第千百二十七話 敵か味方か(十一)
「ハルベルク・レイ=ルシオンか」
レオンガンドがふとつぶやいたのは、いまにも降るような星空の下だった。セイラーン城の展望塔に、彼はいる。新王誕生を祝福する宴は盛り上がりに盛り上がったまま終わり、各国首脳陣を筆頭とする宴への参加者の多くは、ほろ酔い気分で会場を後にしたものだった。レオンガンドもそのひとりで、ついひとりごとを口走ったのも、ほどよく酔いが回っていたからだろう。
展望塔からは、セイラーン城と城下町とでもいうべき王都セイラーンの全体を見渡すことが出来た。レオンガンドは子供の頃、セイラーンを初めて訪れたとき、展望塔から見渡すセイラーンの景色に興奮したのを覚えている。セイラーンを訪れれば、つい展望塔に登ってしまうのも、そのころに植え付けられた印象のせいだろう。
ガンディオンの王宮には、王都を一望できるような展望塔はなかった。
「陛下と同じですよ」
不意に聞こえた声に、レオンガンドははっとした。ハルベルク・レイ=ルシオンの声だったからだ。
「レオンガンド・レイ=ガンディア陛下」
振り向くと、ハルベルクが階段を登りきったところだった。展望塔の屋上。彼は護衛ひとり連れていないが、それはここがセイラーン城内であり、身の危険の心配がないという絶対の信頼があるからだろう。一方、レオンガンドは、護衛を連れている。姿もなく、気配もなく、音もなく、影のように寄り添ってくれている。アーリアだ。当然、ハルベルクには見えない。が、彼はアーリアがいることくらい知っているだろう。アーリアは、レオンガンドのいるところ、常にいる。レオンガンドの元を長期間離れるのは、彼女にしか成し得ない任務を与えたときくらいであり、それ以外でレオンガンドの側を離れることはほとんどなかった。
「これはハルベルク陛下。聞こえてしまいましたか」
「大きなひとりごとでしたから」
ハルベルクが、ほがらかに笑ってきた。彼は、戴冠式が終わってからというもの、ずっと笑顔を絶やさなかった。披露行進のときも、宴のときも、ずっと笑っていた。昨日から今朝にかけては緊張で表情を凍りつかせていたことから、戴冠式が無事に終わり、緊張が解けたのだろう。それにしても笑い過ぎだが、それは彼が酔っているからなのかもしれない。
「階下まで聞こえるほどとは」
「階段の途中にいましたので、階下まで聞こえたかどうかは」
ハルベルクが困ったように笑った。釣られて、笑う。笑い話にもならないことで笑えるのは、今日という日が素晴らしい一日だからだろう。ハルベルクの戴冠式が無事に終わったということは、王位継承が完全になされたということであり、ハルベルクがルシオンの国王として正式に認められたということなのだ。
「それで、わたくしの名前がどうかされましたか?」
「どう、ということでもないのですが」
レオンガンドは、そう前置きした上で、いった。
「これで、わたしとあなたは同じになった」
「同じ……」
「あなたも一国の王となられた。これからは、対等の立場になる、ということです」
レオンガンドは、ハルベルクの目を見つめながら、告げた。ハルベルクは、レオンガンドの発言に驚いたようだったが。
「対等……?」
「ええ、対等です。ガンディアとルシオンの同盟は、本来、対等のもののはず。我が父シウスクラウドと、ハルワール陛下の立場が対等であったように、わたしとあなたの立場も対等であるべきだ」
「対等……」
「これまではあなたは王子であった。だから、わたしは上に立ち、あなたを導こうとした。しかし、あなたは王位を継承なされた。ルシオンの正当な国王となられたのです。これまでと同じというわけにはいかない」
レオンガンドは、当然のことをいった。
ガンディアは、ガンディア、ミオン、ルシオンの三国同盟の盟主のような立ち位置になっていたが、本来三国は同格であり、いずれかが上に立っているというわけではなかった。ミオンがガンディアとルシオンそれぞれの国の一部となって三国同盟が崩れ去り、ルシオンに新たな国王が誕生したいま、同盟としての関係を見直すときがきたのだ。もちろん、いままで通りの関係でもなんら不都合はない。むしろ、ガンディアにとってはそのほうが都合がいいとさえいえる。しかし、レオンガンドはそれを良しとはしなかった。そのまま、微妙にねじれた関係を続けるということは、いつか破綻する可能性をはらんでいるのではないか。そんな気がして、彼は関係を是正するべきだと判断したのだ。
ハルベルクが国王になったいまこそ、そのときに相応しい。
「対等になど、なれますか」
ハルベルクが首を傾げたのも、わからなくはなかった。
「もちろん」
しかし、レオンガンドは、そういったハルベルクの疑問も飲み込むようにいった。
「国の大きさ、保有する戦力の多寡で、同盟国の力関係が決まるわけではありませんよ、陛下」
もちろん、そんな言葉でハルベルクが納得するとは想っていなかったが。
レオンガンドは、構わなかった。ハルベルクが納得するしないの問題ではない。レオンガンドが納得できるかどうかの話なのだ。ルシオンは同盟国であり、属国でも支配地でもない。そのことを是正せず放置していれば、いずれ痛い目を見る可能性がある。同盟国だが、同盟国だからこそ、気を使わねばならない。
ミオンのような前例もある。
ミオンとルシオンは立場もガンディアとの関係も大きく違うものの、だからといって、ルシオンが絶対にミオンのようにならないとは言い切れない。無論、レオンガンドはハルベルクに全幅の信頼を寄せているし、リノンクレアを王妃とするハルベルクがガンディアを裏切るようなことはないと思うのだが、ハルベルクは一国の王となったのだ。王子の時代とは異なり、国のことを考えなければならなくなった。立ち位置が変わったのだ。
ハルベルクにいったように、これまでと同じというわけにはいかないのだ。
「しかし、陛下がわたしにとって義兄上であることに変わりはありませんよね」
「ああ」
レオンガンドは、横に並んで星空を仰いだハルベルクの言葉を肯定して、彼に倣って天を仰いだ。無数に瞬く星々が、闇の空を埋め尽くしている。秋の夜空。夜風はやや冷たく、酔いを覚ますにはちょうどよい具合だった。
「わたしはまだ王として覚悟が足りないのかもしれません」
「即位したばかりなのだから、当然だろう」
レオンガンドが砕けた口調でいったのは、ハルベルクがいま、レオンガンドを義兄として見て振舞っていることを悟ったからだ。レオンガンドも、彼を義弟と見做して振る舞うのが正しいのだ。
「わたしも、そうだったよ」
「義兄上も?」
「即位した当初は、敵も多かった。“うつけ”だったのだから当然ではあるが、周囲には数えきれないほどの敵がいて、それら敵との暗闘に力を割くばかりで、国王としての覚悟など、考える暇もなかった。わたしがガンディアの国王らしくなれたのは、ここ数ヶ月のことではないかな」
「義兄上でも、そうなのですか」
「わたしだけじゃない。国王となるもの、だれしも同じじゃないかな」
だれであれ、国王という立場が持つ責任の重大さを理解し、決意と覚悟を持つまで、時間がかかるのではないか。王子から王へ。王位継承そのものは、一瞬の出来事といっていい。しかし、即位したことを頭で理解し、心で認識するまでには、時間がかかる。いや、瞬間的に理解できたとしても、それがどれほど重責を担うものなのかを把握するのは、簡単なことではない。そのために幼いころから王としての教育を受け、覚悟や決意を叩き込まれるのだが、だからといって即位と同時にすべてを理解できるはずもない。
王子もまた、責任ある立場だが、王とは比べ物にならない。
「だれしも同じ」
「そう。だれも皆、同じなんだよ」
レオンガンドは、ハルベルクの反芻を肯定すると、星空から眼下に視線を移動させた。王都セイラーンの夜は、各所に魔晶灯がきらめき、完全な闇とはなっていない。家屋から漏れる光の多さが、大都市であるということを実感させ、新王誕生の喜びがいまも王都を包み込んでいるのだろうと想像させた。さすがに王城までは王都の騒ぎは聞こえないが、いまでも騒いでいるものがいるのは疑いようがない。
「同じ人間で、同じように悩み、同じように苦しむものさ」
「義兄上も?」
「ああ」
うなずき、言葉を続ける。
「わたしも散々悩み、苦しんだ末に王をやれている。ハルベルク。君も散々悩むことだ。苦しむことだ。そうすることで、君は国王としての自分を確立することができるようになる」
「悩み、苦しむ……」
「……しかし、君にはリノンがいる」
レオンガンドは、この場にいない三人目のことをいった。三人目。レオンガンドとハルベルクとリノンクレアという三人は、子供の頃からよく一緒になって遊び回った間柄だった。ハルベルクがガンディオンにきたときは、常に三人一緒になって走り回ったものだった。
そこにジルヴェールが加わることもあったが、彼は子供の頃から自分の立ち位置を把握していて、王族の遊びに参加することを極力避けた。彼も王族ではあるのだが、王子ではないという負い目が、そうさせたらしい。ハルベルクもリノンクレアも、ジルヴェールのことをよく覚えていて、彼が戴冠式に参列したことを喜び、レオンガンドの側近となっているということにも驚きと喜びを見せていた。
「わたしにはいまでこそナージュがいるが、当時はひとりだったからな。ひとりで思い悩むのと、信頼できる妻がいるのとではな、わけが違う」
「そう……ですね」
ハルベルクは、なにか考え事をしているような、そんな顔をした。
「わたしにはリノンがいる。羨ましいでしょう?」
「ふふ……そうだな。だが、わたしにはナージュがいるぞ。レオナも生まれた。羨ましいのは、君の方ではないのか?」
「ふふっ……そのとおりですね」
「君とリノンの間にも、早く子供が生まれるといいな」
レオンガンドがいうと、ハルベルクは照れたように顔を俯けた。
ハルベルクは、そういう話題は、昔から苦手だった。
星空の下、レオンガンドとハルベルクの話し合いはいつまでも続いた。