第千百三話 ひとのかたち、いのちのかたち(五)
「君は、俺を恨んでいることだろうね」
ニーウェは、少女の目を見つめて、つぶやいた。
新市街の片隅。時間帯からか、人口からか、人通りはまったくなかった。いるのは、ニーウェとランスロット、エリナという少女と、犬のニーウェだけだ。
「どうして?」
少女が肩を震わせながら、口を開いた。恐れがあり、怒りがある。様々な感情の振幅が、彼女の小さな体を震えさせている。それらの感情の出自がわかるから、ニーウェはなにもいわない。
「どうしてお兄ちゃんを殺そうとしたの……?」
エリナの問いは、もっともだと思った。セツナがエリナにとってかけがえのない人物だということは、聞いていた。最初に逢った時、そこまで話し込んだからだ。エリナは、ニーウェがセツナに似ていることで安心したらしく、よく喋った。彼女からセツナ攻略の要となるような情報は引き出せなかったものの、彼女とセツナの関係性については熟知できた。
セツナはエリナにとって救い主のような存在であり、彼女は、彼のために武装召喚師を目指し、日夜訓練や勉強に励んでいる、ということまで知った。
そんな彼女の話を聞いて、なにも感じないわけがなかった。
セツナを斬りつけたとき、彼女の想いを踏み躙った気がして、心が痛んだ。セツナに致命傷を負わせたとき、彼女の心まで傷つけた感覚があった。
セツナを殺さずに済んだとき、安堵している自分がいることに気づいた。
わずか数十分の邂逅。しかし、それだけでも、ニーウェはエリナに気を許してしまっていた。
きっと、セツナのせいだろう。
ニーウェがセツナと同じだから、セツナにとって大切な人物であるこの少女に気を許してしまうのだ。
だから、どう答えるべきか逡巡した。
「……そうしなければならないからだよ」
ほかに答えようがなかった。エリナが小さな体を激しく揺さぶる。
「どうして? どうしてなの? わからないよ」
「わからなくていい。わからなくて当然のことだ。俺だって、本当のことはなにもわかっていない」
「わからないなら、殺そうとしないでよ」
「それでも、殺さなくちゃならないんだ」
ちょっとした痛みが、胸に刺さる。しかし、自分を偽ることはできない。彼女の心を安んじるためだけに、自分を欺くことなどできないのだ。そんなことをすれば、ニーウェがこれまで築き上げてきたことのすべてが空疎なものになってしまう。そんな感覚が、彼を支配していた。
「彼をこの手にかけ、その命を終わらせなければ、俺は俺でいられなくなる。そんな気がするんだ」
「そんな気がする……って、そんな勝手な理由でわたしのお兄ちゃんを傷つけないでよ!」
「すまないと思う。君には申し訳ないことをした。でも、仕方がないんだよ。こうするほかない。それが俺と彼の運命で、だから、呪うなら運命を呪うしかない」
これまでニーウェは運命というものについてむしろ否定的な立場にいた。そんなものが人間の人生を決定づけるなど、考えたくもなかった。人生がどう転ぶかは努力次第ではないのか。でなければ、生まれた瞬間、なにもかも決まってしまうということではないのか。生きる意味さえないではないか。そう考えていた。
しかし、いまとなっては運命の存在を認めざるをえない。
エッジオブサーストの召喚に、セツナとカオスブリンガーの存在。自分とまったく同じ存在が、愛用する召喚武装の本体を手にしているのだ。それを運命と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
「勝手な理屈だということはわかっているよ。恨んでくれても構わない」
「……また、お兄ちゃんを狙うの?」
「そうだね。彼が回復して、戦えるようになったら、また戦うさ。まあ、今度はだれも巻き込まないように気をつけるけど」
そういって、ニーウェはランスロットを一瞥した。彼は、バツの悪い顔をしている。ランスロットのライトメアが新市街に被害をもたらしたことは、ニーウェにとっては想定の範囲外のことだった。無論、セツナの部下が武装召喚師だということは知っていたし、セツナが自分の偽者であるニーウェの捜索に動き出せば、その部下たちもまた動くということはわかっていた。ランスロットたちがそれらの妨害に動いてくれているのも知っていたが、だからといって、新市街の地面に大穴を空けるのは想像していなかった。
そうでもしなければ相手が自重してくれなかった、とはランスロットの言い分であり、ニーウェもそれを信じてはいるのだが。
無関係なひとやものを巻き込みたくはない。
それは、ニーウェの最初からの望みであり、願いですらあった。
「させない……」
少女が懐剣を取り出したのを見て、ニーウェは、目を細めた。彼女は武装召喚師を目指している。武装召喚師とは、術を使うだけの存在ではない。体術、武器の扱い、戦闘技術をも磨き抜かれたものだけが、武装召喚師と呼べるのだ。エリナもまた、武装召喚術を学びながら、体を鍛え、武器の扱い方も教わっているのだろうが。
懐剣を握る手が、震えていた。
「無理だよ」
「殺させない……」
少女は、うわ言のようにつぶやいていた。小犬のニーウェは、遊び疲れのか、おとなしく彼女を見上げている。彼女がなにをしようとしているのかもわかってはいないだろう。
「君には、無理だ」
ニーウェは、彼女の表情が強張っているのを確認し、それから彼女の全身の筋肉が硬直しているのも目で見て理解した。これでは、懐剣をニーウェに刺すことなど不可能だ。たとえニーウェに突き刺すことができたとして、致命傷にはなりえないだろう。
そもそも、彼女の目には殺意がなかった。
「エリナ。君のこの手は、だれかを傷つけるためのものじゃない。そうだろう?」
ニーウェは、懐剣を掲げる彼女の手に触れた。びくりともしない。緊張がエリナを支配している。
「セツナを助けたいといったその気持ちは、嘘なのかい?」
「嘘じゃない! 本当だよ! でも、だから……!」
「君が俺を殺しても、セツナは喜ばないよ」
「なんでよ!」
「俺にはわかる」
ニーウェは、彼女の目を見つめながら、言い切った。
「俺は彼だ。そして、彼は俺だ。だからわかる。君が俺を傷つければ、彼は心底悲しむだろう。君をそうまでさせてしまった自分を許せなくなるだろう。彼はそういう男だ。なにもかもひとりで背負い込み、なにもかもひとりで解決しようとする。そのくせ、他のだれかがそういうことをすると怒り、嘆き、悲しむ。どうしようもなく愚かで、どうしようもなく救い難い」
自嘲とともに告げる。
あの瞬間、なにもかもわかってしまった。なにもかも、理解してしまった。認識してしまったのだ。彼は自分で、自分は彼だということがはっきりと、実感してしまったのだ。
だから殺さなければならない。
だからこそ、戦い、その生命を終わらさなければならないのだ。
「俺も彼も、そういう人間なんだ。困ったことにね」
彼女がニーウェの言葉を理解したのかはわからない。その目には困惑が渦巻き、混乱が揺れている。そんな少女の小さな手を包み込んだまま、ニーウェはただひたすらに優しくいった。
「君が彼のことを大事に思うのなら、彼の側にいてあげるといい。彼にはただそれだけで十分なはずだよ」
「……でも」
「つぎは、どうなるかわからないさ」
「え?」
エリナがきょとんとする。
「俺が殺される可能性だって十分あるってことだよ」
ニーウェのその言葉は本心だった。
「セツナ伯サマもご存知でしょうが、魔晶石には不思議な力があります」
ミドガルド=ウェハラムとの三度目の対面は、やはり隊舎で行われた。
九月二十一日。
隊舎一階にある医務室の隣室で、個人用の病室として利用されている部屋だ。
隊舎は、もともとナーレス=ラグナホルンの私邸であり、ナーレスがザルワーン工作のためにガンディアを離れて以降長年放置されていたものを《獅子の尾》の拠点として再利用したものだ。当初はそのまま、《獅子の尾》の隊旗や隊章を掲げた程度だったのだが、ルウファの提案によって大幅に改築、改装され、ナーレスが自分の屋敷の面影を思い出せないほどに変わり果てていた。とはいえ、大きく変わったのは外観であり、内部構造自体に大きな変化はなく、ナーレスも隊舎に入れば、懐かしさがこみ上げてくるといったものだった。
医務室と病室が並んだ区画は、《獅子の尾》専属軍医マリア=スコールが君臨する区画であり、一歩足を踏み入れたが最後、彼女の敷いた法に従わないものは叩きだされるという領域だった。“剣鬼”ルクスが案外おとなしかったのも、それが理由に違いない。いくら“剣鬼”であっても、マリアに敵うわけがないのだ。
ファリアはともかく、ミリュウやシーラが一日、二、三回程度しかセツナの顔を覗きにこないのも、この区画がマリアの領地同然であり、常に彼女の監視下にあるといっても過言ではないからだ。なにより、セツナの病室は医務室の隣だ。少しでも騒げば、すぐさまマリアが飛んでくる。ミリュウもシーラも、マリアには頭が上がらないのだ。
そしてそれは、セツナも同じだ。セツナも、マリアの怒りを買わないよう、細心の注意を払い、体力と傷の回復に努めている。
マリアの機嫌を損ねてはならないという不文律が《獅子の尾》を支配し始めたのは、いつからだろうか。
マリアは軍医だ。それも凄腕の、名医と呼ぶに相応しい腕前の人物であり、最前線で強敵を相手に戦うことを宿命付けられた《獅子の尾》の生命線といっても過言ではない。彼女の機嫌を損ねるということは命の危険に直結するのだ。無論、機嫌が悪くなったからといって手を抜く彼女ではないし、感情で治療結果が左右されるなど、軍医としてあってはならないことだが。
「生命力に反応して発光するってやつですよね?」
「ええ。人間や動植物の生命力を感知し、反射的に光を発する結晶体。それが我々が魔晶石と呼ぶ鉱石であり、ウルクを始めとする魔晶人形の動力源です」
「この間も聞きましたけど、そんなことできるんですか? それに、そこまで明かしてもいいんですか?」
「後者については、だれにも真似できないので、なんの問題もない、とだけいっておきましょうかね。動力源が判明したところで、魔晶人形の模倣さえできないでしょうな」
ミドガルド=ウェハラムは、ウルクを横目に見ながら、自信満々に言い放ってきた。ウルクは、その無表情で、じっとこちらを見ている。
室内には、この間と同様、セツナとレム、ラグナに、ミドガルド、ウルクだけがいる。ミリュウたちは扉の外で室内の様子をうかがっているかもしれないが、邪魔してくるようなことはないだろう。当然のように隊舎に居座っているというウルクについては、文句ばかりいっていたが。
「模倣できたとして、試用にも耐えない代物となりましょう。わたしどもが彼女の躯体を完成させるのにどれほどの歳月を要したかを考えれば、当然のこと。まあ、もっとも力を入れたのはその造形なのですがね」
ミドガルドの苦笑は、むしろどこか誇らしげでさえあった。
ウルクの容姿を見れば、誇りたくなるのもわからないではなかった。非の打ち所のない美女だ。美術品のような完璧な美しさは、表情の変化もないこともあって、崩れることがない。どのような角度から見ても美しく、レムがおもわずため息を漏らすほどだ。
「さて、本題に戻りましょうかね」
彼は、セツナの手の内にある黒魔晶石を見つめながら、いった。