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第千百十三話 その名はレオナ

 ナージュ・レア=ガンディアの懐妊が発覚してから数ヶ月というもの、彼女は、母胎の健康を第一に考え、太后グレイシア・レイア=ガンディアの元で過ごしていた。

 レオンガンドは、日々、政務の隙を見つけてはナージュの元に足を運び、彼女の健康と胎内の子供がすくすくと育っていることを確認したものだった。常に側にいてやることができるのならばそれに越したことはなかった。しかし、大国化したガンディアの国王たるレオンガンドが自由に動き回れる時間はほとんどないといってもよかったのだ。ただでさえ外征などで国を空け、政務一切を他人任せにすることの多いレオンガンドだ。ナージュの妊娠にかまけて国政をないがしろにしていれば、いまでこそ高い水準を維持している国民の支持率も、低下の一途を辿るだろう。

 支持率が低かろうが高かろうが構うことはない、と想う一方で、国民の指示がなければ国政など立ち行くものではあるまい、とも考えるのだ。ガンディアが小国のころならば、独裁でも良かった。しかし、国土が膨れ上がり、国民の数も増えれば、ひとびとの考え方が多様化していくものだ。力による支配は、絶対ではない。圧力が反発を生み、反発が軋轢を生じさせる。やがて軋轢は大きな歪となって、ガンディアを崩壊させる原因にもなりかねない。

 ガンディアは、必ずしも盤石ではない。

 万全に万全を期すのならば、国民感情を逆撫でるようなことはするべきではないのだ。ただでさえ外征に次ぐ外征で厭戦気分が蔓延している中でアバードの動乱に首を突っ込んだことが問題になっているのだ。幸い、アバードがガンディアの属国となったことで表面上丸く収まり、ガンディアの政策、政略への不満もある程度は抑えられたものの、余計なことはするべきではなかった。

 レオンガンドは、大国の王として相応しい立ち居振る舞いを求められている、ということだ。

 とはいえ、国民の支持率を気にして国政に集中していたわけではない。外征中、国政はジゼルコートを始めとする政治家たちに任せきりだったこともあり、レオンガンドがすべてを掌握し直すには、それだけの覚悟と時間と労力が必要だったのだ。

 それでも、たまにはナージュの顔を見に行けたのだから、幸福者だろう。

「陛下、妃殿下の御出産、おめでとうございます!」

「まこと、めでたいこと」

「これでガンディアの将来も安泰ですな!」

 ナージュと我が子の待つ後宮への道すがら、レオンガンドは、通りすがったすべてのひとびとから祝福の声をかけられた。軍人、文官、貴族、使用人に至るまで、だれもがナージュの無事の出産を心から喜び、レオンガンドの第一子の誕生に歓喜の声をあげていた。

 だれもが、まるで自分のことのように喜んでいた。当然だろう。レオンガンドは国王で、ナージュは王妃だ。生まれた子が男児にせよ女児にせよ、王位継承者が生まれたということにほかならないのだ。それはつまり、レオンガンドが退位した後もガンディア王家が続くということであり、ガンディア王家の統治が終わらないということなのだ。

 王家の血筋ほど重いものはない。

 レオンガンド自身、歓喜と興奮の渦の中にいる。これまで感じたこともないような喜びの波動が、彼の足を軽くしていた。きっと、表情も明るくなっていたことだろう。目に映る世界そのものが明るく見えていた。

 後宮に足を踏み入れると、ナージュの侍女たちによる出迎えを受けた。レマニフラからガンディアまで付き添った三人の侍女は、皆、満面の笑みを浮かべ、レオンガンドをナージュと赤子の待つ部屋へと急がせた。手を引かれ、背を押された。

「そう急くものでもあるまい」

 とはいいながら、レオンガンドの足は間違いなく急いでいたし、レオンガンド自身、自分の気が急いているのを知っていた。早く、ナージュの顔が見たい。我が子に逢いたい。逢って、まず、どうしよう。どういうふうに接するべきなのだろう。王として威厳ある態度をとるべきなのだろうか。

「陛下、早く早く!」

「そうです、早くお会いになられてくださいませ!」

「ナージュ様がお待ちです!」

「ああ、わかっているよ」

 レオンガンドは、ナージュと長い付き合いの侍女たちが心の底から喜び、はしゃいでいる様が、たまらなく嬉しかった。彼女たちには肩身の狭い思いをさせたこともあるだろう。ナージュがガンディアとレマニフラの同盟締結のために王都を訪れたのは、昨年の八月のことだ。それから一年余り、ガンディア内外を右往左往していたことになる。彼女たちはナージュが侍女として特別に連れてきたということもあって、ナージュと姉妹のように仲が良く、レオンガンドがいる前でも構わず戯れていたものだった。一見、幸せそうな四人ではあったが、ガンディアの貴族連中との付き合いの中で気苦労が耐えなかっただろうことは想像に硬くない。

 ナージュの懐妊は、そんな彼女たちにとっても待望の出来事だっただろう。これで、ナージュは名目ともにガンディア王レオンガンドの妃であり、その立場は揺るぎようがないものとなる。子が、跡継ぎが生まれたのだ。

 子宝に恵まれない王の行く末は、アバードの例を上げるまでもなく悲惨なものだ。もっとも、アバードの動乱はそれだけが問題ではないのだが。

 やがて、レオンガンドは侍女たちに案内されるまま、後宮の最深部に辿り着いた。ナージュが身重になってから使っている部屋の前には、後宮の出入りを許された貴族たちがずらりと並んでおり、レオンガンドを見るなり、つぎつぎと祝福の言葉を述べてきたのだが、ナージュの侍女たちによって遮られ、そのおかげでレオンガンドは部屋の中へ素早く入ることができたのだった。侍女たちが出迎えてくれたのは、そういう理由もあったのかもしれない。

 部屋に入ると、レオンガンドのことを待ち構えていたのであろうグレイシアに呼びかけれた。

「早くいらっしゃい、レオン。ナージュちゃんとあなたの子が待っているわよ」

「母上までさかさないでくださいよ」

 レオンガンドは、グレイシアの常ならぬはしゃぎっぷりに笑みをこぼした。母がここまで明るく振る舞うのはいつ以来だろう。孫が生まれたのだ。

「急かしもするでしょう? わたしにとっては、お孫ちゃんが生まれたのよ。それに、ナージュちゃんも本当によく頑張ったのよ。レオンがいない間も、不満ひとつ漏らさなかったわ」

「お、お母様……」

 ナージュの声が、部屋の奥から聞こえた。声には多少の疲れがある。しかし、そこには間違いなく幸福感が満ちていて、レオンガンドは心の高鳴りを抑えられなかった。そして心の赴くままに部屋の奥へと進み、ナージュと我が子が待っている寝台へと歩み寄った。寝台の近くには、ナージュの出産に立ち会った医者たちの姿があったが、彼らはレオンガンドの姿を一目見るなり寝台から離れた。レオンガンドは彼らの気遣いに感謝した。彼らは王宮専属の医者である。

 天蓋付きの寝台の中を覗き込むと、ナージュの姿があった。

「陛下……」

「ナージュ、よく、やったな」

 レオンガンドは、寝台のナージュの、疲労に満ちた、それでいて幸福感に満ち溢れた表情を見て、心が洗われるような気分だった。そして、彼女の腕に抱かれた赤子の顔を覗きこむ。泣いてはいない。眠っている。健やかな寝顔だった。母の腕の中で、安心しきっていることがわかる。

「陛下とわたくしの子ですよ」

「どちらに似るのか、楽しみだな」

 微笑むと、ナージュも笑顔になった。

「女の子よ」

 グレイシアの弾んだ声は、彼女が孫の性別などまったく気にしていないということが現れていて、レオンガンドは、そんな母親の配慮に深く感謝した。グレイシアは政治的配慮などしてはいないだろうし、純粋に喜んでいるだけなのかもしれないが。

「女なら、ナージュに似たほうがいいかな」

「陛下のように雄々しく育ってくれても構いませんわ」

「そうねえ。レオンも小さい頃は女の子と見間違うくらいだったし、悪くはないかもねえ」

「そうでしたか?」

「そうじゃない。リノンと並んで姉妹のようだったわよ。ねえ?」

 グレイシアに同意を求められて、医者たちはどう反応していいのか困惑した様子だった。

「まあ。そのころの陛下にお会いしてみたかったですわ」

 ナージュは、半ば本気でそう想ったのかもしれない。

 しばらく、そんな話を続けた。

 まさに幸せの絶頂といってもいいような時間だった。婚儀のときとどちらが上か、などという問いは愚問であろう。どちらもそのときどきにおける幸福の頂点なのだ。比べる必要もない。

「名前は、もう決めているの?」

 グレイシアが、腕の中の赤子の顔を覗きながら、尋ねてきた。

「はい。女児ならばレオナ、と」

「ふたりで話し合って決めたんです」

 男児につける予定の名前は、言葉にはしなかった。今後、男児が生まれるかどうかなどわからないのだ。

「いい名前を貰ったわね、レオナちゃん」

 グレイシアの幸せいっぱいな表情や態度こそ、レオンガンドの胸の内の幸福感を何倍にも増大してくれていた。

 母には、苦労や心配をかけ続けてきていた。グレイシアの最愛の夫であり、レオンガンドの父シウスクラウドが死んだ直接の原因はレオンガンドだったし、グレイシアの実兄ラインス=アンスリウスの死もまた、レオンガンドが原因といえば原因なのだ。もちろん、そういった真実がグレイシアの耳に届いていることはないが、それ以外のことで彼女の負担になっていたことは疑いようがなかった。シウスクラウドの死も、ラインスの死も、グレイシアの心を弱らせたのは間違いないのだ。

 グレイシアには幸せになってもらいたい。

 それは、レオンガンドの偽らざる気持ちであり、レオンガンドとナージュの幸福な結婚生活がグレイシアの心を救うというのならば、これほど嬉しいことはなかった。


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