第千百十話 ひとのかたち、いのちのかたち(十二)
「セツナらしいといえば、セツナらしいかもね」
ファリアは、病室の前から離れながら、だれとはなしにつぶやいた。
セツナとエリナの会話と、セツナが導き出した結論についての感想だ。なぜエリナが隊舎にいて、セツナの病室に入り込んでいるのかはわからなかったが、ふたりの会話がふたりにとって必要なものだったことは、なんとはなしに理解できた。エリナにとっては今後の指針となる言葉だろうし、セツナにとっては、彼女が道を間違えないよう一言でもいえたことは大きいだろう。
ファリアがなぜ病室の前にいたかというと、夕食をどうするかレムに聞きに行こうとしたからだ。セツナの夕食ではなく、レムとラグナの夕食だ。療養中のセツナには栄養価の高いものを偏りなく取らせるというのがマリアの方針であり、ゲイン=リジュールもその方針に従って、セツナの食事を作っている。
夕日が沈もうという時間帯だ。夕食の頃合いといってもよく、レムとラグナがどうするのかは聞いておく必要があった。レムとラグナのことだ。食べないかもしれないし、食べるとしても、セツナと一緒がいい、などといいだすかもしれない。
それもあって病室に立ち寄ったのだが、扉を叩こうとしたとき、中からエリナの叫び声が聞こえてきたのだ。だからファリアは扉を叩くのを止めて、耳を欹てた。
そして、ふたりの会話を聴いて、色々なことを想った。セツナの想いやエリナの想いを知って、胸が暖かくなりもした。エリナのセツナへの想いも、セツナのエリナへの想いも、どちらもかけがえのないものだ。そして、セツナがエリナに手を汚してほしくないと想い、その気持をはっきりと伝えてくれたことが嬉しかった。
エリナは、ファリアにとっては年の離れた友人だった。親友といっても過言ではない。そんな彼女を大切に想い、大事にしてくれるセツナには感謝しかない。
「セツナらしいとは、どういうことでしょうか?」
不意に問いかけてきたのは、ファリアのすぐ後ろをついてきている人物だ。抑揚のない声は、どこか無機的で、人間らしいものではない。事実、彼女は人間ではないという。魔晶人形と呼ばれる、ひとの手で作り上げられた存在だというのだが、とても信じられるものではない。しかし、レムやラグナの話を聞いて彼女の肌に触れたことで、人間ではない作り物だということを信じるしかなくなっている。彼女の体は金属でできているらしく、冷ややかな硬質さを感じさせた。
ウルク、という名前がある。セツナの愛馬と同じ名だが、黒を意味する古代言語を使ったのならば、名前が被るのもやむなし、といったところだろう。もっとも、ミドガルドによれば、このウルクという名称は黒魔晶石を搭載したことに起因する仮の呼称であり、本当の名前はまだ決めてもいないということだったが。
彼女は、なぜかセツナを主と仰ぎ、主を守るためという理由で《獅子の尾》隊舎にいた。
しかし、ファリアを始め、事の詳細に知っているものは、彼女に感謝こそすれ、邪険にするようなことはなかった。彼女がここにいることを不思議に思い、疑問に感じることはあっても、だ。
彼女がセツナを護ってくれたからこそ、ニーウェを退けてくれたからこそ、セツナはいま、生きているのだ。
彼女がいなければ、間に合わなければ、どうなっていたかわからない。最悪の場合、死んでいた可能性だってある。その事実を思い出すたびに背筋が凍り、心が震えた。
ランスロット=ガーランドを突破できなかった自分の情けなさに憤りさえ覚える。
力が欲しいと改めて思うのだ。強く、深く。
「セツナのこと、知りたいの?」
「はい。わたしがセツナについて知っていることは、ここに至るまでにミドガルドが集めた情報のみ。そこからセツナらしいというものを見出だすことはできません」
「知って、どうするの?」
「セツナのことを詳しく知ることができれば、セツナの護衛に役立てることができます。教えていただけないのなら、セツナから聞くだけですが」
「本人が自分らしさなんて答えるわけないでしょ」
「なぜですか?」
「なぜ……って、らしいかどうかなんて、他人が判断することだからじゃない」
「つまり、決めつけということですか?」
「まあ、そういうことね」
「ファリア。あなたはセツナの恋人だというのに、セツナのことを決めつけているのですか?」
ウルクの問いかけはごく自然で、どこにもおかしなところはなかった。彼女は脳裏に浮かんだ疑問を言葉にしただけなのだろう。ともすれば、ファリアも普通に聞き入れてしまいそうなほどだった。が、疑問に対する解答となる言葉を探そうとしたとき、はっとした。
「ちょっと待って」
「なんですか?」
「あなたいまなんていったの?」
「セツナのことを決めつけているのですか、ですが?」
「その少し前よ。とんでもないことをいわなかった?」
「とんでもないこと? あなたがなにをいっているのか、理解しかねます」
「え、えーと、だから、その、わたしがセツナのなに……って」
ファリアがしどろもどろになったのは、そんな言葉を発することなど、彼女の人生でほとんどなかったからだったし、相手が相手だからでもあった。これがルウファなら一笑に付しただろうし、笑い話にもできただろうが。
「ファリアがセツナの恋人という話ですか?」
「そ、そう、それよ!」
「それがどうかしたのですか?」
「なんでわたしがセツナの恋人になってるのよ!?」
言葉にした途端、顔面が熱を帯びた。
「違うのですか? ミドガルドが精査した情報に間違いがあるとは考えられませんが」
「ち、違うわよ!」
「ファリア、顔が真っ赤です。体調に問題があるのではないですか? 医者の診断を仰ぐことをおすすめします」
「そういうことじゃなくて!」
ファリアは、ウルクの忠告を聞いて、余計に顔が熱くなるのを認めた。ウルクには感情というものが理解できないのだろうか。そうなのかもしれない。彼女は一見、人間とそっくりそのままの姿をしているが、人間ではないのだ。人間と同じ言葉を話し、同じように考え、同じように行動するものの、そこに人間らしいと呼べるようなものはない。魔晶人形という呼称通り、どこか作り物めいている。
「まったく、どこでそんなでたらめな話を仕入れたのかしら」
「でたらめなのですか?」
「そうよ。でたらめもでたらめ。わたしとセツナにそんな関係はないわ」
「では、ミリュウ=リヴァイアがセツナの愛人という話は?」
「それもくだらない噂よ」
ファリアは吐き捨てるようにいったものの、ミリュウがそういう噂にもまんざらでもないという態度であることは理解している。むしろ、その噂にセツナを巻き込むことで既成事実を作ろうとしたことだってあったはずだ。無論、彼女の初な部分が、そのような行動を取らせることはなかったが。
「レムがジベルを捨て、ガンディアに属したのはセツナに惚れたから、というのも?」
「ええ、そうよ……って、あなた、わかってて聞いてるんじゃないでしょうね」
ファリアは、手で自分の顔を扇ぎながら、横目にウルクを見た。ウルクの表情は変わらない。美術品のように完成された容貌が、そこにあるだけだ。
淡く発光する双眸が、彼女が人外の存在だということを証明するかのようだった。
「レムについては、ミドガルドも半信半疑だといっていましたが」
「なんでわたしの噂には確信があったのよ……」
「王都に至るまでの道中、セツナとファリアが恋仲だという話を数え切れないほど仕入れたということです」
「数え切れないほど……」
「しかし、ファリア本人が否定するのであれば、ミドガルドが仕入れた情報が間違いだったということだと認めます」
「そうしてちょうだい」
「では、もう一度うかがいますが、セツナらしいとはどういうことなのですか?」
「……そうね」
ファリアは、まばたきひとつしないウルクの目を見つめながら、どう答えるべきかを考えた。
ウルクは、なぜか(どういう理由かはある程度は知っているが、それが決定的な理由とは考えにくい)セツナを主と呼び、セツナを護ることを優先的に考え、行動しているようだが、彼女は神聖ディール王国所属の人物だ。
当然のように隊舎にいて、当たり前のようにファリアたちと一緒にいるのだが、それは普通に考えればあり得ないことだ。三大勢力の一国たる神聖ディール王国からの使者ならばそれに相応しい対応をしなければならないが、ミドガルド=ウェハラムとウルクは、聖王国の使者ではなく、ミドガルド個人の意思でこの王都を訪れ、王宮を騒がせている。
王宮としては、聖王国を刺激したくない以上、ミドガルドとウルクに好き放題させるほかなく、故にウルクが当たり前のように隊舎に留まり、一日中セツナの身辺警護を行っている現状も受け入れるしかなかった。
とはいえ、他国人である彼女に、セツナのすべてを話すことなど出来るはずもなく。
「なにから話せばいいのかしら……」
ファリアは、ウルクにどう説明すればいいのか考えながら、少しばかり途方に暮れた。ウルクの相手は、ミリュウやレムを相手にするよりもずっと疲れた。
風が、流れている。
夕焼けに照らされた町並みは赤々と燃えているようであり、夕日のまばゆさとその影響力の強さを実感せざるを得ない。赤いのは街だけではなく、頭上に広がる空も、空を流れる雲も、燃えるように赤く染まっている。
西の果てに沈みゆく太陽は、この地上から見える部分が少なくなるほどにその輝きを増し、世界を照らす。照らされた世界は赤く燃え、太陽が沈み、夜が訪れるのを恐怖するかのようですらある。
彼は頭を振った。
馬鹿げた考えだ。
空が、雲が、大地が、家々が、そんなことを考えるわけもない。世界はただ世界として存在し、そこに意識が介在するわけもない。太陽はただあるがままに沈み、世界は、あるがままに夜の訪れを受け入れる。ただそれだけのことだ。
なぜ、どうしてそんな馬鹿げたことを考えてしまうのか。
感傷だろう。
彼は、胸中でつぶやき、認める。
感傷。
激動の日々の中、突如として訪れた大事件が彼の心を掻き乱した。そのことがいまになって彼の感傷を呼んでいる。
流れる風が髪を揺らし、服を揺らし、頬を撫でるようにすり抜けたかと思えば、首に腕を絡めるような仕草を見せて、また流れて消える。風は、夏の熱気をわずかに残しており、妙に生暖かい。夏から秋へと移行している最中なのだ。気温はまだまだ高く、過ごしやすいといえば過ごしやすいのだろう。
夕暮れの群臣街を見下ろしながら、彼は、声も発さず考える。三対六枚の翼を最大限に広げ、その翼が感じられるものすべてを感じ取りながら、考える。大気の流れ、群臣街を歩くひとびとの足音、家々から聞こえるさまざまな話し声、隊舎内外からはよく知る人物の会話が聞き取れる。召喚武装には、装備者の五感を拡張するという副作用がある。
翼が、声を聞き取る。
シルフィードフェザー。彼の召喚武装は翼型と呼ばれる種類に分類されるが、シルフィードフェザーは翼だけの召喚武装ではない。外套に変化するという特徴を持ち、防御に特化した外套形態と移動と攻撃に使える飛翼形態を使い分けることが彼の戦い方だった。
そして、現在使用中のシルフィードフェザー・オーバードライブは、シルフィードフェザーの最大能力であり、戦闘に特化したものといえるだろう。通常二枚の翼を六枚にまで増やすという荒業であり、シルフィードフェザーの力は圧倒的に増加するものの、使用者への負担は限りなく大きく、約一分という限られた時間の中でしか使うことはできなかった。
たった一分。されど一分。戦闘ならば、それでも十分なくらいだ。たった一分でも、すべての力を使いきれば、多大な戦果を上げる事だって可能だろう。シルフィードフェザー・オーバードライブはそれを可能にする。だが、戦闘以外の面では、使いにくい能力といってよかった。もちろん、シルフィードフェザーの通常の能力が強化されるということもあって、移動にも使える。複数人を連れて飛行するのであれば、シルフィードフェザー・オーバードライブを駆使するほうがいい。通常の飛翼形態では、ひとりかふたりが限界だ。三人四人も運ぶとなると、オーバードライブ形態を使うほかない。だが、オーバードライブ形態は、一分程度の制限時間がある上、消耗が激しすぎるのだ。一度使えば、制限時間の超過如何にかかわらず、しばらくはシルフィードフェザーの能力をまったく使えなくなるくらいには無力化されてしまう。それは、武装召喚師としては致命的な弱点といってよかった。
特に、今回のようなことがあれば、彼もまた、考えを改めざるを得ない。
シルフィードフェザー・オーバードライブは確かに強い。それこそ、通常時の飛翼形態とは比較にならないほどの力を彼に与えてくれる。群臣街の全域が感知範囲に収まるほどに強化された五感は、通常時では考えられないものだ。耳に響く足音だけでその人物像がありありと浮かぶほどに研ぎ澄まされた感覚は、オーバードライブ形態の凄まじさを彼自身に伝えてくる。
だが、その超強化とべもいうべき状態は、約一分間しか持たない。
一分を経過した途端、翼はばらばらに崩れ去り、あらゆる感覚が普通の人間のそれへと戻る。精神力の消耗も凄まじく、肉体への負担も大きい。戦うことはおろか、歩くことさえままならなくなるほどだ。サマラ樹林の戦いでもそうだったし、龍府から水龍湖へと移動した後も、そうだった。オーバードライブ形態が終了したあとの彼は、しばらくは戦闘に参加することもできなかった。援護することさえ、だ。
今回も、そうだった。
セツナ、ファリア、ミリュウを新市街まで連れていくためにオーバードライブを使ったのが、まずかったのだろう。
馬で行けばよかったのだ。そうすれば、彼もニーウェの捜索に全力を注ぐことができたし、セツナとニーウェの戦闘が始まれば、だれよりも先に参戦し、セツナを援護することができただろう。そのときこそオーバードライブの出番だ。セツナが深手を負ったならば、オーバードライブで逃げればいい。それだけのことだ。
だが、それができなかった。
移動のためにすべての力を出し切ったがために、ルウファはニーウェの捜索をまともに行うことすらできず、体力の回復に務めるしかなかった。そうするうちにセツナとニーウェの激突があり、セツナが瀕死の重傷を負った。現場に辿り着いたとき、彼は、己の無力さを痛感した。
ミドガルド=ウェハラムなる人物が応急処置をしてくれたおかげもあってセツナは一命を取り留めたものの、彼は、自分にもっと力があれば、このような惨事にはならなかったのだと確信を抱いた。それはそうだろう。たとえニーウェに一矢報いることができなかったとしても、セツナを守ることや、セツナとともに逃げることはできたはずだ。たとえセツナが逃げることなどできない、などといってきたとしても、セツナの命を守ることのほうが大切だ。セツナはガンディアの宝といっていい。彼を失うのは、ガンディアが力を失うのと同意なのだ。
失わずに済んで良かった。
だが、それで済ませていい話ではない。
ルウファ・ゼノン=バルガザールは、シルフィードフェザー・オーバードライブの制限時間が超過したのを認めて、歯噛みした。背中から生えていた三対六枚の翼がばらばらに砕け散り、無数の羽が彼の周囲を舞った。
隊舎の屋根の上、白い羽の乱舞は、瞬時に終わる。ルウファがシルフィードフェザーそのものを送還したからだ。
ぐったりとした感覚の中で、彼は、その場に座り込んだ。
「六十五秒……か」
シルフィードフェザー・オーバードライブの効果時間である。
一分を五秒も越えることに成功したのだが、これでは大差がない。
(もっと。もっとだ)
もっと上を、もっと先を目指さなければならない。
でなければ彼は、セツナの翼にはなれない。