第千百二十三話 敵か味方か(七)
レオンガンドたちがルシオンへと出発してから数日あまり、王都ガンディオンは平穏に包まれていた。
セツナがセツナの偽者と戦い、負傷したという大事件も、王妃ナージュの出産と王女レオナの誕生という慶事によってかき消された感があった。レオナ王女の誕生は、王都全体を祝福の空気で包み込み、王都のみならず、ガンディア全土が幸福感の中にあるという状況で、セツナが瀕死の重傷を負ったということを取り上げるようなものもいなかった。それに、セツナは一命を取り留め、回復しつつあるという話も広まっている。セツナは、つぎこそ偽者を退治してくれるだろうし、今後もガンディアに多大な貢献をしてくれるに違いない。ガンディアの英雄への期待と願望は、彼の敗北など瞬時に忘れ去られるほどに強烈だった。
そんな日々、後宮の警護も不要なくらいの平和が続いている。
それでも、国王から直接与えられた命令ということもあって、ルウファたち《獅子の尾》の面々は、毎日のように後宮の警備を務めていた。無論、《獅子の尾》だけで警護に当たっているわけではない。現在、自由に動ける《獅子の尾》隊士は、実質三人なのだ。セツナは療養中だし、マリアとエミルは医療係だ。武装召喚師とはいえ、たった三人では、完璧に警護するのは難しい。王宮警護や傭兵局の協力によって、後宮および王宮区画の警備は厳重なものとなっている。
また、セツナ配下の黒獣隊、シドニア戦技隊も警備に加わっているが、女性のみの黒獣隊はともかく、シドニア戦技隊は後宮への立ち入りは遠慮された。荒くれ者揃いの元傭兵たちだ。後宮で働く女官や後宮を出入りする貴族の女性たちに忌避されるのは当然だと、彼ら自身がいっているのだから世話がない。ただし、後宮外部の警備に使えないわけではないため、彼らも毎日のように動員された。
厳重な警備は、鼠一匹、蟻一匹通さないほどのものだが、王都の状況を見るに、そこまでする必要があるのかは疑問だった。もちろん、生まれたばかりの王女を護れという王命が間違っているというわけではないし、こういうときこそ気を緩めてはならないというのもわかるのだが。
「それにしても、なにもないというのも、なんというか」
「いいことじゃない。むしろ、なにも起きないほうがいいのよ」
ファリアはそういうと、お茶を飲んだ。
後宮内の一室、《獅子の尾》のための休憩室として用意された部屋に、ルウファとファリアはいた。現在、後宮内部の警護には、ミリュウが当たっている。彼女と王宮警護が後宮内部を、シドニア戦技隊と王宮警護が後宮外部の見回りを行っているのだ。ルウファとファリアのふたりは少し前まで警備に当たっていて、いまは休憩している最中だった。
休憩室には、飲み物と食べ物の類がこれでもかというくらい用意されていて、仮眠のための寝台も配置されている。寝室は後宮内に別に用意されており、レオンガンドらが帰ってくるまでの間は後宮で起居することになっている。
女性のみの楽園での生活など、男にとっては夢のようなものだが、喜びよりも緊張のほうが先に立つのがルウファであり、鼻の下を伸ばしている余裕などはなかった。そんなことをすればエミルに告げ口されるのもわかっているが、任務のほうが重要なのは、当然の話だ。
「ですよねえ」
「退屈……なんでしょ?」
「わかります?」
「まあ、わからなくはないわ。わたしだって、そうよ。でも、退屈だからいいのよ。暇がないってことは、それだけ状況が悪いってことでしょうし」
「それもわかるんですけど」
退屈万歳、という気にもなれないのは、暇な分だけ緊張感が薄れていくということも知っているからだ。
「ま、なんにしても、王女殿下が日々、健康でいられることがなによりだわ」
「そうねえ。本当、赤ちゃんって体調管理が大変だものねえ」
唐突に割り込んできた声に、ルウファはファリアとほぼ同時にそちらを振り返った。ルウファとファリアが対座する卓のすぐ横に、その人物は立っている。
「た、太后殿下!?」
「い、いつの間に!?」
そう、ふたりに話しかけてきたのは、太后グレイシア・レイア=ガンディアだったのだ。ルウファは度肝を抜かれるとともに立ち上がり、勢いあまって椅子を転倒させると、すぐさまグレイシアに向かって傅いた。驚きと緊張で心臓がばくばくと動いているのがわかる。隣では、ファリアも似たようなことをしている。予期せぬ事に慌てふためくのは皆同じということだ。特に相手が太后だということが大きい。
「なによう、そんなに驚かなくたっていいんじゃない。ここ、わたしの城よ」
そういって、グレイシアは周囲を指し示した。確かに後宮は太后グレイシアの城といっても過言ではない。ガンディアの中心たる王宮区画に独立勢力を保っているといってもいいのだ。太后は、それくらいの権力は有している。
そして、そんな太后の城の中をグレイシアが歩き回っていても、なんら不思議ではないのだ。もちろん、ひとりではない。数名の侍女たちが付き従っているし、部屋の外には王宮警護が控えているのが見えた。
「なんて、冗談。ここも陛下の城の一部よ。わたしは間借りしてるだけ」
などと、茶目っ気たっぷりにいってくるのが、グレイシアのグレイシアたる所以なのだが、ルウファにはそういった仕草のひとつひとつがただただ眩しい。
「それと、畏まらなくていいわよ。あなたたち、王立親衛隊なんだから」
「は、はあ……そ、それでは……」
グレイシアに促されるまま立ち上がるものの、動悸が収まる気配はなかった。凄まじいまでに緊張しているのは、目の前にルウファが敬愛してやまない王家の代表的人物がいるからにほかならず、それほどの人物が、ごく気軽に話しかけてきているという事実があるからだ。
「なあに? どうしたの?」
グレイシアが、ルウファの顔を覗きこむようにしてくる。
「い、いえ……なんでもございません」
ルウファは、グレイシアの無防備極まりない接近にたじたじになりながら、冷や汗をかいた。ルウファは、バルガザール家の人間として生まれ育った。王家への忠誠心は絶対的といってよく、レオンガンドに声をかけられただけで魂が震えるほどの感動を覚える。そんな人間が太后に急接近され、馴れ馴れしくも話しかけられたりしたら、平常心を保つことのほうが難しくなるのは当然のことだ。鼓動が高鳴り、意識を正常に保つことも困難になる。
「わたし、ルウファちゃんに嫌われているのかしら?」
「太后殿下を嫌うだなんて、副長に限ってありうる話ではありませんよ。むしろ、殿下のことを敬愛しているからこその反応なんですよ」
「そうなの? 嬉しいような、ちょっと寂しいような感じねえ」
グレイシアは、本当に少し寂しそうな顔をした。太后にそういう表情をさせてしまったことが、ルウファにはたまらなく辛い。
「ルウファちゃんが生まれたばかりのころから知ってるのに」
「そうだったのですか?」
「ええ。よく笑う子でね、本当に可愛かったわ」
うっとりと遠い日のことを思い出している様子のグレイシアを見つめながら、ルウファもまた、子供の頃を思い出したりした。グレイシアの言葉に間違いはない。ルウファは子供のころはよく王宮に出入りしていたのだ。バルガザール家の次男として、アルガザードに連れ回されていたこともあれば、ラクサスとふたりして王宮内を冒険したこともあった。レオンガンドと遊んだ記憶もある。子供の頃の話だ。いま考えれば恐れ多いことばかりだ。
グレイシアには、本当によくしてもらった。そういう記憶が、ルウファの原風景となっているに違いなく、王家への忠誠心へと結実しているに違いなかった。
「へえ……副長にもそんな時代があったんですね」
「ファリアちゃんにだって、あったでしょ?」
「それは……そうですが」
「ファリアちゃんの子供のころも可愛かったんでしょうね」
「自分ではなんとも……」
「そうよね。でも、可愛かったのは間違いないわ。いまでも可愛いもの」
「そ、そうですか?」
「そうよ。セツナちゃんがずっと見つめているくらいだもの」
「はい!?」
ファリアの声が裏返ったのを横で聞いて、ルウファは透かさずふたりの会話に割り込んだ。このままではグレイシアの勢いに飲まれ、なにもかも流されてしまう気がした。それはそれで良かったのだが、それでは警護にならなくなる。
「そ、それで、殿下、なにか御用命でしょうか? もしかして、我々の警護に不備が?」
「あら、なにも用事がなかったら話しかけてはいけないのかしら?」
「い、いえ、そういうわけでは……!」
「もう、ルウファちゃんって冗談が通じないのねえ」
「副長、王家への忠誠心ならだれにも負けないひとですから」
「そうなの?」
「間違いありませんよ」
「嬉しいわ。ルウファちゃんみたいな子に――いえ、立派な武装召喚師様に慕われる家であり続けたいものね」
グレイシアは、目を閉じて、静かに微笑んだ。その微笑みの優雅さと高貴さはなにものにも代えがたく、ルウファは、目をそらすこともできなかった。
「でも、用事はあったのよ」
「な、なんでしょう!?」
「そんなに気張らなくてもいいわよ」
グレイシアは、くすくすと笑った。それから、思いがけないことをいってくる。
「ウルクちゃんのことなのよ」
「ウルクがどうかしたんですか?」
「なんでも、ウルクちゃんってお人形さんみたいに可愛らしいそうじゃない。イスラちゃんがね、王宮内で見かけて、はっとするくらいだったそうだから、つい逢ってみたくなっちゃって。セツナちゃんの護衛についているっていう話しだし、それなら、あなたたちに聞くのが一番だと思ったのよ」
「そういうことだったんですか」
「お人形みたいといいますか、お人形そのものなんですが」
「人形そのもの?」
ファリアの一言に、グレイシアがきょとんとした瞬間だった。
鼓膜を突き抜けるような轟音とともに後宮が激しく揺れ、椅子や机が倒れ、食器や菓子類が床に散らばった。ルウファは恐れ多いと思いながらも点灯しそうになったグレイシアの体を支えてその場に屈み込み、頭上を庇うようにした。が、上からものが落ちてくるようなことはなく、揺れもすぐに収まった。
「な、なに?」
「地震ではなさそうねえ」
ルウファの腕の中のグレイシアの声は、震えてさえいなかった。むしろ、太后殿下を庇っている体勢のルウファのほうが緊張で震えているという始末であり、彼は我ながら情けなくなった。が、震えが止まる気配はない。後宮の揺れは収まったというのに、自分は震えている。こればかりはどうしようもないことだ。今後、どれだけ年月が経とうとも、王家の方を目の前にすればこうなるだろう。身に沁みついたものだ。いや、もっと深いところを流れているものといったほうがいいのかもしれない。
血。
「殿下! ご無事ですか!」
「お怪我はありませんか!」
グレイシアの侍女や護衛の兵士たちが口々に彼女の無事を気遣うと、グレイシアは、ルウファの腕の中から飛び出すように立ち上がってみせた。
「見ての通り、無事よ。ルウファちゃんのおかげで怪我ひとつなかったわ」
「わたしはなにもしていませんが」
「支えてくれたじゃない。あなたが支えてくれなかったら、倒れてたわよぉ」
「そのときは、ファリアさんが支えてくれてましたよ」
「それはそうかもしれないけど、そういう話じゃないでしょ?」
「は、はあ……」
ルウファがどういえばいいのか迷っていると、部屋の外の廊下を駆けてきた人物がいた。その人物は、グレイシアの護衛として付き従っていた王宮警護の隊員たちを押し退けて休憩室に入ってくるなり、叫ぶようにいってきた。
「王宮からよ! ってあれ、太后殿下!?」
ミリュウは、ルウファとファリアになにが起きたのかを報せるために駆けつけてくれたのだろうが、休憩室に飛び込むなり、グレイシアの姿を目の当たりにして硬直してしまったようだった。そんなミリュウを、グレイシアがまじまじと見つめた。
「あらあら、あなたがミリュウちゃんね」
「え!?」
「可愛らしい」
「はい?」
ミリュウが戸惑ったのも無理からぬ事だ。
グレイシアは、硬直したままのミリュウに近寄ると、おもむろに抱きしめ、彼女の赤い髪をやさしく撫で付けたからだ。困惑の中、ミリュウは、視線だけでルウファとファリアに説明と助けを求めてきたが、ルウファたちにはどうすることもできない。
「殿下は可愛らしいものが好きらしいから」
「いや、ちょっと、あたし、可愛くなんてないから――じゃなくて、王宮に急がないと!」
「そ、そうね」
「あら、そうよねえ。もう少し堪能していたかったけど、残念だわ」
グレイシアは、本当に残念そうにミリュウを開放した。ミリュウは、グレイシアの腕の中から解き放たれると、ほっとしたような顔をしたのも束の間、恭しく頭を下げた。公の場や王侯貴族を前にした時のミリュウの仕草は、彼女の生まれや育ちを実感させる気品にあふれたものであり、さすがは五竜氏族の出身と思わざるをえない。
「わたくしごときで良ければ、いつでも堪能してくださって結構ですので」
「嬉しいことをいってくれるわね。じゃあ、今度はセツナちゃんと一緒に堪能させてね」
「セツナと!? は、はい、喜んで!」
グレイシアの思わぬ発言に狂喜するミリュウは、普段と変わらなかったが。ファリアが怒気を込めて声を張る。
「だから!」
「あ、ごめん」
「ごめんなさい」
「殿下はいいんです!」
ファリアが口早に訂正すると、グレイシアは口元をほころばせた。
「王宮の様子はわたくしたちが見てきますので、殿下は後宮から動かないでください」
「いやよ」
「え!?」
「殿下、わがままをおっしゃらないでください」
「わがまま? 違います。王宮は陛下の城よ。わたしは、陛下の留守を預かっているのですよ。陛下の留守中に王宮でなにかがあれば、わたしが責任を取るのは当然のことです。そのためにならたとえ火の中であろうとも向かいましょう」
グレイシアは、さっきまでとは打って変わった態度でいった。休憩室の騒がしかった空気が一瞬にして静まり返り、緊張感に包まれる。威厳に満ちた表情や声音は、太后に相応しいものといっていいのだろう。
ルウファは、感極まりそうになった。
「それに、なにがあっても、あなたたちが守ってくれるんでしょ?」
「……もちろんです!」
ルウファたちは、異口同音に頷くと、グレイシアをともなって休憩室を出た。
太后に頼りにされることほど嬉しいことがこの世にあるのだろうか。
ルウファは、そんな歓喜を噛み締めながら、音と揺れの発生源に向かった。場所は、ミリュウが特定していた。ミリュウは、ルウファたちの休憩中、ひとりで警護を担当するに当たって武装召喚術を使っていたのだ。召喚武装ラヴァーソウルを後宮の内外に展開した彼女には、王宮内のどこで問題が起きたのか、手に取るようにわかったのだろう。
しかし、ミリュウに先導させるまでもなかった。
後宮を出ると、王宮警護やシドニア戦技隊の隊員が王宮に向かって走っていて、その先で煙が立ち上っているのが見えたからだ。
「なにがあったのかしら?」
「事件か事故か……襲撃か」
「物騒ねえ」
「殿下は我々が命に変えてもお守りいたしますので、ご安心を」
「ええ。安心してるから、ついていけるのよ」
グレイシアの一言一言が、ルウファの胸に染み入るようだった。
もちろん、王宮で起きたなにかを突き止めるのも大事だが、後宮の警護も大事であり、三人が三人、現場に向かったわけではない。後宮にはファリアが残り、ファリアは、ミリュウと同じく召喚武装の能力を駆使して警備を厳重にした。オーロラストーム・クリスタルビットの展開により、後宮内はほぼ完全に彼女の監視下に置かれたようだ。これで、ルウファたちが現場に赴いている間に後宮が狙われたとしても、対処可能だろう。彼女ひとりで後宮全体を警護しているわけでもない。王宮警護やシドニア戦技隊もいる。なにものかが後宮を襲撃するために王宮で事件を起こしたのだとしても、どうとでもなるということだ。
あとは、ルウファたちが現場に辿り着き、なにが起きたのかを解明するだけでよかった。
そして、なんの障害もなく、現場に到着する。
現場は、王宮東の練武の間だった。なにが起こったのかはっきりとはわからなかったが、一目見て、大事件が起きたことはわかる。
壁に大穴が開き、外から練武の間の中が丸見えになっていたのだ。練武の間の壁は、王宮のすべての壁と同じく分厚く作られている。召喚武装でも用いなければ破壊することも困難なはずであり、ルウファはミリュウと顔を見合わせた。
それから、練武の間に入ると、黒き矛を手にしたセツナが、困ったような顔で立ち尽くしていた。
「セツナちゃんがやったのかしら?」
「まさかあ」
グレイシアの当然の疑問にミリュウが当然の反応を示したが、練武の間の中を見たところ、ほかに考えようがなかった。
練武の間には、セツナのほか、レム、ラグナ、シーラと黒獣隊の面々、ウルクがいたのだが、分厚い城壁に大穴を開けられるものといえば、セツナのカオスブリンガーくらいしか思いつかなかった。シーラの召喚武装ハートオブビーストも状況次第では不可能ではないだろうが、練武の間で血を流しているものはいない上、シーラの身体に変化は見受けられない。レムの能力では難しいだろうし、ラグナの魔法はセツナに使用を禁じられている。常人である黒獣隊士たちには不可能だ。ほかに唯一可能性があるとすればウルクだが、彼女は、セツナの後ろで茫然としているようにみえた。
感情のない人形でありながら、だ。
「すみません、つい興奮してしまいました」
セツナは、グレイシアを認識してだろう、そんな風にいってきた。