし、王子妃となってからも前線に出たものだ」
「それはそうですが……」
「まあ、君のいいたいこともわかるがな」
レオンガンドは、アレグリアの知的に輝く目を見つめながらいった。エリザ・レーウェ=ワラルは、一見、戦うことなどできなさそうな女性だった。見目麗しい姫君というのは、リノンクレアも変わらないが、リノンクレアは体が出来上がっていた。対して、エリザの体つきは、戦士のそれではなかった。アレグリアが疑問に思うのも当然だったのだ。しかし、エリザがハルンドールの戦いに参加していたのは事実であるらしい。もっとも、参加こそしたものの、刀槍を振るう機会には恵まれなかったという。彼女が戦う前に、ワラル王が死に、ワラルの目的が成し遂げられたというのだ。
「彼女がセツナを見初めたのは、戦いの後のことらしい」
「王女殿下を一目惚れさせるとは、セツナ様も罪作りな方ですね」
「まったくだ」
レオンガンドは、アレグリアの何気ない一言に噴き出してしまった。もちろん、彼女も、ワラルの王女殿下がセツナに一目惚れしたわけではないことくらい理解しているだろう。アレグリア=シーンは、参謀局の第二作戦室長を務めるほどの人物だ。ナーレスに才覚を見出され、エイン=ラジャールと並ぶ軍師候補のひとりなのだ。レオンガンドよりよほど頭が回るといってもいい。
「しかし、セツナは渡せまい」
「当たり前です」
アレグリアが少しばかり怒ったようにいってきたのが、不思議だった。
「セツナ様はガンディアにとって必要不可欠なのですから、他国の姫に見初められたからと差し出すなど、ありえないことです」
「わかっているよ」
「ワラルの王女殿下も、いったいなにを考えておられるのでしょう」
「セツナを手に入れることができれば、ワラルは盤石になるだろうからな」
「陛下がセツナ様を手放すなどと思っておいでなのでしょうか」
「まさか、そんなことは考えてもいないだろうさ」
レオンガンドのことをよほどの無能とでも想っていないかぎり、そんなことはありえないだろう。未だに“うつけ”を信じているわけでもあるまい。レオンガンドの暗愚評を信じているものがいるとすれば、それはあまりにも情報が遅れすぎている。しかし、そのようなものならば、レオンガンドからセツナを奪うことができると考えてもなんらおかしくはない。が、ワラルの王女からは、そういった愚かさは見受けられなかった。むしろ、聡明で、理知的な女性のようだった。
「ただ、セツナがエリザ姫に惚れてしまえば、話は別だ」
「陛下がお引き止めになるでしょう?」
「セツナがわたしの引き止めに応じなければ、どうすることもできないさ」
レオンガンドは、諦観などではなく、事実を述べた。セツナを支配することなど、できるわけがない。
「セツナは、ガンディアに属しているが、彼個人の人生をわたしが縛ることなどできない。それは、君も理解しているだろう」
「わかっていはいますが……」
「もちろん、わたしは彼を手放すつもりはないし、彼がガンディアに留まり続けてくれるよう働きかけ続けるつもりだがね」
「セツナ様をガンディアに引き止め続けるには、どうすればよいのでしょうね」
アレグリアが嘆息とともにいった。アレグリアも、ワラル王女に負けず劣らずセツナのことを好いているということを、レオンガンドは思い出した。いや、政治的、戦略的な見地からセツナを欲しているエリザ王女よりも、アレグリアのほうが純粋な気持ちは強いかもしれない。もちろん、強いというだけであって、アレグリアがセツナを取り巻く他の女性たちのような目で彼を見ているというわけではないのだが。
アレグリアは、戦術家の立ち位置からセツナを見ていることが多い。
「それこそ、軍師様方に考えていただこうか」
「わたくしは軍師ではありませんよ」
「軍師候補だろう」
「候補です」
「ふむ。では、言い方を変えよう。軍師候補様たちに考えていただく、と」
「はあ」
「なんだ。やる気がでないのか?」
「セツナ様を引き止める方法など、思いつきませんよ」
アレグリアがまたしても嘆息した。諦めにも似た言葉は、レオンガンドの気持ちも同じだった。
「セツナ様は欲がない方ですからね」
「たしかにな」
レオンガンドは同意した。確かに彼女の言うとおりだった。
セツナは、レオンガンドの配下になって以来、自分からなにかを欲したということがなかった。地位も、金も、名誉も、女も、なにも欲さなかった。セツナがレオンガンドになにかを願いでたことなど、ないに等しかった。エレニア=ディフォンの助命やレムの扱いなど、彼の功績に比べれば些細なことに過ぎない。
人間とは欲を持つ生き物だ。無欲な人間など、そういるものではないし、強欲な人間のほうが多いとさえいっていい。そして、欲深な人間ほど操縦しやすく、欲が薄くなるほどに操縦するのは困難になっていく。セツナとて人間だ。完全に無欲であるとはいえまい。が、彼が活躍の対価を求めてきたことなど、一度たりともないのだ。それは驚嘆に値することであり、また、レオンガンドの頭を大いに悩ませることでもあった。
欲深な人間はもので釣ることができる。ものさえ与え続けていれば、裏切ることはない。しかし、欲のない人間となると、そうはいかない。
セツナは、欲のない人間なのだ。少なくとも、レオンガンドはそう認識しているし、アレグリアの発言からわかる通り、参謀局の総意でもあるのだ。
レオンガンドは、そのため、セツナにくれてやれるものはすべてくれてやってきた。王宮召喚師という耳慣れぬ官職を新設したのもセツナのためだったし、彼のために王立親衛隊《獅子の尾》を結成した。ファリア・ベルファリア=アスラリアを彼の配下に加えたのも、セツナの関心を買うためにほかならない。領地を与え、領伯に任命したのも、そのひとつだ。さらに領地を増やし、彼の求めるままにレムをジベルから引き取りもした。
すべては、彼を失わないためだ。
セツナをガンディアに繋ぎ止めるためならばなんだってするし、くれてやる覚悟があるのだ。
「彼がなにかを欲してくれるのなら、それほどありがたいことはないのだがな」
レオンガンドがため息混じりにつぶやくと、アレグリアがくすりと笑った。
「セツナ様に限っていえば、それはありえない話でしょうね」
「だろうな。困ったことだ」
「ですが、そういうセツナ様だから、わたしは好きなのです」
アレグリアが、少しばかり照れくさそうな表情をしたのが印象に残った。彼女がセツナ信者だということは、かねてから知っている。ナーレス曰く、エインとセツナの話だけで一晩中語り明かせるくらいには熱狂的らしい。だが、彼女がエインのようにセツナのことを語っているところを想像するのは、難しい。エインならば納得もできるし、想像もできるのだが。
「そういえば、君をはじめ参謀局の連中は皆セツナが好きだな。なにかというとセツナのことを話題にしている気がするのだが」
「気のせいではございませんよ。局長も、第一作戦室長も、局員たちも皆、セツナ様のことを気にしているのです」
「それはセツナという人間への興味からか?」
「もちろん、それもありますが、もっとも重要なのは黒き矛のセツナという戦力なのです」
「黒き矛のセツナ……な」
多少の感傷を込めて、レオンガンドは彼女の言葉を反芻した。カオスブリンガーと名付けられたセツナの召喚武装は、黒き矛と呼ばれることが多い。まさにその呼び名通りの形状であり、黒き矛を振るうセツナの代名詞ともなっている。絶対の死をもたらす黒き矛はセツナであり、セツナは黒き矛なのだ。
「セツナ様には戦術も策も不要。ただおひとりで戦局を左右することのできる稀有なお方。それほどの力を持つ一個人など、そういるものではありません」
「そうだな」
武装召喚師という人種がいる。紅き魔人アズマリア=アルテマックスが考案した武装召喚術を自在に駆使するものたちは、常人を圧倒する力を持っているといっていい。武装召喚術によって異世界より召喚される武器や防具の数々は、どれもこれも強力極まりない上、持ち主の身体能力を引き上げるという。
そんな武装召喚師をも圧倒するのが、セツナなのだ。彼は、他の武装召喚師には真似のできないことを成し遂げてきている。ガンディアに勝利をもたらしてきた彼の数々の戦功は、彼にしかできないことがほとんどだった。つまり、彼がいなければ、ガンディアがここまで急速に国土を拡大させることなどできなかったということであり、その事実は、誰もがよく知るところだ。だからこそ、彼を手放すわけにはいかないのだ。
「そんな方ですから、セツナ様を中心とした戦術を組み立てるのも、楽しいものなのです」
「ほう」
「セツナ様を自由に使うことができるという仮定ではありますが」
「たとえば、どのような戦術だ?」
「そうですね……たとえば、遠征中、急遽国に戻らなければならなくなった場合の戦術なのですが」
「えらく限定的な戦術だな」
「参謀局での戦術談義は、基本的に限定的なものが多いんです。特定の状況下で、限られた戦力で、特定の地形で――そういった条件の中でいかにして自軍を勝利に導けるかを考えるのが、参謀局の仕事ですから」
「なるほど」
大いにうなずいて、レオンガンドはアレグリアに話を促した。
「それで、アレグリア考案の戦術とは?」
「殿軍をセツナ様おひとりに任せる、というものです」
「……なるほどな」
殿軍とは、軍勢の最後列の部隊のことだが、この場合、退却中の軍隊において後尾に位置し、敵の追撃を防ぐ軍勢のことをさしているのだろう。つまり、セツナに敵の追撃を引き受けさせている間に国に戻るということであり、そうすることで退却時の損失を最小限に抑えることができると踏んでいるのだ。
「セツナならば、殿軍の役目、見事果たしてくれるだろうが」
「それに、セツナ様なら、きっと生還してくださるでしょう」
「しかし、それならばセツナひとりではなく、《獅子の尾》に殿軍を任せればよいのではないか?」
「それでは、退却軍側の戦力が大きく低下いたします」
「……どういうことだ? 国に戻るだけならば、戦力が低下していようと構わないではないか」
むしろ、セツナの生存率を上げるという意味でも、《獅子の尾》そのものを殿軍としたほうがいいように思える。
「戻った先で戦うことになった場合、という条件付きでございますので」
「……ふむ」
レオンガンドは、アレグリアの穏やかな微笑を眺めながら、なんともいいようのない顔をした。前提条件をすべて明らかにされていなかったのだから、レオンガンドがあのように考えるのも当然ではないか、と思わないではなかったが、そのことは口にしなかった。アレグリアのことだ。なんらかの含みがあるのだろう。
そして、彼女は、突然、まったく別の話題を降ってきた。
「ところで、陛下」
「なんだ?」
「敵は、見つかりましたか?」
「……影さえ見えないよ」
嘆息とともに隣の席を見る。
「アーリアも使ったのだがな」
だれもいなかったはずの空間に突如として女が現れる。アーリアだ。濡れたような黒髪に包まれた灰色の目が、こちらを見ていた。アレグリアは、アーリアの出現にも驚くことさえなかった。参謀局の作戦室長ともなれば、アーリアの存在も認知しているということだ。戦術を立案するのが参謀局の主な仕事だ。自国の戦力を把握していなければ、せっかくの軍師候補たちの頭脳も活かせない。
ガンディアの戦力は日々増えている。武装召喚師が加入したり、傭兵と契約を結んだりして、戦力の増強を図り続けている。それは、大陸小国家群の統一という大目標のためには必要不可欠なことであり、そのために惜しむようなものはなにもなかった。とはいえ、日々増加する戦力を完全に把握しているものなど、ほとんどいまい。国王であるレオンガンドもそうだ。全戦力を完全に理解しているわけではない。そういうことは、参謀局の人間に任せてある。参謀局とは、戦術の立案を主な仕事としているが、そのために戦力の把握、情報の収集も欠かせないことであり、日々、国の内外の情報を集め続けている。
アレグリアに聞けば、ガンディア軍の戦力のだいたいのことはわかるだろう。エインも同じだ。
「ジゼルコート伯はいまのところ、陛下に敵対しているという気配さえありません。話に聞く私設部隊の増強も、領地が増えた以上、当然のことでしょう。セツナ様も黒勇隊、黒獣隊といった私設部隊をお持ちですよね」
「ああ」
「ジゼルコート伯が本当にガンディアを裏切っているのかどうか。ベノアガルドとの関係はどうなっているのか。調べられる限り調べましたが、なにもわからず仕舞い」
アーリアが肩を竦めたのは、ケルンノール潜伏中のことを思い出したからかもしれない。姿を消すだけでなく、存在そのものを認識できなくするという彼女の異能は、潜入任務にも大いにその力を発揮した。存在を認識されないということは、発見される恐れがないということだ。もちろん、彼女の身体能力の高さもあってのことだが、そういった能力を駆使して長期間潜入した結果、なにも得るものがなかったのだ。彼肩をすくめたくもなるだろう。
「戴冠式の前後、わたしのほうでもジゼルコート伯を注意深く見ていたのですが、なにもおかしなところはございませんでした。ジルヴェール様やエリウス様、デイオン将軍に大将軍閣下などともご歓談されておられて、いままで通りといった様子でしたわ」
「君には、接触してこなかったのか?」
「わたくしも少しはお話しましたが、局長のことを聞かれたくらいで」
「ナーレスのことを?」
「療養中の局長が早く良くなるように祈っていると、仰られていましたわ。軍師様は、セツナ伯同様、ガンディアの将来にはなくてはならない人物だということも」
レオンガンドは、アレグリアの話を聞きながら、新王誕生の祝宴の光景を思い出していた。ジゼルコートが様々な相手と談笑している姿をよく見かけたことを覚えている。彼は領伯だ。ガンディアにおいては、王に次ぐ権力者といっても言い過ぎではない。そして彼は政治家だった。内政のみならず、外交も、彼の得意とするところだ。
ジゼルコートの人脈の広さには、レオンガンドも驚くことが多々あった。
ジベルの将軍ハーマイン=セクトルや、イシカの弓聖サラン=キルクレイドなどとも話し合っていて、どこに接点があったのかと思ったものだった。
そういう意味では、ベノアガルドとどこかで繋がっていたとしても、おかしくはないのかもしれない。