第千百七話 ひとのかたち、いのちのかたち(九)
ぼんやりと、天井を眺めている。
天井の木目を目で追うのは無意識的にやっていることだが、特に意味があるわけでもなければ、それで思考力が向上するというわけでもない。特に頭が回らないときにそんなことをしたところで、なにがどうよくなるはずもなく、彼は、ただ憮然とした。
疲れが、出ている。
話を聴き続けただけだというのに、精神的な疲労と負担が大きい。きっと理解しきれないことを説明され続けたからだ。理解できないことを理解できないなりにも理解しようとすれば、そうなる。わからないと断じて頭の中に留め置くことすら諦めれば、疲労を感じることも、負担となることも少なかったに違いないが、そういうわけにもいかない事情があった。
ミドガルド=ウェハラム。そして、ウルク。
ガンディアを取り巻く新たな事象に対応するためには、セツナが彼らと話し合う必要があった。
ミドガルドの目的はセツナであり、ガンディアそのものではないのだから、セツナが応対するよりほかない。
ミドガルドは、神聖ディール王国の人間だ。研究者であり、話を聞くところによれば、魔晶人形の開発者でもあるようだ。そんな彼が聖王国領から遠く離れたガンディアを訪れたのは、魔晶人形の動力源である黒魔晶石とセツナの関わりを調べるためだった。
レオンガンドは、そんなミドガルドの希望(セツナの体を調べるというもの)こそ退けたものの、ミドガルドとの関係を悪化させたくはないとも考えていた。ミドガルドを通じて神聖ディール王国と繋がりを持つことができれば、小国家群そのものの延命に繋がるかもしれない。逆に、ミドガルドの不興を買えば、神聖ディール王国軍が小国家群に乗り込んでくるという可能性もわずかながらにあり、故にミドガルドのことは丁重に扱わなければならなかった。
そこでレオンガンドが下した結論は、ミドガルドの申し出については、セツナ本人が話し合いで決める、というものだった。だからセツナはミドガルドを病室に呼び、数度に渡る面会を行ったのだ。そしてその中で判明したのは驚くべきことであり、正直、信じ難い話の連続だった。
まず、ウルクが人間ではないということが、一番の驚きだった。ウルクは、見た限りでは人間の女性にしか見えない。表情のなさと淡く輝く目が奇異ではあったが、それ以外の部分で奇妙なところはなかったからだ。しかも彼女は言葉を発し、みずからの意思で動いているように見えた。
とても、ひとの創りだしたものには見えない。
魔晶人形。
魔晶石を動力とする人形という意味なのだろう。ミドガルドにいわせれば、当初の予定では、ウルクに自我が発現することはなく、遠隔操作するつもりだったという。つまり、魔晶石を動力とする操り人形だったということだ。しかし、どういうわけがウルクに自我が芽生え、みずからの意思で動くようになってしまった。
その原因を探り、突き止めるのもまた、ミドガルドがガンディアを訪れた理由だった。
鍵は、セツナにあるという。
(ニーウェにはないのか……?)
セツナは、目を閉じたとき、瞼の裏に浮かんが人物の顔に脇腹が痛むのを認めた。彼の短刀が刺さった傷口は、ゆっくりと塞がりはじめている。その傷口が傷んだのは、刺さった瞬間のことを思い出してしまったからだろう。
ニーウェ・ラアム=アルスール。
ザイオン帝国の皇子――つまり、皇帝の子であり、末の皇子と呼ばれる人物らしいということをレオンガンドたちから聞いて、知った。ミドガルドが神聖ディール王国の代表ならば、ニーウェはザイオン帝国の代表となるだろう。もちろん、両者にそのような意識もなければ、代表としてこの地を訪れたわけではない。ただ、ガンディアという国の人間から見れば、そう感じるというだけのことだ。
末の皇子は、次期皇帝候補争いから脱線したものの、戦爵と呼ばれる爵位を与えられるほどには評価され、アルスールの統治を任されているという。そして、末の皇子が武装召喚術に精通しているのは、帝国領内では有名な話であり、帝国領周囲の小国家でも知らないものはいないくらいには有名な人物らしかった。
それほどの人物の名がガンディアでは知られていなかったのは、ガンディアが小国家群の中央付近に位置していたことも大きいだろうし、東に向かって国土を拡大したのではなく、北進したことも大きく影響しているのかもしれない。大陸北部を収めるヴァシュタリア共同体の情報は、北に向かうに連れて入ってくるのだが、東西の三大勢力の情報は、ほとんど入ってこなかった。
それでも調べればすぐに出てきたのだから、案外、有名な人物だったのだろう。
(ニーウェ)
奇妙な縁を感じずにはいられない名だ。セツナが何度か用いた偽名であり、一瞬とかそのような意味を持つ古代言語だったはずだ。皇子ということは現在の皇帝が名付けたのだろうか。どういう理由でニーウェと名付けたのか、多少、気になりはした。
奇縁を覚えるのは、名前だけではない。姿形はおろか、声までもそっくりだった。ニーウェに逢ったというエリナがいうのだから、声まで似ているのは疑いようもない事実だ。その上、ニーウェは、黒き矛のかけらとでもいうべきエッジオブサーストの使い手だった。
エッジオブサースト。黒一色の二刀一対の短刀。能力はいまのところ解明できていないが、おそらくは空間転移能力の一種だろう。
セツナは、ニーウェとの戦いの有様を思い出して、瞼を上げた。脳裏に焼き付いている映像がある。ニーウェが両手の短刀を重ねたとき、彼の姿が掻き消えた。空間転移を発動させるための予備動作なのだとすれば、彼の空間転移を邪魔するには、双刀を重ねさせないようにするしかない。
(できるか?)
万全の状態ならば、不可能ではあるまい。全速力で飛べば短刀と短刀が重なる前にこちらの突きが届くかもしれない。しかし、こちらの突きが届くよりも先に空間転移が発動すると、今度はこちらが窮地に立たされる。
猛然と飛びかかった瞬間、短刀が脇腹に突き刺さったことを思い出して、彼は顔をしかめた。
ニーウェ。
同じ顔、同じ姿、同じ声の持ち主。
まるで鏡を見ているようだった。が、立体的なそれは、鏡とは明らかに異なる。
そこにもうひとりの自分がいるような感覚さえあった。
きっと、その感覚は間違いではない。彼はもうひとりの自分なのだ。この世界に生まれ落ちた自分。なぜか、確信する。彼は、このイルス・ヴァレのセツナなのだ。そして、セツナはあの世界のニーウェなのだ。本来逢うべきはずのない存在が出逢ってしまった。となれば、互いの全存在を賭けて戦うしかない。
おそらくはそういうことなのだ。
黒き矛とか、エッジオブサーストとか、関係のないことなのだ。
きっと。
そして、もうひとりの自分に敗れ、死にかけたのがセツナだ。殺されかけたのだ。あのまま殺されていれば、どうなっていたのだろう。
考えるのはそのことだ。
死ねば、セツナは消えてなくなるだけだが、ニーウェは、どうなったのか。エッジオブサーストが黒き矛の力を取り込んだのは間違いなく、そうなれば、彼はこの世になにをもたらしたのだろう。
なにももたらさなかったのかもしれない。
なんの変化もなく、ただこの世界からセツナが死んだという事実が残されただけなのかもしれない。そうなれば、ファリアは悲しんでくれただろうか。ミリュウは泣いてくれただろうか。レムは、一緒に消えるだろう。彼女の命はセツナの命だ。ルウファはどう思ったのか。シーラはどうか。ラグナは。エスクは――。
さまざまなことが頭の中に浮かんでは消えた。
本格的に疲れている。
だから取り留めがないのだ。
セツナは、窓の外に目をやった。窓の外、夕焼けに染まった空が妙に眩しい。
そのとき、不意に扉が外から叩かれて、レムが返事をした。
「はい? なんのようでございましょう」
レムがそそくさと扉に向かっていくのを足音だけで聞く。ラグナの話によれば、レム、ファリア、ミリュウの三人は、ニーウェ配下の武装召喚師たちと交戦し、負傷したらしい。彼女たちは、セツナの元へ急いだというのだが、その進路を塞ぐようにニーウェの配下が現れ、戦闘に至ったのだ。戦わなければ、戦い、突破しなければ、セツナの元へと辿り着けないから、戦うよりほかなかった。その結果、ファリアたち三人は負傷し、特にレムは片腕を切り飛ばされたというのだが、レムが腕を失っているようには見えない。セツナを驚かせるためのラグナの嘘かとも思ったのだが、どうやら、切断された腕を引っ付けることに成功したらしい。どういう理屈かは分からないが、彼女の有り様を考えれば、必ずしも不思議なことではなかった。
「ミリュウ様、どうなされました?」
「ちょっと、いい?」
「御主人様はつい先程ミドガルド様、ウルク様との面会を終えたばかりでございまして」
「うん、それは知ってるから、無理を承知でお願いするんだけど」
聞こえてきたのは、レムとミリュウの話し声だった。つまり、ミリュウが部屋を尋ねてきたのだろうが、ミリュウの様子がいつもと違っていた。
「どうしたんだ?」
「ミリュウ様が御主人様と面会したそうなのですが」
尋ねると、レムがこちらを振り返ってくる。病室の窓際に置かれた寝台からは、ひとつしかない扉がよく見える。扉が、僅かに開いているのがわかった。その向こうにミリュウがいるのだろうが、セツナの位置からでは彼女の姿は見えない。
「あたしじゃないの」
「はい?」
「ん?」
「エリナがセツナに逢いたいっていうから、さ」
「エリナ様、ですか」
「エリナが?」
「駄目かな?」
ミリュウの問いには、セツナは考えるまでもないと想い、口を開いた。
「俺は構わないが」
答えながら、ミリュウの気遣いに表情を緩める。ミリュウといえば、初遭遇時の悪鬼のような戦いぶりから、戦闘後、捕虜となった彼女と対面したときの変化ぶりには驚いたものだし、その後の彼女のセツナへの態度は、想像もできないほどのものだった。しかし、それはセツナに対してのみで、セツナ以外の人間には敵意や悪意をむき出しにすることも多かった。それが、いまエリナという弟子を得たことで、大きく変わりつつあるのではないか。
少なくとも、ミリュウのエリナに対する態度は、慈しみと愛情に満ちていて、彼女の苛烈な部分が微塵も出ていない。
「御主人様がそう仰られるのなら、わたくしからはなにもいうことはございません。どうぞ、お通り下さいませ」
「ありがとね」
「いえいえ。御主人様にこそ、感謝してくださいまし」
「わかってるわ。セツナが回復したら、たっぷり感謝してあげる」
茶目っ気たっぷりなところは、最初から変わっていないのだが。
「そういうことは、ご遠慮願います」
「なんでよ」
「妬けますので」
「ふふふ。だったら、なおさらやめられないわね」
「では、御主人様が回復されるまで、わたくしがたっぷり感謝しておきます」
「なんでそうなるのよ」
「うふふ」
レムが笑い、ミリュウが苦笑する。なんだかとても穏やかな空気で、セツナもまた、穏やかに微笑んだ。
だが、しばらくしてもエリナは室内に入ってこなかった。セツナが首を傾げていると、ミリュウの声が聞こえてきた。
「エリナ、どうしたの? セツナが待ってるわ」
「でも……」
エリナの声の力のなさに、セツナの胸が痛んだ。普段元気一杯で太陽のように眩しい少女が、いまにも泣き出しそうな曇り空のようになっているのだ。セツナは彼女の身になにがあったのかと不安になり、声をかけた。
「どうしたんだ?」
「早く行きなさい。でないと、セツナ、寝ちゃうわよ」
「そうだぞ、寝ちゃうぞ、ぐっすりな!」
「セツナもああいってるし、さっさと行って、話したいこと話してきなさい」
「はい、師匠。あの、ありがとうございます」
「いいのよ。弟子ちゃんのことだもの」
ミリュウの声の優しさに、どきりとする。ミリュウのあまり見ない一面だった。そういえば、ミリュウがエリナの師匠としてどういうふうに振舞っているのか、セツナはほとんど知らなかった。
「じゃあ、またね」
「はい、では、また」
レムが頭を下げると、ミリュウが微笑を浮かべたまま扉を閉める瞬間が垣間見えた。