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第百九話 闇を抱く

 彼が目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは豪奢な天蓋の内側だった。それが自分のために設えられた寝台の過剰な装飾だと理解できると、安堵の息を吐いた。あれは夢だったのだ。

「随分とうなされていましたが、悪い夢でも見られましたか?」

 恭しくも気遣うつもりもないのであろう女の言葉に、彼は、静かにまぶたを閉じた。無言は肯定と受け取られかねなかったが、構うことはない。動悸がする上、全身が汗をかいている。恐ろしい夢を見たのは間違いなかった。夢の内容は忘れてしまったが、それでいい。悪夢など覚えていても仕方がない。

「闇を抱いて寝ると夢見が悪いと、あれほど申しましたのに」

 女が、彼の胸に顔を埋めたまま笑った。

 レオンガンドは、なにもいわず女の髪に触れた。女は身動ぎひとつしない。いつだってこちらのなすがまま、されるがままだ。それが彼女なりの抵抗なのかと考えないこともないが、どうだっていいことだ。愛し合っているわけではない。互いの利害が一致しているに過ぎない。女は情動の捌け口をレオンガンドに求め、レオンガンドは精神の平衡を保つために女を抱く。それだけのことだ。

 先王の後継者たる英邁な王であろうとすると、心のどこかに負担がかかった。負担は歪みとなり、精神の平衡を狂わせていく。ともすれば外道に堕ちようとする自分に気づき、叱咤するのだが、それだけでは止まらないときがある。そういうとき、女を抱くと、心が落ち着きを取り戻すのだ。もっとも、それは完全な対処法ではない。崩れた平衡をほんの少し戻すだけにすぎない。状況によってはすぐに狂いだすこともあった。

 愚鈍に振る舞う事ができれば、どれほど楽なのかと思わないではない。世間を騙すためのガンディアの“うつけ”という評価のまま振る舞えれば、きっと楽なのだろう。だが、それはできない。それだけは決して。

 レオンガンドは、唇を噛んだ。鉄の味が舌の上に広がる。

「まだ、物足りませぬか?」

「いや……いい」

「わたくしも満足致しましたわ」

 そういうと、女の体重がレオンガンドの上から消えた。彼女の髪を撫でていたレオンガンドの手は空を切り、胸の上に落ちる。いつものことだ。虚しさもない。体温は既に冷えきっている。

 視線を巡らせる。室内は闇に閉ざされ、ろくに見えない。この闇のどこかに潜んでいるのだろうが、見当もつかない。

 彼は、仕方がないので名前を呼んだ。

「アーリア」

 すると、彼女の姿が闇に浮かび上がった。シーツをドレスのように纏い、こちらに背を向けて立っている。壁にかかった絵でも眺めていたのかもしれない。王都遠景。有名な画家に描かせたものらしいが、レオンガンドには興味がなかった。作品自体は気に入っている。王都の全景を思い浮かべるとき、まっさきにこの絵が浮かぶほどだ。

 レオンガンドは、彼女を見据えたまま、言葉を続けた。脳裏に、ある光景が浮かんでいる。

「ひとつ、聞いておきたいことがある」

「なんでしょう?」

 女は、こちらを向こうともしない。王に対して無礼な態度であるという考えはないのだ。そして、レオンガンドはそれを許している。

「なぜ、あんなことをした」

「さて」

 アーリアが小首を傾げる。

 レオンガンドは、自分の質問が悪かったのだと理解したが、反省はしなかった。網膜に焼きついた強烈な光景は、彼女が作り出したものだ。王宮主催の晩餐会が台無しになりかけた。幸い、怪我人はでなかったし、彼も無事だった。

 黒き矛の演武。

 口をついて出た言葉の軽さに唖然としたものだ。そんな馬鹿げたことのために彼を使う道理はない。

「……セツナを殺そうとしたのか」

「運良く殺せたならそれはそれでよかったのですよ」

 彼女は、悪びれもしない。その反応は、予想通りではある。彼女ならそういうだろう。そういう顔をして、そういう態度を取るだろう。短くもない付き合いだ。彼女の思考は、ある程度は読めた。しかし、あの夜の出来事は想像もつかなかった。

「なぜだ」

「理由はふたつ」

 女は、こちらを振り返った。闇の中、女の顔がはっきりと見えた。目が闇に慣れてきたからかもしれない。いい女ではあるだろう。男好きのするような顔立ちだ。常に濡れたような目が、情動の捌け口を求めているようだ。黒髪は肩にかかる程度。灰色の瞳がレオンガンドを見据えている。刺すような目。しかし、その視線にあったはずの敵意も憎悪も、いつか見た幻のように消えてしまった。

 情が湧いたわけでもあるまい。

「ひとつは、彼がわたしを認識してしまったから」

「認識? いつの話だ。おまえは彼と直接の面識はないだろう」

 あっても、彼女はレオンガンドの影であり続けていた。認識されている様子などはなく、彼女の能力は機能し続けていたのだ。だれも彼女の存在に気づかず、レオンガンドすら忘れるほどの徹底ぶりだった。問題は一切なかったはずだ。

「一月ほど昔のことでございます。わたしがクレブールに向かう難民に紛れていたとき、彼に遭遇してしまったのです」

(一月前……クレブール……)

 レオンガンドは、記憶を探った。そのふたつの単語から導き出される答えはひとつしかなかったが、この一月の間が多忙すぎたのだ。思い出すのに数秒を要した。

(あのときか)

 シウスクラウド王時代の財務大臣ベンデル=クラインの逃亡先が判明し、秘密裡に処断するため彼女を向かわせたことがあった。元財務大臣の秘匿してきた金脈は、表には出すべきではないと判断したのだ。表に出せば、以前の金の流れまで調べる必然性が出てくる。それはいい。だが、先王の幻想を砕くのは、ガンディア全体の士気に関わりかねない。バルサー要塞奪還作戦を目前に士気の低下などあってはならなかった。

 とはいえ、彼を捕らえたところで、生かしておけばいつかは露呈するかもしれない。もはや老いぼれた使い物にもならない人間のために、気を使うのも、有限の能力を使うこともない。

 いっそ殺してしまおう。

 決断は早かった。

 彼はアーリアによって死に、彼の遺産は闇の中に隠匿された。そして、その鉱脈が生む資金は、ガンディアの度重なる軍事行動を支える原動力となった。

 その直前に遭っていたというのか。

 レオンガンドは、詰るようにいった。

「なぜ、いままで黙っていた」

「いくら陛下であっても、みずから恥を晒せというのは酷でございましょう」

「恥……恥だと」

「外法の果てに生まれた我らなど、異能さえなければ存在する価値もございませぬ。恥を晒せば、異能の価値も、我らの意義も消えてしまいます。陛下も、そう思いましょう?」

 艶然と笑う女に、返す言葉も見当たらなかった。事実でもある。特異な力を持っているからこそ、彼女やウル、レルガ兄弟を保護し、使ったのだ。それは否定出来ない。

 アーリアは、だれからも認識できなくなるという能力を持っている。ウルは精神支配を司り、レルガ兄弟は、空間に制限されない意思疎通という異能を持っていた。先王時代末期、ガンディアに巣食った闇が、彼女らを生み出した。

 外法機関。

 病に倒れたシウスクラウドの、生への執着と狂気の産物。

「……あの夜、彼を殺していれば、この恥を晒さずに済んだかもしれないと思うと、少し惜しいことをした気になります」

 嘘か真か、アーリアが口惜しそうにいってきた。

 レオンガンドは彼女を睨んだ。

「セツナを殺せば、俺はおまえを許さなかっただろう」

「わたくしよりも、彼を取ると?」

「……いや、どちらも必要だ」

 嘆息して、認める。それは本心だ。ガンディアの今後を考えるとセツナは必須だったし、アーリアの存在も必要不可欠だった。彼女が影として控えてくれているから、戦場で無茶もできるのだ。皇魔に飛びかかることだって、彼女という影がいたからできたことだ。蛮勇ではない。

 女が、満足そうに目を細めた。

「陛下は正直でございますなあ。それでは権謀術数の世界を生き抜いていくのもお辛いでしょうに」

「嘘でもつけば満足したか?」

「いいえ。女は、嘘つきは嫌いですよ」

 女は笑う。まるで闇が嘲笑しているかのようだ。なにをいっても、彼女には届くまい。彼女は闇だ。レオンガンドの心の闇そのものだ。だからだろう。レオンガンドは彼女を抱くことで、自分になることができた。彼女を手放せないのはそんな理由もある。

 自分を見失うのは、まだ早い。

「そしてもうひとつは、わたしが陛下の影でありまするゆえ」

 アーリアは芝居がかった口調で告げてきた。レオンガンドは憤然として言い返す。

「影が主人の意思に反した行動を取るものか」

「本当に、そう思いますか?」

「なにがいいたい!」

「陛下、あなたは聡明なお方だ。本当は気づいているのでしょう。彼に嫉妬している自分に」

「馬鹿げている」

 一蹴したものの、彼女の言葉は耳の奥に刺さった。

「幼少より“うつけ”を演じてきたあなたは、嘲られ、馬鹿にされることに慣れ、なんとも思わないように自分を制御してきた。いつか英雄として咲き誇り、戦乱の舞台に躍り出よう。いまはそのための雌伏のときなのだ。そう思い続けることで、あなたはあなたであれた」

 まるで謳うような言葉は、レオンガンドの心情を吐露するかのようだった。

「彼はどうです? 流星のように現れ、ガンディアのみならず諸国の注目を浴びる稀代の勇者。長らく待ち望まれていた要塞の奪還も、ログナーの制圧も、彼の存在あったればこそ。舞台上では彼だけが輝き、あなたは端役に過ぎなかった。せっかく“うつけ”の名を返上し、群雄割拠の戦乱の舞台に上がろうとしていたのに。名を広めたのは彼ひとり。妬むだけの理由にはなりましょう」

「くだらん。その程度のことで俺がセツナを殺すとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい」

「愛しい陛下への忠告ですよ」

 女の目は、寒気を覚えるほどの色気を帯びていた。笑ってはいない。嘲っているわけでもない。真に迫っている。だからそれが、言葉通りのただの忠告だと理解できる。だが、だからといって素直に受け入れられるわけもない。自分でも理解していない心の有り様を他人に暴露されるなど、恥辱以外の何物でもないのだ。

 しかし、レオンガンドの胸中に湧き上がるのはアーリアへの怒りではなかった。

「黒き矛のセツナ……彼を殺すものがあるとすれば、それは、あなたが嫉妬に狂い、死地へ追いやるということ以外、ありえましょうか」

 アーリアの姿形がぼやけた。輪郭から闇に溶けるようにして消え失せた。消滅といっていい。気配も、匂いも、消えてなくなる。認識できなくなったのだ。それが彼女の異能であり、レオンガンドが彼女を影とする理由だ。レオンガンドの側には、常にアーリアがいた。影となって付き従い、あらゆる脅威から彼を守っていた。

 レオンガンドは、憮然とした。胸の奥がざわめいている。

「嫉妬だと……?」

 だれもいなくなったはずの虚空に向かってつぶやく。彼女はまだ室内のどこかにいるかもしれないが、どうでもいいことだ。こちらの反応をほくそ笑んでいようと、憐れんでいようと、構うまい。彼女は、レオンガンドの影なのだ。

(違うな……)

 レオンガンドは、さっき見た夢の内容を朧気ながらに思い出した。恐ろしい夢だ。想像するだけで心が震えた。悪夢とはこのことだ。夢でよかったと心の底から思ったのは、これがはじめてだった。

 彼は、夢の中で、黒き矛の戦士と対峙していた。

 場所はどこかの宮殿の中だ。獅子王宮に似ているが、微妙に違っていた。相手はセツナただひとりで、黒き矛の穂先がレオンガンドに向けられていた。漆黒の矛の放つ、禍々しく凶悪な殺気を前にして、彼はただ絶望感に打ちひしがれた。たかが一国の王風情が、あの黒き矛に敵うはずがない。剣の腕は二流もいいところで、影に守られていなければなにもできないという自負がある。

 あのまま夢を見ていれば、黒き矛に殺されていただろう。

(恐ろしいのだ……彼が)

 だから地位も栄誉も惜しみ無く与えた。彼のためにできることはなんだってしよう。彼が求めるものはなんだって用意しよう。金、女、地位、栄誉、名声――そんなもので彼が飼えるのなら安いものだ。彼は黒き矛の使い手で、一騎当千の戦鬼だ。彼さえいれば、どんな敵とだって渡り合える。それほどの信頼感がある。

(狗……か)

 セツナのログナー行きに同行したランカインは、彼を狗だといった。主人に絶対の忠誠を誓う走狗だと。

 レオンガンドは当初、その説に納得していた。レオンガンドを前にしたセツナは、飼い主を前にした子犬のようだった。主人の機嫌を損ねまいと懸命に振る舞う姿は、ただ健気で、いじらしささえ覚えたものだ。戦場での姿とはまるで違う。だからこそ、レオンガンドは彼を支配できると思い込んでいた。

 だが。

(本当にそうか?)

 ランカインは、彼の本質を見誤っているのではないか。

 王宮晩餐会での情景が脳裏に蘇る。機会があれば殺すつもりだったアーリアを相手に、会場の客人に被害が及ばぬように気を使いながらも拮抗する少年の姿。そこに狗の姿を重ね合わせることはできない。走狗。そんな単純なものではないのだ。もっと恐ろしいなにか。

 力の化身。

 破壊と殺戮の権化。

 そんな言葉が脳裏を埋めていく。

 しかし、だからこそ、彼が必要なのかもしれない。

 彼のような力を支配し、使役してこそ、大陸に眠る巨獣どもに立ち向かうことができるのだ。

(アーリア……君は勘違いをしている)

 レオンガンドは、女の最後の言葉に対していった。

(俺は彼を殺さないさ)

 不安を飲み下し、彼は闇に誓ったのだった。

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