第千百二十二話 敵か味方か(六)
九月三十日。
その日、王都ガンディオンは、鉛色の空に覆われていた。いまにも雨が降り出しそうな空模様で、湿気を帯びた大気がどんよりとした空気感を作り出している。夏が過ぎ去り、秋も真っ只中に入っている。気温も低くなり、肌寒く感じることも少なくない日が増えてきている。このまま秋を越えれば、冬が来ることになるが、それはしばらく先のことだ。
「もう九月も終わりなんだな」
適当につぶやきながら扉を潜り、室内に入る。その瞬間、木剣同士がぶつかり合う激しい音が響き、セツナの耳を楽しませた。練武の間。ガンディアの王宮内にある訓練施設は、王侯貴族のための運動場なのだが、セツナたちにも開放されていた。もっとも、セツナはやっと歩きまわってもいいという許可が降りたばかりであり、激しい運動をすることは許されていないのだが。練武の間に訪れたのも、訓練が目的ではない。
黒獣隊の訓練の見学こそが目的である。
ちょうど、シーラとクロナが木剣をぶつけ合っているところだった。訓練用の防具を身に着けた上で木剣を振り回すふたりの姿は勇壮というほかなく、ふたりの熱戦を見守る残りの黒獣隊士たちの声援も加熱する一方のようだ。
「そういえば、明日、でございますね」
そういってきたのは、すぐ後ろにいるレムだ。レム以外にはラグナが頭の上に乗っていて、ウルクもついてきている。ウルクは相変わらずの無表情なのだろうことは、想像に難くない。
「ああ。本当なら俺もセイラーンだったんだなあ」
明日十月一日は、ルシオンの新王ハルベルク・レイ=ルシオンの戴冠式が執り行われる日だ。新王誕生の瞬間を目にするべく、ルシオンと友好関係を結んでいる国々から数多くのひとびとが参加するといわれており、同盟国ガンディアからはレオンガンドを始め、大将軍アルガザードや左眼将軍デイオン、領伯のジゼルコートなどが参加することになっていた。もちろん、本来ならセツナもそこに加わっているはずであり、こうして練武の間に入り浸っているはずではなかったのだ。
それもこれも、腹に開いた穴のせいなのだが、それは自業自得というほかない。ニーウェに無策で突っ込んだ己の愚かさが、セツナを王都に押しとどめることになったのだ。
「残念でございますね」
「それもこれもおぬしが油断するのが悪いのじゃ」
セツナを慰めるようなレムと、煽るようなラグナ、従者にしても主への態度の違いが見て取れる。セツナは、頭の上に手を伸ばすと、おもむろにラグナの小さな体を掴み、彼がじたばたするのも構わず目の前まで持ってきた。エメラルドのように美しい外皮に覆われた小さな飛竜は、長い尻尾と一対の翼をばたつかせてセツナの手から逃れようとしている。が、ラグナの力というのは、その小ささと変わらないのだ。どれだけ勢い良く翼を動かしたところで、セツナの指を抉じ開けることもできない。
「だれが油断したんだよ、だれが」
「おぬしじゃというておろうが」
牙のない口を開いて、威嚇するかのようにいってくるのだが、なんらおそろしくない。むしろ、ラグナの姿は愛嬌の塊であるため、可愛らしいとさえ思ってしまう。憎たらしい言動をしていても、だ。
「油断なんてしてねーっつの」
「では、実力で負けたのか?」
「実力ってか、能力?」
「負け惜しみじゃな」
「そうだよ、悪いかよ」
「悪くはないが、開き直るのもよくはないぞ」
ラグナのいうとおりではあったが、セツナは、彼を右肩に乗せながら言い返した。
「開き直りたくもなるさ。相手の能力がわからなきゃ、対処の仕様がねえんだ」
「エッジオブサースト、だっけ?」
と、口を挟んできたのは、シーラだ。セツナがラグナと口論している間にクロナとの打ち合いを終えたらしい彼女は、訓練用の兜を脱ぎ、木剣を肩に担いでこちらに近づいてきていた。セツナたちの話し声が訓練のじゃまになったのかもしれない。
汗が彼女の顔や首筋を濡らしている。
「ああ」
「どんな能力だったのか、覚えてねえのか?」
「空間転移したのは間違いないが、それ以外はよくわからないな」
エッジオブサーストが空間転移能力を持っていたのは、まず間違いない。視界から掻き消えたと思ったら背後から切りつけられていたのだ。目に映らなかった以上、高速移動とはわけが違う。黒き矛による補助を受けている限り、目にも止まらない速度など、ありえない。どれだけ早くとも、残影くらいは捉えられるはずだ。
それも思い込みで、黒き矛の補助が有っても捉えきれない速度というのもあるかもしれない。しかし、ニーウェのそれは高速移動ではないと断言できる。大気の揺れや気配の変化が、違った。どれだけ素早く移動しても、周囲の空気に影響を及ぼさないわけがないのだ。それがなかったという時点で、ニーウェがただ高速で移動したわけではないということが決定的となる。しかし、それは同時に別の疑問を生むことにもなった。
空間転移もまた、周囲の空間になんらかの影響を及ぼすはずなのだ。カオスブリンガーの能力である、血を媒介にした空間転移は特にそれが顕著だ。転移後、空間に割り込んだ影響か、衝撃波が発生した。衝撃波は周囲のものを吹き飛ばすくらいには威力があり、そういうこともあっておいそれとは使えなかったりするのだ。
ニーウェの場合、それがなかった。
「カオスブリンガーの能力に同じか?」
「元が同じだからな。似ていても不思議じゃない。ただ、あいつは血を媒介にしているわけじゃなさそうだったな」
「血を媒介にしない空間転移か……」
シーラがセツナの太腿辺りを見ながらつぶやく。セツナがよく自分の足を斬りつけて、そこから吹き出した血を用いて空間転移を行うからだろう。マリアを筆頭とした仲間たちに、セツナがよく怒られる原因のひとつだ。
『自分を傷つけることをなんとも思わないことなんて、勇気でもなんでもないよ。ただの愚か者さ。もっと自分を大事にしなよ、隊長殿。でないと、取り返しの付かないことになって、皆が悲しむ』
『先生も?』
『当たり前だろ?』
そういったときのマリアの悲しそうな顔は、セツナの考えを多少改めさせた。だからといって。いざというとき、自分の体を傷つけることくらいためらいはしない。それで状況を打開できるというのならなおさらだ。
空間転移能力の発動には、新鮮な血が必要だ。それも、黒き矛によるなんらかの攻撃によって噴き出した血でなければならない。たとえば動物の血をなんらかの方法で持ち歩き、媒介として利用するといったことはできないのだ。肉を切り裂き、噴き出した血に映る風景へと転移する――それが黒き矛の空間転移能力なのだ。ただ血を用意したところで、どうにもならない。そもそも、空間転移のために血を用意し、持ち運びながら戦うなどという器用な真似ができるわけもない。
「なんつうか、ひどい話だな」
「そうだろ?」
「ああ。セツナと黒き矛みたいにひどい」
「俺もかよ」
憮然とすると、シーラが笑った。彼女は最近、よく笑うようになったと評判だ。それもこれもセツナのおかげだとクロナ=スウェンやウェリス=クイードがいうのだが、セツナ自身、彼女になにかをしたわけではない。アバードで色々あって、そのときもセツナは彼女になにもしてやれなかった。シーラは、アバードのことは吹っ切ったようだが、セツナはいまでもそのことを考えるときがある。
もう少し、なんとかできたのではないか、と。
もちろん、あのときは最善を尽くしたつもりなのだが。
「へへっ、ひでえよ、おまえとカオスブリンガーはさ」
「シーラ様の仰る通りにございます」
「おまえまで同意すんなよ」
「わしもそう想う」
「どいつもこいつも……」
セツナは、歯に衣着せぬ従者たちの物言いに頭を抱えたくなった。領伯とあろうものが、こんな連中を下僕として従え、振り回されているのはいかがなものなのか。などと考える一方、自分には彼女たちでいいのだ、とも想う。偉そうにふんぞり返るなど、趣味に合わない。
「セツナとカオスブリンガーがひどい、とはどういうことですか?」
不意に、ウルクが問いかけてきた。つい最近合流したばかりのウルクには、セツナと黒き矛の能力など知る由もないのだ。ミドガルドが集め、彼女に聞かせた情報の中には、セツナの戦功やこれまでの戦いについてのものもあっただろうが、実際に見るのと、話を聞くのとではわけが違う。そもそも、彼女にシーラたちが抱いているような感情を理解できるのかは、わからない。
「わからなくていいよ」
「なぜです?」
見ると、いつもの無表情がこちらを見つめていた。表情もなければ、感情のかけらもない。声の抑揚のなさが、技術の限界を感じさせる。声が出せること自体、驚くべきことではあるのだが。そんなことをいえば、自律的に、人間のように動くということだけでも、驚嘆に値する。感情表現ができないことなど、些細な問題に思えるくらい、偉大な技術だ。
「どうだっていいことだからな」
「わかりません」
「だからさ」
「そういえば、ウルクって強いのか?」
「……どうなんだろうな?」
唐突なシーラの疑問には、セツナも首をひねるしかない。ウルクが強いのか弱いのかなど、あまり考えたことはなかった。ニーウェの意識外から突っ込み、殴りつける事ができるほどの速度を有していることは確かだし、その事実を踏まえると、強いといえるだろう。
「ずっと気になってたんだよな。人間じゃないんだろ?」
「ああ。彼女は、人間じゃない」
ヒトガタ、魔晶人形などと呼称される神聖ディール王国の戦闘兵器。人造人間とでもいうべきか。みずからの意志で行動し、言葉を紡ぐことができるのだが、それもミドガルドにいわせると大いなる失敗であり、本来は遠隔操作で動かすつもりだったという。しかし、ウルクに自我が発現したことで方針を転換し、現在に至るまで彼女の完成に向けて研究と開発を進めてきたのだという。いまも開発中で、完成してはいないらしいのだが、見たところ、彼女は完璧に動作しているように思えた。
美術品のように整った外見は、極めて美しい女性の姿を模している。絶世の美女に勝るとも劣らない美貌は、彼女が移動するだけでひとびとの視線を集めるほどだった。見目麗しい貴族のひとびとを見慣れている王宮の使用人たちですら、足を止め、彼女が歩くさまに見とれたりするほどだ。いかに彼女の造形が美しいのかがわかるというものだろう。セツナの主観だけではないということだ。
「死神でもございませんね」
「ドラゴンでもないの」
「もう黙ってろよ」
「なぜでございます?」
「そうじゃ、なぜじゃ!」
「話の腰が折れるからだよ、ぽっきりとな」
セツナが一瞥すると、レムはにこにこしていた。まったく懲りていないようだが、それはおそらくラグナも同じだろう。なにをいっても無駄なのだと諦めながら、ウルクに視線を戻す。彼女が首を傾げた。
「強いとは、力のことですか?」
「まあ、そうだな。力を含めた総合的な戦闘能力のことだ」
「木剣を使ったことは?」
「シーラ?」
見ると、彼女はどこかいたずらっぽく笑ってきた。
「ちょっと試してえんだよ。セツナだって、知りたいだろ? こいつがどれくらい強いのか。それに、今後しばらくガンディアの戦力になるってんならよ、知っておいて損はねえんじゃねえか」
「そりゃあ、そうだが」
「木剣を使ったことはありませんが、剣の使い方なら知っています」
「そりゃあいい。クロナ」
「あいよ。隊長も物好きだねえ」
手ぬぐいで汗を拭っていたクロナが、木剣を片手にウルクに歩み寄る。
「おまえだってやりたくてうずうずしてんだろ?」
「バレたか。隊長のつぎは、あたしの番ってことで」
クロナが乗り気でいうと、こちらを見ていた黒獣隊士のひとりが威勢よく手を上げた。ミーシャ=カーレルだ。
「じゃあクロ姐のつぎ、わたし!」
「そのつぎは、わたし……」
「なんでこう、戦闘馬鹿ばかりなのかしら」
「アンナは?」
「リザのつぎで」
「やるんじゃん!」
「あのねえ、弓使いのリザが参加して、剣使いのわたしが参加しないのはおかしいでしょ?」
「そういうことなの?」
なにやら盛り上がっている黒獣隊の面々からウルクに視線を戻すと、クロナから木剣を手渡された彼女は、手にした木剣をじっと見つめていた。
「防具も必要、だよな?」
シーラがおそるおそる尋ねると、ウルクはにべもなく言い放つ。
「不要です。このような武器では傷ひとつつきません」
彼女は、己の体を誇るでもなく見せつけた。ミドガルドやウルクのいういわゆる躯体は、人間の女性の体を模している。やや丸みを帯びた造形は女体そのものといっていいだろう。胸のあたりの凹凸などはまさにそれだ。しかし、人間の体のような柔らかさはなく、全身、精霊合金という金属の装甲で覆われている。その上から人間の着るような衣服を身に着けているのだが、いまは、《獅子の尾》の隊服を身に付けさせていた。
ウルクは、ミドガルドとガンディアの契約により、しばらくガンディアの戦力になることになっていた。神聖ディール王国の紋章が入った服装のままではなにかと都合が悪いということで、ガンディア所属ということがわかる服装にさせる必要があったのだ。そこで、《獅子の尾》の隊服の出番となったわけだが、それにはもうひとつの理由がある。ウルクが、《獅子の尾》以外に属することになり、セツナの側を離れるようになることを拒んだからだ。
「そうか。それならいんだけどよ」
「それで、これを使ってどうするのですか?」
「俺と戦うんだよ」
シーラは、セツナたちの前から離れていた。訓練とはいえ木剣を振り回すのだ。さすがにセツナたちの近くでは危なすぎる。
「戦う? シーラ、あなたは敵ではありません」
ウルクが疑問を浮かべる。彼女は、言葉に込められた意味を考える、ということができないのかもしれない。額面通りに受け取る、というべきか。そういう意味では、思考力は低いと見るべきだろうが、人造人間であり、この世界の技術水準を考えると十分以上に素晴らしいものなのだが。セツナの生まれ育った世界はイルス・ヴァレよりよほど発展しているが、彼女と同等の人造人間ができるのかというと、疑問だ。
「敵でなくとも、戦うんだよ」
「訓練だ。本気で殺し合うわけじゃない」
セツナが補足すると、ウルクはこちらを一瞥してきた。瞬きが、彼女の感情表現のように思えたが、気のせいだろう。
「訓練? 理解しました」
「ふう……やっと理解してくれたか」
シーラは、やれやれと頭を振った。ウルクがシーラに向かって歩み寄っていく。言葉だけでは本当に理解したのか不安だったが、彼女の動きを見ていると、理解していることで間違いなさそうだった。
「では、お相手いたします」
「へへっ、これは楽しみだ」
ウルクの一礼に、シーラが実に楽しそうに笑った。シーラは、やはり戦いが好きなのだ。元から戦うことが好きだったのか、戦っているうちに好きになっていったのかは、本人でなければわからないだろうが、彼女が好き好んで戦いに身を投じていることは確かだ。国のため、王家のため、民のために戦っていたのは紛れも無い事実だろうし、そのことと戦い好きは必ずしも矛盾しない。
「御主人様、いま、シーラ様のこと、羨ましく思われておいでですね?」
「悪いかよ」
「いえいえ。傷が完治なされれば、いつでもわたくしがお相手いたしますよ」
「おまえもいいが、シーラやウルクとも戦いたいな」
シーラとは、龍府滞在中、何度も打ち合っているが、打ち合うたびにシーラの強さを実感したものだ。いまでもシーラのほうが強いだろうし、そのことを確かめるべく、戦いたいのだ。
ウルクは、どうだろう。強いのは間違いない。ニーウェを吹き飛ばしたという事実がある。彼女と剣を用いて訓練すれば、きっと、ウルクの実力を知ることができるだろう。シーラのいっていたように、ガンディアの戦力となるならば、実力を知っておくのも必要なことだ。戦術に組み込むのならばなおさらだ。
「是非に」
「わしは?」
「おまえじゃ相手になんねえだろ」
セツナは、にべもなく告げた。いまのラグナは防御魔法こそ強力だが、それ以外はからっきしといってもよかった。小さな姿からわかる通り力はなく、噛みつかれても痛くもない。かといって、こちらの攻撃が有効かというと、そうでもないのが、彼の反応からもわかる。叩いても痛くもなんともないらしい。その点は、さすがはドラゴンというべきなのかもしれない。
「むう……やはり、ひとの子と同じ姿のほうがよいのかのう」
「でないと、訓練にはならんぞ」
「むむむ……」
「ま、おまえはおまえのままでも十分だよ」
「ぬう……」
ラグナは、それっきり沈黙した。
前方では、シーラとウルクが睨み合っている。いや、シーラが一方的に睨んでいるというべきか。彼女は、無造作に木剣を手にしたウルクの出方を慎重に窺っている。一方のウルクは、シーラとの間合いを図るでもなく、木剣を軽く握っている、という風であり、そこに戦闘の緊張感を見出すことはできない。
獣姫と魔晶人形の模擬戦闘が、いままさに始まろうとしていた。