第百十一話 怪人たち
レオンガンド・レイ=ガンディアが、ログナー地方マイラムに向けて出立したのは、つい先程のことだ。
わずかな供回りを連れただけの出発に派手な見送りはいらないという王の意向は徹底され、騒ぎになったのは王宮から出るときくらいのものだった。そして、レマニフラの王女ナージュ・ジール=レマニフラがひとり騒いでいたのが印象に残っている。
わずかな供回りとはいうものの、その実、精鋭揃いであり、王の身を案じる声は少なかった。そもそも、ひとりで王宮を抜け出すような人物だ。心配しても仕方がない、という考え方が広まりつつあった。もっとも、多くの場合、レオンガンドはひとりではない。彼には影が付き従っている。
今回、レオンガンドに同行したのは、王立親衛隊の中でも遊撃の役割を担う《獅子の尾》隊である。たった三人の武装召喚師で構成された部隊ではあるものの、その戦闘力は計り知れなかった。特に隊を率いる王宮召喚師セツナ・ゼノン=カミヤは、たったひとりで戦局を覆しかねないほどの力を持っており、ガンディアの躍進に大いに貢献している。彼らがいる以上、余程のことがあったとしても、なんとでもなるだろう。
ナージュ王女が同行するといいだしたときは唖然としたものの、今後のことを考えれば、それもいいことなのかもしれない。
レオンガンドは、レマニフラとの同盟に乗り気だ。その同盟を強固にするための政略結婚であろうと、受け入れる覚悟がある。国のためならばどんなことだってするというのが、レオンガンドという人物だ。それは自分に対してでも同じなのだろう。
彼がここにいるのも、レオンガンドがそういう男だと見込んだからだ。
キース=レルガ。ナーレス=ラグナホルンとともにザルワーンに溶け込んだヒース=レルガの兄弟であり、同じ異能に呪われている。
「呪縛だろう」
つぶやく。反応はあったが、皮肉に対するものではなかった。むしろ、こちらのことを馬鹿にした言葉には軽く怒りを覚える。双子の兄弟だからといってすべてを理解し合えるわけではない。そんなものは幻想だし、妄想にすぎないのだと、考え方に差異を覚えるたびに実感する。同じ日に生まれ、同じ境遇で育ち、同じ異能に目覚め、それでも趣味や嗜好は違ってくるのだ。他人同士が理解し合えないのも当然だろう、と彼には思えた。
王宮二階にある彼の部屋。目の前の大きなテーブルには、手作りのデザートが大量に置いてある。どれも目移りしそうなほど美味しそうだった。彼が宮廷料理人に頼んで作ってもらったものだ。
彼は、一般にレオンガンドの下僕かなにかだと思われている。歴とした役職はなく、軍に属しているわけでもない。それなのに、王宮内を歩いていても、だれも彼を咎めない。レオンガンドの傍らに常にいて、ふたりきりで密談していることを知っているからだろう。密談には、レオンガンドの四友が同席することもあり、それも彼の立場を裏付けていた。
王宮で働くだれもが、彼が王に告げ口することを恐れていた。
(そんなことをする暇はないのにね)
とは思うのだが、この特権を利用しない手もなかった。だから、暇があるときは、食べたいものを注文することにしていた。レオンガンドはそれを黙認していたし、王が黙認すればだれも彼の行動を止めることはできなくなる。かといって、空腹を満たす程度のことしか思いつかないのだが。
背後で、部屋のドアが開く音がした。鍵はしていなかったものの、他人の部屋に勝手に入ってくるような人物など数えるほどしかいない・
「あら、いたの」
女は悪びれてもいない。ウルだ。振り返らずともわかる。
「てっきり、陛下と一緒にマイラムに行ったのかと思っていたわ」
「別に陛下専用ってわけじゃない」
答えて、果物の山から小さな果実を手に掴む。紅い果実は、まるで宝石のように光っている。口の中に広がる甘みを想像するだけでよだれが出てきた。
「君こそ、なんでこの部屋に?」
「この部屋にデザートの山が移動するのを目撃したからよ」
「それだけで人の部屋に入ってくるのか」
「それだけで十分でしょう、行動原理なんて」
「……そうかな」
果実を口に運ぼうとした瞬間、風のような素早さで横取りされる。予想していたことではあるが。
「君はランカインを監視していなくていいのか?」
ウルは、テーブルの上に腰を下ろしていた。喪服のような黒いドレスを纏った女。四足のテーブルでよかった、とキースは密かに思った。女の体重は決して重くはないが、テーブルによっては転倒してしまったに違いない。デザートがもったいなかった。
「わたしの支配は絶対だもの。放っておいても、問題はないわ」
ウルが、キースから奪った果実を口に放り込む。
キースは、彼女のすらりとした伸びた足を一瞥して、嘆息するように告げた。
「君は……暇なんだな」
「……ええ、とっても」
彼女もため息をついた。他人の目がない場所では、彼女は本当の自分になれるのだろう。あるがままになれるのは幸せなことだ。そうなれない自分たちのことを考えると、羨ましくなる。が、それを口にすれば、彼女に付け入る隙を与えることになる。それは厄介だった。
「あなたのようにこの国の王に忠誠を誓えば、この倦怠感からも開放されるのかしら」
ウルが、テーブルに座ったまま顔を近づけてくる。灰色の目に、キースの顔が映り込んでいるのがわかるほどに近い距離だ。口づけでも求めているのだろうが、付き合ってあげる必要もない。
「さあね」
キースは咄嗟に掴んだ果実を、彼女の口に押し付けた。ウルは一瞬戸惑ったようだが、果実を手で掴むと、顔を離して苦笑した。
「つれないわね」
「君との付き合いは疲れるんだよ」
「筒抜けだものね」
「そういうことじゃない」
「ふふ……そういうことにしておいてあげる」
ウルが意地悪く笑ったので、彼も笑うしかなかった。事実ではないが、それでもいいだろう。明確な言葉にしなければ通じ合えないのが、この異能の欠点なのだ。彼女が懸念するようなことは、これまでもなかったし、これからもないだろう。もっとも、ヒースが気を利かせている可能性もなくはないのだが。
キースは、ふと、不安を覚えた。漠然とした、形の見えない不安は、だからこそ急速に膨れ上がる。何に対しての不安なのかもわからない。ただただ心を圧迫していく。
「どうしたの?」
ウルが、まるでこちらの不安を察したように首を傾げた。いい女だと、思う。それは紛れもない。自分にはもったいないくらいの女性だ。できるなら幸せを与えてあげたいと思う。だが、キースの人生もウルの人生も既に破綻していて、人並みの幸福を味わうことができないのはわかりきっている。ほつれた糸をもとに戻すことが困難なように、破綻してしまった人生を修繕することはきわめて難しい。
「君は……ぼくが死ねば悲しむのかな?」
「不吉なことを聞くのね」
彼女は、目を伏せた。彼女の睫毛が長いことに初めて気づく。いつもは、見とれすぎていたのかもしれない。
「きっと、悲しむんでしょうね。姉さんだって、悲しむと思うわ」
長い付き合いだ。苦楽を共にしてきたのだ。当然、そう答えるだろう。それがわかっていても、聞かざるをえなかった。なにかに追い詰められている。その原因がわからないから、余計に苦しいのだろう。
「そうか。ならよかった」
「よかった?」
キースは、ウルの困ったような顔を眺めながら、思い浮かぶままに言葉を並べた。
「死んでも、君の記憶には残るということだろう? ぼくらのような記録には残されない化け物が生きた証を遺すには、ひとの記憶に残るしかない」
「生きた証……」
「せっかく生まれたんだ。それくらい求めたって構わないじゃないか」
だれかに許しを請うようなものでもない。求めても、埋まるものでもない。確認しようがないことでもある。生きた証。生まれてきたことの答え、とでもいうべきか。そんなものはないと一蹴されれば、少しは気が楽になったのかもしれないが。
ウルは、気を使うようにいってきた。
「変なものでも食べた? らしくないわ」
「らしくない、らしくないね。なんだろうな……なにか、変だ」
ウルがテーブルから飛び降りる。テーブルが少し揺れて、果実がひとつ、皿からこぼれ落ちた。ウルはそのままキースの背後に回ると。耳元に口を近づけてくる。
「わたしの部屋にいらっしゃいな。慰めてあげるわよ」
「そういう気分でもないよ」
「……残念」
彼女はそういうと、後ろから手を伸ばして小皿を一枚掴みあげた。クリームたっぷりのケーキが、目の前を通過していく。しかし、それを止める気にさえなれない。彼女の暴挙はいまに始まったことではない。
「これ、いただいていくわね」
「ああ」
一応断りを入れただけ上等だろう。
キースは、そんなことを考えながら、彼女が去っていくのを待った。ドアが閉じられてからも、すぐにはなにもしない。彼女が聞き耳を立てるとは思わないが。
虚空を見ている。
その先に壁があり、壁の向こう側に世界が広がっている。王宮の外へ意識を向ける。そう、意識する。そんなことになんの意味もない。世界を意識したところで、なにかを感じることはない。怪人にもできることとできないことがあるのだ。
「君は、生きた証を残せそうか?」
問うと、ガンディアがログナーに勝ったのは自分の機転のおかげだといってきたので、キースは笑った。彼がどれほどの戦功を立てようが、記録には残らない。歴史に刻まれるのは、栄光に満ちた輝かしいものばかりだ。ガンディアのログナー制圧は、黒き矛の一人舞台として語られるのが関の山だ。レルガ兄弟のようなものは、歴史の闇に葬られるのが道理。
いや、とっくに葬られていてもおかしくはなかった。こうして、彼とくだらない会話をすることもできなかったかもしれない。
レオンガンドが、彼らを生かした。
彼は、この小さな国を超大国と並び立てるようにしたいという。誇大妄想じみた夢だが、そのためならなんだってするといった彼の決意は強く、激しかった。
そのひとつが外法機関出身の怪人たちの処遇だろう。レルガ兄弟、アーリア、ウル。怪人たちの異能は、ガンディアの躍進に役立つという思惑があったはずだ。そして実際、役には立てただろう。アーリアはレオンガンドの身辺警護としてこれ以上ないくらいの存在だったし、ウルの異能は、レオンガンドの敵を服従させるのに有用だった。レルガ兄弟は、ザルワーンに潜ったナーレスとの通信手段として大いに役立ったはずだ。
しかし、いまはどうか。
彼は、新たな力を手に入れた。
黒き矛セツナ・ゼノン=カミヤ。
あの少年さえいれば、怪人たちは不要なのではないか。
「少なくとも、ぼくらはいらなくなる」
事実を告げると、相手は黙りこんだ。彼もうすうす感づいていたのだろう。使い捨てだからこそ、敵国に送り込める。露見すれば待つのは死だ。そして、それを覚悟した上で、彼はナーレスに同行した。覚悟したのは彼だけではない。
キースも、同様の覚悟が必要だった。
ヒースが高熱を出して死にかけたとき、ヒースもまた、死の淵をさまよったことがある。空間を超えての言葉の共有という異能は、余計なものまで共有させてしまったらしい。
「どうせ死ぬときは一緒だ。寂しくはないか」
自嘲の言葉を吐いて、キースは会話を一方的に打ち切った。
会話。傍から見れば、ぶつぶつとひとりごとを発しているようにしか見えないだろう。だが、彼にとっては慣れたものだったし、普通の会話と変わらなかった。
異能に目覚めてから、長いときが流れている。
死んだほうがましだとなんども口にした。そのたびにウルやアーリアに怒られ、生き長らえてきた。そして、救いはあったのだ。当時王子だったレオンガンドが差し出した救いの手を掴んだとき、キースは人生を彼に捧げようと思った。あのころ、すでに死んでいたも同然だった。
あとの人生は余生なのだ。
だから、不要になって塵のように捨てられても、文句はない。
それは彼だって同じだろう。
キースがレオンガンドに光を見出したように、ヒースはナーレスに光を見たのだ。
光を見たものにとって、死は、恐ろしいものではなくなるらしい。