第千百十七話 敵か味方か(一)
十月一日、ルシオン王都セイラーンで行われる新国王ハルベルク・レイ=ルシオンの戴冠式に向けて、ガンディアからの参列者がガンディオンを出発したのは、九月二十四日のことだった。
先のルシオン国王ハルワールの喪が開けてからたっぷりと時間が空いているが、それは、ルシオンの同盟国や友好国との日程の調整に手間取ったからでもあるのだろうし、ルシオン内部でも様々な事情があったに違いない。王が変わるのだ。多少なりとも問題が起きるのは当然のことだ。ガンディアでもそうだったらしい。もっとも、ルシオンの王子ハルベルクは国民からの人気も高く、信望もあり、“うつけ”の王子レオンガンドの王位継承とは比べようもないだろうが。
式典へのガンディアからの参加者は、国王レオンガンド・レイ=ガンディアを始め、錚々たる顔ぶれといってもよかった。王妃ナージュ・レア=ガンディアは、出産直後ということもあって参加できないものの、大将軍アルガザード・バロル=バルガザール、左眼将軍デイオン=ホークロウ、領伯ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールなどが王都に集まり、レオンガンドとともに、王都市民に見送られながら旅立っていった。もちろん、護衛として数千人規模の将兵が同行している。
ルシオンにほど近いクレブールを領地に持つジゼルコートが王都を訪れたのは、ナージュが無事に王女レオナを出産したという報せを聞いたからということだった。ジゼルコートは領伯であるとともに王家に名を連ねる人物であり、レオンガンドの叔父でもあるのだ。彼にとってレオナは又姪に当たり、彼がレオンガンドとナージュを前に涙を流して喜んだという話は、セツナの耳にも届いている。普段余り感情を見せないジゼルコートが王女の誕生に感激したことは、王宮でも話題になるほどであり、隊舎に入り浸っているエインがセツナに教えてくれたのだ。
ジゼルコートのひととなりについて、セツナはあまり詳しくはない。レオンガンドの叔父、つまり先の国王シウスクラウドの実弟であり、シウスクラウドが病に倒れ、レオンガンドが“うつけ”を演じている間、影の王としてガンディアに君臨していた人物だということは、レオンガンド本人から聞いたりして知っている。そして、政治家としての手腕は、かつてセツナを暗殺しようとしたラインス=アンスリウスを凌駕し、彼ひとりいれば国政も万事うまく行くというほどだということだ。実際、外征を始め、国王みずから王都を空けることの多いガンディアが上手く回っているのは、彼のような有能な政治家がいて、ガンディアのために働いてくれるからにほかならない。
そんなジゼルコートが王都に姿を見せたのは、実に数カ月ぶりのことだった。長らく、半ば影の王として王宮に君臨していた彼は、五月の半ばあたりから長期休暇を与えられており、その代わりとして彼の息子であるジルヴェール=ケルンノールが王宮に入っていたのだ。戴冠式に参加するにあたって休暇を返上し、王都を訪れた、ということになる。
もっとも、そのことで王宮が少しばかり騒がしくなったのも事実だ。ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール・クレブールには、ひとつの疑いがある。
ガンディアを裏切っているのではないかという疑念が、レオンガンドたちによって持たれているのだ。
セツナたちの休暇に合わせてジゼルコートにも長期休暇が言い渡されたのは、そういう理由もあるのではないか。そういう話が一部で囁かれている。主にセツナの周囲で、だが。
そして、そんなジゼルコートが王女の御生誕を祝福するために王都を訪れた際、《獅子の尾》にもちょっとした騒動が起きていた。
それは、ジゼルコートが護衛として連れてきた私兵の存在が引き起こしたのだが。
ジゼルコートが王都ガンディオンを訪れたのは、ナージュが無事に出産した二十二日の翌日に当たる二十三日のことだった。翌日である。王都とケルンノールの距離を考えればかなりの強行軍だったことは想像に難くない。おそらく、二十二日のうちに王女誕生の報せを受け取ったジゼルコートは、その日の内に王都に向けて出発したに違いなかった。そして、夜を徹して走り続け、ルシオンへの出発前日となる二十三日中に王都に到着、無事、王妃、王女との対面を果たすことができたのだ。
ジゼルコートらはケルンノールからクレブールに向かう予定だったため、向かう先を王都に変えただけで、そのこと事態には大きな問題はなかったらしい。
そういったジゼルコートの気遣いからは、彼がガンディアを裏切っているという要素は見受けられない。それについては、エインも同感だという。しかし、ナーレスを始め、レオンガンドや大将軍らはジゼルコートを警戒し、ジゼルコートがガンディアを裏切っているという明確な情報さえ見つけることができればすぐにでも行動に出るつもりだということだった。
ジゼルコートは、ガンディアの政治家の中でも大物中の大物といってもいい人物だ。ベノアガルドの間者を王宮に入れたというだけでは処断できない。ジゼルコートの話からは、彼は、アルベイル=ケルナーと名乗った間者からベノアガルドの動向を探るために、間者を野放しにしていたというのだ。それ自体、ありうることだ。レオンガンドやナーレスが彼と同じ状況に遭遇した場合、同じように処置したかもしれない、という。ベノアガルドという未知の国がガンディアの内情を探ろうとしているのだ。その目的を知ろうとすることは、なにもおかしくはない。問題なのは、そのことをレオンガンドやナーレスにも黙っていたということだ。
レムがアルベイル=ケルナーと接触し、彼の目的がセツナの調査だということが明らかになっていなければ、ジゼルコートはベノアガルドの間者の存在を隠蔽していたのではないか。
そういう疑いが、裏切りへの疑念となっているのだが。
そして、ジゼルコートが王女の誕生を祝うために王都を訪れたのは、そういった疑念を払拭するためではないか、というのがもっぱらの噂であり、セツナもそうなのかと思ったりした。
そんな中、ジゼルコートの王宮入りに際し、《獅子の尾》に出動命令が下された。《獅子の尾》は忘れられがちだが、王立親衛隊なのだ。国王直属の親衛隊であり、王や王妃の身の安全を護ることが再優先任務といってもよかった。そのため、《獅子の尾》はセツナ以外の全員が、ジゼルコートの王宮入りに同行した。
セツナは、脇腹の傷が完治していないため、隊舎から動くことはできなかった。背中の切り傷は塞がり、痛みもほとんど感じなくなったが、脇腹だけがまだ治っていないのだ。
『癖になっているのかもしれないねえ』
マリアの一言にぞくりとしたが、彼女は冗談だといって笑った。悪い冗談にも程があると文句をいうと、こう何度も同じような場所を刺されるほうが悪い冗談だといわれてぐうの音も出なかった。
それはともかくとして、《獅子の尾》に起きた小さな騒動というのは、副長ルウファに率いられた《獅子の尾》の隊士たちが隊舎に戻ってきてから、口々に聞いて知ったことだ。騒動、というほどのものでもないかもしれない。しかし、ルウファを始め、ファリア、ミリュウそれぞれに関係のある出来事であり、無視できるようなものでもなかった。
レオンガンドらが王都を立ち、セツナたちが王宮に入ってからも、その出来事について考えなければならない程度のことなのだ。
それは、ルウファの人生に関わることであり、ファリアの運命に関わることであり、ミリュウの宿命に関連することだった。
ジゼルコートが王宮入りに際して連れてきた私兵の中に複数人の武装召喚師がいて、それら武装召喚師がそれぞれに関わりのある人物だったということだ。
「なんだか皆様、深刻そうな顔をしていらっしゃいましたね」
レムがぽつりとつぶやいたことで、セツナは現実に舞い戻るような感覚を覚えた。
「ああ、そうだな」
「あら、御主人様まで上の空でございますか」
「上の空と生返事こそこやつの得意技よの」
「なにがだよ」
「まあよい。しかし、落ち着かぬ部屋じゃな」
「勝手に話を変えんなっての」
セツナは、ラグナが頭の上できょろきょろしているのを気配だけで察しながら、半眼になった。それから、肩を竦めて同意する。
「確かに、落ち着かねえ部屋だがな」
セツナたち主従がいるのは、王宮内の一室だった。セツナがガンディオンに残るに当たって、《獅子の尾》に後宮警護の任務が与えられたこともあり、セツナたちは王宮区画内で寝泊まりすることになったのだ。もちろん、セツナとその主従だけではない。《獅子の尾》の面々も王宮内に入っており、黒獣隊もシドニア戦技隊も特例として王宮区画内で起居することが許されていた。参謀局第一作戦室長であるエイン=ラジャールは当然登殿資格を持っている。また、ウルクもミドガルド同様、王宮区画への出入りが許されており、現在、ミドガルドの元いる。
つまり、《獅子の尾》隊舎にいた人員がまるごと王宮に移動したということになる。残念ながらゲイン=リジュールは隊舎に残っているのだが。
セツナに充てがわれた部屋は、《獅子の尾》隊長であり領伯であるものとしての格に見合う部屋であるらしく、高級極まりない調度品の数々や美術品のような魔晶灯、額縁からして高価な絵画などが飾ってあり、隊舎の病室とは大きく異なる景色が展開していた。そのことがラグナをそわそわさせているらしい。
ガンディアは派手好きという。
華美た軍装を好む軍人の多さはセツナ自身よく知っていることだが、それは軍人のみの性質ではないようなのだ。王都全体が派手といっても過言ではなかった。そしてその王都の中心たる王宮区画がその派手さを抑えているはずもなく、どこを切り取って見てもまばゆいくらいの華々しさがあった。
華々しくもどことなく古めかしさを感じさせる龍府とは違い、そのことがラグナには戸惑いを覚えさせるのかもしれない。そういえば、ラグナは龍府が好きらしかった。彼の好みなど知った話ではないが。
「おぬし、いまなにか失礼なことを考えなかったか?」
「考えてねえよ」
「ならばよいのじゃが」
「しっかし、変な感じだな」
「なにがでございます?」
「さっきの話だよ」
「ああ、皆様のことでございますね?」
「うん……」
うなずいて、体を横たえる。ラグナがセツナの頭頂部から額に乗り移り、そのままセツナの視界を埋め尽くしたのには苦笑するしかなかった。右手で掴み、引き剥がす。ラグナが指を噛んで抗議してきたが、構わず彼の体を胸の上に移動させる。
視界には、天蓋の内側が見えている。寝台が天蓋付きなのも、セツナの立場を考慮してのものらしいのだが、その基準はよくわからない。領伯ほどの身分になれば派手な部屋、派手な天蓋付きの寝台が必須、ということなのだろうか。
横に顔を倒して、レムの姿を見る。いつもと変わらぬメイド服の彼女の存在は、セツナのざわめく心を多少なりとも落ち着かせてくれた。
「皆様は現在、後宮の警護に当たられていると思われますが」
「心配はしていないよ。みんな、仕事に私情を挟むような子供じゃない」
「一番の子供はおぬしじゃからな」
「ああそうだよ」
「認めるか」
「認めるさ」
セツナは、視界に入り込んできたラグナの顔を見つめながら、言い切った。ラグナの低体温の体が、顔に張り付くようで気持ちがいい。
「俺は子供だからな。難しいことはよくわかんねえ。敵か味方か、味方か敵か、なんていわれてもさ」
セツナは腕を投げ出しながらいった。脳裏には、レオンガンドの顔が浮かんでいる。
「なんのことでございます?」
「ん、いや、なんでもねえよ」
セツナは適当に言葉を濁した。レムに隠し事をしたくはなかったが、いっていい話ではない。特にここは王宮だ。どこに聞き耳を立てているものがいるか、わかったものではない。
「変なやつじゃの」
「おまえにいわれたかねえっての」
「む! なんじゃと!」
「いたくねー」
「本当、仲がよろしくて、羨ましい限りです」
「先輩も噛み付けばよいのじゃ。いくら下僕でも、ときには自分の意見をじゃな」
「わたくしが御主人様に噛み付けば、ミリュウ様やファリア様に嫌われてしまいます」
「どういうことじゃ?」
「後輩の特権、ということですよ」
などという従者たちのやり取りを上の空で聞きながら、セツナは、目を閉じた。
昨日、ジゼルコートが王都に到着する直前、レオンガンドが隊舎を訪れ、セツナとふたりきりになったのだ。レムやラグナが同席していることすら、レオンガンドは許さなかった。
『セツナ。わたしはいま、この国を二色に分けようと考えている。分ける必要がある、とな』
二色、と彼はいった。
二色。
『敵か、味方か』
そういう意味での、二色。
『ガンディアは、肥大した。それこそ、通常では考えられないような速度で、拡大の一途を辿った。歴史上、ガンディアほどの速度で国土を拡大した国など存在しないだろう。帝国や聖王国ですら、ここまでの速度で国土を広げてはいまい。それもこれも、ナーレスや君のおかげだ。君らという両輪があってはじめて成し遂げられてきたことだ。感謝している』
レオンガンドがセツナに感謝を述べてくるのは、これで何度目だろう。逢うたび、言葉をかわすたび、感謝されている気がする。そのたびに心が舞い上がるのだから、セツナは自分の子供っぽさを自覚せざるを得ない。といって、それが悪いとも思えない。むしろ、それでいいのではないかと思える。感謝されれば、嬉しい。それだけのことだ。特にレオンガンドの言葉には、心が籠もっている。心の底からそう思ってくれているのがわかるから、セツナの心もまた、感激で震えるのだ。
『しかし、急激な国土拡大は、繁栄をもたらすと同時に問題も抱えざるをえない。国土拡大の速度に世間がついてこれないのだから、当然だし、仕方のないことだ。だれが悪いわけでもない。悪いとするならば、速度というほかあるまい。だが、速度を殺すわけにもいかなかった。そんなことをすれば、ザルワーンに攻め入る機会は失われただろうし、クルセルクに滅ぼされたかもしれない。あのときは、ああする以外には方法がなかった。ただそれだけのことだ。結果として勝利し、国土の拡大に繋がったというだけのことなのだ』
レオンガンドのいうとおりだった。
ガンディアが能動的に戦争を起こしたのは、ログナー、ミオン、アバードくらいだ。ザルワーン戦争も、クルセルク戦争も、戦うほかなかったから戦わざるを得なかったのだ。ザルワーン戦争に至っては、本来ならばナーレスによる弱体工作がもっと猛威を振るってから攻めこむつもりでいたのであり、ナーレスが拘束され、彼の五年に渡る工作が無駄になることを恐れたがゆえに戦いに踏み切ったのだ。でなければ、本来の力を取り戻したザルワーンの戦力と物量によってガンディアが攻め滅ぼされていたとしても不思議ではないのだ。
クルセルクはザルワーンとはまた違う理由だが、戦わざるをえないために戦ったという点では同じだ。圧倒的な質と物量を誇る皇魔の軍勢が侵攻の意図を示してきたとあれば、戦うよりほかない。辛くも勝利することができたものの、あのとき、ユベルが軍を退かなければ、彼がレオンガンドを殺そうとし、セツナが彼を殺していればどうなっていたのか。想像するだけで恐ろしい。
『一年足らずでここまでの国土を得られたこと、それ自体が奇跡といってもいい。君という奇跡があればこその結果だが、それ故、歪な影が生まれるのも致し方のないことだ』
彼は頭を振った。
『多数の国を支配下に置いているいま、ガンディアには様々な思惑が交錯している。表向きはわたしに忠誠を誓い、ガンディアの繁栄に心血を注いでいる人間が、わたしの預かり知らぬところで国を裏切っている可能性もある』
『ジゼルコート伯のことですか?』
『それもある。が、それだけとは限らない。わたしはハルベルク陛下の戴冠式を境に、だれが敵でだれが味方なのか、色分けしていこうと思う。もう二度と、ラインスのようなことがあってはならんのだ』
レオンガンドの隻眼が、セツナの脇腹あたりを見ていた。ラインス=アンスリウスが企んだ暗殺計画によって刺されたのも、脇腹だった。あのときも王宮はおろか王都全体が大騒ぎになったものだ。王宮内での暗殺未遂事件。騒ぎにならないほうがおかしい。
あのときは、死んでもいいと思った。愚かなことだ。いまにして考えれば、そういう自分の心の弱さに怒りすら覚える。
レオンガンドは、ラインスを始め、暗殺計画に加担したものに対して怒りを覚えているようだが。
だからこそ、敵と味方に色分けしようというのだろう。
『俺は、陛下の味方ですよ』
『知っている。だから、君にすべてを打ち明けたのだ』
レオンガンドのその一言がただひたすらに嬉しかった。
信頼されていると感じる。
それだけに、瀕死の重傷を負ったニーウェとの戦いが悔やまれてならない。つぎに戦うときがあれば、今度はこのようなことはないようにしなければならない。それは。レオンガンドの信頼を裏切ることと同意だ。