第千百八話 ひとのかたち、いのちのかたち(十)
「いったい、なにがあったんだ?」
セツナは、上体を起こして座ると、寝台横の椅子に腰を下ろした少女のうつむき加減の顔を見て、たずねた。
エリナ=カローヌは、元気が取り柄で、そこにいるだけで空間そのものが活気を帯びる、そんな少女だ。そんな彼女が力なくうなだれているのを見ると、心配になるし、なにかあったのではないかと不安にもなる。
もちろん、元気でなければエリナではない、などというつもりはない。初めて会ったときの彼女がそうだった。父を失い、家を失い、街をも奪われた少女は、ただ、泣いていた。
この間もそうだ。セツナが負傷したのは自分のせいだと言い募り、涙をこぼしていた。そういう彼女の泣き顔を見るたびに思うのは、彼女には明るい表情が似合うし、いつも笑っていてほしいということだ。勝手な考えだろうし、押し付けかもしれない。だが、そう思うからこそ、セツナは勝ち続けなければならないとも思えるのだ。
勝ち続けなければ、負けて傷を負えば、彼女を悲しませかねない。
実際、ニーウェとの戦いに敗れ、負傷したがために彼女は心に傷を負い、涙を流させてしまった。そのことがセツナには心苦しくもある。
室内には、セツナとエリナ以外には、レムとラグナがいるのだが、ひとりと一匹の従者は話の邪魔にならないよう、ふたりから離れた場所にいた。
エリナの様子が尋常ではないことに気がつき、気を利かせてくれたのだろう。部屋から出ることはできないが、最大限離れることでふたりきりの空間を演出しようというのだ。セツナは胸中で感謝し、エリナの言葉を待った。
時間はたっぷりとある。
疲れも、吹き飛んだ。いくらでも待っていられる。
「あの……ね」
エリナがおずおずと口を開いたのは、しばらくしてからのことだった。揃えた足の上に置いた小さな手が、わずかに震えている。それほど言い出しにくいことがあった、ということだろうが。
「ニーウェってひとに、また会ったの」
「ニーウェに?」
セツナは、驚きとともに生じた痛みに顔をしかめた。傷が疼いたのだ。ニーウェに斬られた背中の傷と、脇腹の傷口。どちらも塞がりつつはあるのだが、完治するには至っていない。
「やっぱり、まだいたんだな、あいつ」
「うん」
エリナが小さくうなずく。
当然だろう。ニーウェの目的はセツナの殺害と、カオスブリンガーの破壊だ。殺し損ねたのなら、つぎの機会が訪れるのを待つに決まっている。一度失敗したからといって帝国に戻るわけがないのだ。
そんな簡単に帰国の途につくようならば、最初からこんなところまで来てはいないはずだ。
「それで、ニーウェになにかされたのか?」
「ううん、そうじゃないの。そういうことじゃなくて……その……」
彼女は、口ごもると、俯き、視線をさまよわせた。それから、エリナは意を決したように顔を上げてきた。
「わたし、ニーウェってひとが許せなかったの。お兄ちゃんを傷つけたことがね……許せなくて……それで……」
膝の上の手が、小刻みに震えていた。彼女が必死になってなにかを伝えようとしていることがわかる。伝えたくても、言い出せない。言葉にすれば、セツナにどう響くかわからないから、だろうか。
セツナは、彼女の目を見つめ、その瞳の奥に揺れる感情の深刻さに気づいた。そして、彼女が続ける言葉を待った。
「殺そうとしたの」
その言葉を聞いたとき、セツナは、衝撃を受けた。エリナの口からそのような言葉が発せられるとは想像したこともなければ、考えたくもなかった。彼女はまだ十二歳になったばかりの少女だったし、武装召喚師を目指しているとはいっても、実戦には程遠いのだ。そんな彼女がだれかを殺す、などという言葉や発想が生まれ、行動に移そうとするなど、想いもよらなかった。
「……殺そうとした?」
反芻するように、問う。ただそれだけのことなのに心が酷く重い。息苦しい。
エリナは、膝の上の手をぐっと握りしめた。
「うん」
「俺のためにか」
「だって、ニーウェってひと、またお兄ちゃんを狙うっていうから……」
「止めようとしてくれたんだな。ニーウェを」
ゆっくりと息を吐き出して、頭の中に渦巻く感情を抑えつける。様々な感情が湧き上がって意識を席巻する。
「……でも、できなかった」
「そうか」
ほっとする。もちろん、わかりきっていたことだ。たとえ彼女にその気になってニーウェに斬りかかったとしても、ニーウェほどの武装召喚師が対応できないはずがない。そして、そうなれば、今度はエリナが無事では済まなかったかもしれない。本気の殺意に対すれば、遠慮する必要などないのだから。ニーウェのことだから、どう対応したのかはわからないが。
彼は、セツナだ。
「なにも、できなかったよ……」
「うん。それでいい。それでいいんだ」
セツナは、エリナの震える体を見つめながら、言い聞かせるようにいった。すると、彼女は俯きかけていた顔を上げて、セツナを睨んできた。
「よくないよ!」
「エリナ……?」
「わたし、お兄ちゃんの力になりたいの! ただ見てるだけじゃ嫌なの!」
「……だから、ミリュウに学んでるんだろ?」
「そうだよ。でも、でも……いますぐ力になりたいよ……」
彼女の目が揺れていた。いまにも泣きそうな表情は、彼女の心情を素直に反映しているのだろう。そして、その想いが痛いほど伝わってくるから、セツナは彼女から目をそらさず、耳も塞がないのだ。
「お兄ちゃんを失くしたくないよ……!」
「ごめんな」
「……なんで、お兄ちゃんが謝るの……? 悪いのはわたしなのに」
「エリナはなにも悪くないだろ」
「だって……!」
「ニーウェになにもできなかったのが悪いって? 冗談だろ。だったら、あいつにボロ負けした俺のほうがもっと悪い。違うか?」
セツナが問うと、エリナは頭を振った。
「……違うよ。それは違うよ……」
「つまり、エリナはなにも悪くないってことだ」
「どうしてそうなるの?」
「そうだな。どうしてだろうな」
「わからないの? お兄ちゃんがいったのに?」
「うん……わからない」
「変なの」
「変だな」
セツナが苦笑交じりにうなずくと、エリナは、顔を真赤にして怒ってきた。茶化されたとでも思ったのかもしれない。
「もう、お兄ちゃんのばか! わたし、真面目な話をしてるのに!」
「俺だって、真面目なつもりなんだけどな」
「どこが真面目なの!」
「俺はいつだって大真面目だぜ」
「もうっ、お兄ちゃんなんて知らない!」
エリナは、大声で怒鳴りながらそっぽを向いた。
そんな少女の怒り顔を見つめながら、セツナは胸を撫で下ろすような想いだった。彼女を取り巻く空気が変わった。いや、この室内に満ちていた空気そのものが変わったというべきか。重々しく、呼吸するのも苦しいくらいの空気だったのが、途端に軽くなった。
「良かった」
「なにが!?」
「元気になってくれて」
「元気じゃなくて、怒ってるの!」
エリナの憤然とした反応は、彼女が本気で怒っていることの現れだ。
「うん。それでいい。それがいい」
「怒るのがいいの!?」
「エリナは元気なのがいいんだ」
「お兄ちゃんのいってること、わからないよ……」
エリナは、諦めたかのようにいって、ため息を浮かべた。
「本当に良かった」
「うん……?」
「エリナがニーウェを刺したりしなくてさ」
エリナがこちらを向いた。その目には涙は揺れていなかったし、怒気も消え失せていた。表情がころころ変わるのもまた、エリナの特徴というべきだろうか。
「あのひとがいってたの。そんなことをしても、お兄ちゃんは喜ばないって」
「うん。そいつのいうとおりだ」
「そうしてたら、お兄ちゃんに嫌われてた?」
「嫌いはしないさ。でも、きっと悲しんでたと思う。後悔してたと思う」
「悲しんでた? 後悔?」
彼女が不思議そうな顔をする。どういう意味がわからないといった顔だ。セツナは、寝台の空いている場所を手で示して、エリナを呼んだ。
「エリナ、おいで」
「うん?」
エリナは怪訝な顔をしながらも立ち上がると、セツナの隣に腰を下ろした。
「ここ?」
「そう」
「どうしたの?」
「よく手を見せてごらん」
「手? これでいい?」
「うん」
セツナは、エリナが見せてくれた手をまじまじと見た。今年十二歳になった少女の手は、セツナの手と比べるとやはり小さい。さっきまで強く握っていたせいだろう。手のひらに食い込んだ爪の跡がくっきりと残っていた。それもすぐに消えるに違いない。若いというよりはまだまだ幼い少女だ。かといって、女性らしく扱わなければ機嫌を損ねてしまうことも知っている。難しい年頃なのだ。
彼女の手の横に、自分の手を並べる。エリナの手に比べると一回りも二回りも大きく、日々の鍛錬によって傷だらけになった手は、彼がこれまで歩んできた道の険しさを示しているようでもあった。傷だらけではあるが、ぼろぼろというほどでもない。
「お兄ちゃんの手、傷だらけだね」
「エリナの手は、綺麗なままだ」
「うん……」
「このままで、いてほしいな」
セツナは、ただ、本心を伝えようと思った。
「……お兄ちゃん?」
「俺の手は、エリナに見せたくなかった。ううん。ひとに見せたくなんてないんだ」
「どうして? こんなにかっこいいのに」
「かっこいい?」
「うん。とってもかっこいいよ」
「……ありがとう」
セツナが心の底から感謝を述べると、エリナはきょとんとして、それから不思議そうな顔をした。
「でも、この手は、ひとに見せて誇れるようなもんじゃない」
セツナは、エリナの目を見つめながら、いった。
「俺の手は、数えきれないほどの命を奪い、その血を浴びてきたんだ」
血は洗い落とせる。においが染み付くようなこともない。だが、数多の血を浴びてきたという記憶が消え失せることはないのだ。