第千百二十五話 敵か味方か(九)
大陸暦五百二年十月一日。
ルシオン王都セイラーン王城にて、新王ハルベルク・レイ=ルシオンの戴冠式が執り行われた。
その日、セイラーンの空は、新たな王の誕生を祝福するかのように雲ひとつない青空が広がり、各国から集った参列者たちの気分も快く包み込んでいた。
十月。夏が過ぎ去り、秋が到来して久しいが、王都セイラーンは肌寒さを感じさせないくらいの熱気に包まれていた。
戴冠式。
新たな王が冠を頂くという式典が執り行われる重大な日だ。先の国王ハルワール・レイ=ルシオンの喪が明けてからというもの、新王誕生を待ち望む国民の声は日に日に高まっており、いまにも破裂しそうなほどの勢いとなって王都を包み込んでいた。
そういった熱気を肌で感じるのは、彼がガンディア人で、ルシオン人とはなにもかもが違うからだろうか。
(違うな)
デイオン=ホークロウは、戴冠式の会場となるセイラーン城静天の間へと向かいながら、胸中で頭を振った。城内、静天の間へと向かっているのは、デイオンだけではない。ガンディアからの参列者が彼の前後を粛々と歩いている。その一団の先頭にいるのは、彼の主君であるレオンガンド・レイ=ガンディアだ。隻眼の獅子王は、まさに百獣の王の如き佇まいであり、一挙手一投足に威厳を感じずにはいられなかった。
以前のレオンガンドにはなかった重厚な空気感は、王女が誕生し、親となったことも関係するのかもしれない。
レオンガンドは王妃ナージュとの間に第一子を設けた。レオナと名付けられた王女は、現在、王都ガンディオンでナージュ王妃やグレイシア太后の元で健やかに日々を過ごしていることだろう。子は、励みになる。そのことは、デイオンには実感として理解できた。レオンガンドの言動がいままで以上に力強く感じるのは、そういったことも影響しているに違いなかった。
一歩後ろをついていくジゼルコートと談笑しながら会場へと向かうレオンガンドの後ろ姿を見つめるデイオンの脳裏には、彼のお披露目となった戴冠式の光景が浮かんでいた。
先の王シウスクラウドの国葬から一月あまり、喪が明けたことにより、レオンガンドが正式に王位を継承する運びとなったのは、五百一年二月のことだった。英傑と褒めそやされた王の子にして王位継承者は、当時、“うつけ”と蔑まされ、ガンディアの大多数の貴族や国民からも否定的な目で見られることが多く、レオンガンドが王位を継承することはすなわちガンディアの歴史の終焉であると信じるものが少なくなかった。戴冠式の当日、王都を包み込んだのは、現在のセイラーンを覆っているような熱気でも歓喜でもなく、ひたすらに寒々しい空気だった。
デイオンは将のひとりとして参列したのだが、戴冠式のあまりの空々しさにレオンガンドのことが気の毒になったものだった。
もちろん、すべての貴族や軍人、文官が彼を見放していたわけではないし、グレイシア・レア=ガンディア(当時)のように心から祝福するものもいないわけではなかった。それでも、セイラーンの現状を見れば、当時のガンディア国民がいかにレオンガンドの王位継承を悲観的に受け止めていたのかがわかろうというものだ。
つまり、国民性の違いではないということだ。
レオンガンドとハルベルクの置かれている状況の違いなのだ。
ハルベルクは、賢王ハルワールの第一子であり、子供の頃から神童の誉れ高く、武術に秀で、学があり、ひとを惹きつける魅力に溢れた王子として知られていた。ルシオン国民からの人気も高く、そういう意味ではレオンガンドとは正反対の環境の中、育ってきたといってもいい。
レオンガンドは、英傑王シウスクラウドの第一子であり、生まれて間もなくシウスクラウドの子として英傑の片鱗を見せたがため、国民からの期待を一身に背負い、物心付く前からその一挙手一投足に注目を集めた。約二十年前、シウスクラウドが病に倒れるまで、国民の期待を集め続けたといってもいい。レオンガンドが本格的に“うつけ”を演じ始めるのは、シウスクラウドの病状が一向に改善する気配がなく、悪化する一方となる数年後のことであり、シウスクラウドはみずからがガンディアの指揮を取れない以上、ガンディアを存亡の危機から護るため、あえてレオンガンドに“うつけ”を演じさせた。
なにもかもガンディアのためであったが、レオンガンドが暗愚を演じていることを知らないものたちにしてみれば、レオンガンドが突如として気が狂ったように見えたし、彼が父の病状に絶望し、正気を失ったと思ったとしても、なんら不思議ではなかった。
デイオンも、そのひとりだったからだ。もっとも、デイオンは、レオンガンドと触れ合ううち、彼が“うつけ”を演じていることを見抜き、故にレオンガンドに忠誠を誓い、彼のために盾となろうと心に決めたのだが。
当時から今に至るまで、レオンガンドの言動というのはなにもかも国のためのものだった。ガンディアのためだけを考え、行動していたのだ。が、真相を知らないものには、そう受け取ってもらうことなどできるわけもなく、レオンガンドの戴冠式が薄ら寒い空気の中で行われたのも、当然のことだった。
レオンガンドは、それでよかったのだ。それが、ガンディアが生き延びるための方策だったのだから、そうなることこそが思惑通りであり、長年の策が実を結んだといえる。
しかし、戴冠式の夜、ひとり寂しそうに玉座に座っている彼の姿を見たとき、デイオンは、レオンガンドの心情を察し、心で涙したものだった。
その点、ハルベルクは幸福だ。国民から常に一定の支持を得続けている。王位継承も諸手を挙げて賛成され、受け入れられている。レオンガンドと比べると、その熱量の差たるや愕然とせざるを得ない。もちろん、デイオンはハルベルクを評価していないわけではないし、ハルベルクとルシオンの協力があったからこそガンディアが勝ち続けてこられたということも重々承知している。
それに、ハルベルクが王位を継承すれば、ガンディアとの関係はさらに睦まじいものとなるだろう。ハルベルクはレオンガンドを兄のように慕っている上、彼の妻、つまり王妃となる女性はレオンガンドの妹であり、ガンディアの元王女リノンクレアなのだ。リノンクレアは政略結婚としてハルベルクに嫁いだのだが、ハルベルクとリノンクレアの仲睦まじさは、互いに想い合っているということがよくわかるものだ。ふたりの仲の良さは、ガンディアとルシオンの国民を強く結びつける絆ともなっている。
そして、ハルベルクとレオンガンドの関係も良好そのものであり、その関係の深さはレオンガンドの側近たちも羨むほどだという。
デイオンもよく知っていることだ。レオンガンドとハルベルクは、昔から実の兄弟のように仲が良く、そのことは、レオンガンドが“うつけ”を演じているころも変わらなかった。ハルベルクには、“うつけ”の中の真実が見えていたのであろうし、リノンクレアも、だからこそレオンガンドに憤りを感じていたのだろう。
レオンガンドは、王位継承を機に“うつけ”をやめた。暗愚の仮面を捨て去り、若き獅子王としての道を歩み始めた。それからというもの、ガンディアは連戦連勝、大陸史に刻まれるほどの急激な国土拡大を成し遂げ、ガンディアはいまや小国家群最大の国となった。
国土だけでなく国力も増大し、向かうところ敵なしといった感のあるガンディアだが、このまま勝利を積み重ねていけるかどうかは、わからない。
レオンガンドは、大陸小国家群の統一を目標として掲げている。レオンガンドの目標はすなわちガンディアの目標でもあり、それは、ガンディアは小国家群を統一するまで戦い続けるという意思表明でもある。しかし、なにも侵略戦争だけを無限に続けるわけではないというのは、レオンガンドの発言からも明らかだ。レオンガンドの小国家群統一とは、小国家群がひとつの勢力として纏めるという程度の意味合いであり、小国家群のすべての国を支配下に収めるということでも、小国家群そのものをガンディアという国にするということでもない。そのいずれかであった場合、同盟国や友好国まで支配下に置くなり、併呑するなりしなければならず、敵に回すことにもなりかねない。
ルシオンがガンディアとの同盟関係を続けていられるのは、ガンディアが同盟国を大事にしているからであり、もし、同盟国の国土さえもガンディアのものにしようという考えの元で行動していたのなら、ルシオンはとっくにガンディアを見限り、敵対していたかもしれない。
どれだけ両国の絆が強くとも、侵略の意図を持っている国となど、友好的ではいられまい。
そういう意味では、ルシオンは今後もガンディアの大切な同盟国として存在し続けるだろうし、戦力も提供してくれることだろう。
それはいい。
(問題は……)
問題があるとすれば、ガンディア国内だ。
デイオンは、レオンガンドとなにやら話し込んでいるジゼルコートの横顔に先王シウスクラウドの面影を見出して、眉根を寄せた。兄弟なのだから、似ているのは当然のことだ。そして英傑王の実弟であるジゼルコートは、かつて、ガンディアの影の王として君臨した人物であり、現在も国政の要といっていい重要人物だった。
デイオンとは、彼が影の王として王宮に君臨していたころからの付き合いだ。
戴冠式は、セイラーン城静天の間で執り行われた。
新たな王の誕生を告げ、祝福する儀式には、ガンディアからの参列者のみならず、近隣諸国から数えきれないほどの要人が参加していた。
ガンディアの属国であるベレルからは国王がみずから訪れ、アバードからは王が不在(まだ王位継承を済ませていないのだ)ということもあって外務大臣が姿を見せていた。同盟国ジベルからはセルジュ・レイ=ジベルとハーマイン=セクトル将軍が、アザークやメレド、イシカなどからも国王が参列しており、ついこの間までルシオンと敵対していたワラルからも王女が姿を見せていた。
ワラルは、ハルンドールの戦い以降、ルシオンとの関係修復に奔走し、また、ガンディアと間に友好関係を結ぼうと動いていた。いまではルシオンとの関係も大きく改善しており、何百年にも渡って敵対していたとは思えないほどだという。
また、ワラルはハルンドールの戦いで国王を失っており、喪に服している最中なのだが、この近隣諸国の要人が集う場を逃すことなどできないということで、王女みずからが出向いてきたらしい。ルシオン国王の戴冠式に参加した国々と好を通じれば、今後、友好関係を結ぶのも少しは楽になるという判断だろう。
ワラルの王女は、いずれ、ワラルの国王となる人物だ。妖艶な美女であり、彼女は、レオンガンドやデイオンらガンディアの人間にもみずから挨拶して回った。
戴冠式は、つつがなく進行した。
参列者が見守る中、壮麗な鎧を着込んだ騎士たちに導かれるように会場に現れたハルベルクは、流麗な衣装を身に付けていた。戴冠式という場において鎧を纏っているのは、ルシオンが尚武の国であることの証明といってもいい。武こそルシオンの象徴であり、国王みずから剣を取り、先陣を切るというルシオンの意思表明といってもよかった。
ハルベルクが向かう先には、太后と呼ばれるようになった王母セレーナ・レイア=ルシオンが待っていて、彼女は大切そうに王冠を抱えている。太后が新たな王に王冠を与えるのが、ルシオンの古くからの習わしであり、この国の戴冠式なのだ。先の王が健在中ならば、太后の役割を先王が行うことになっており、先王、太后が存命していなければ、別のものがその役割を担うということだった。
静天の間は、セイラーン城の中でも特に広い部屋で、なにかしらの儀式を執り行うために作られたという。ハルベルクとリノンクレアの婚儀もここで行われ、ハルワールの葬儀も、この部屋で行われた。生の喜びも死の悲しみも、すべてこの静天の間に始まり、終わるのだという。
やがて、ハルベルクが太后の元に辿り着くと、彼は太后の前で傅いた。太后は、慈愛に満ちた目でハルベルクを見つめ、何事かをつぶやいた。おそらく、戴冠式という儀式のための言葉なのだろうが、デイオンの場所からはなにも聞こえなかった。
セレーナが、ハルベルクの頭上に王冠を載せる。きらびやかで荘厳極まりない王冠は、金色の輝きを帯び、ハルベルクが身に纏う金糸がふんだんに使われた鎧によく似合っていた。鎧も、戴冠式のためのものであり、王のみが身につけることを許されるものなのかもしれない。
「わたし、ハルベルク・レイ=ルシオンは、亡きハルワール陛下の遺志を継ぎ、このルシオンに大いなる平穏をもたらすことを約束します」
頭に王冠を戴いたハルベルクは、会場にいるすべてのものに向かって宣言した。
新王誕生の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。