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第千九十五話 定義

「負けたな」

 嘲笑が聞こえる。

 灰色の空。灰色の雲。灰色の風。灰色の太陽。白でも黒でもない世界。夢と現の狭間。ついこの間見た景色。いつもと同じで、どこかが異なる風景。

 高度が違うのかもしれない。

 荒れ地に寝そべったまま、そんな風に考える。この間は塔の上にいた。塔の上から投げ落とされたことを思い出す。だが、だからどうということもない。所詮は夢。夢よりも現実に近く、現実よりも夢に近い世界の出来事。なにが起きようと、なんの意味もない。

 無駄で、無意味な空間。

「やはり俺は強い。さすが俺だ。だれも俺に敵うわけがないのだ。おまえが負けるのも当然だ」

 まさに自画自賛とでもいうべき声に、セツナは目を細めた。声の主は、竜ではないらしい。黒き矛の意思ではあるようだが。

 上体を起こすと、やはりというかなんというべきか、前方にそれはいた。それは、人間の姿をしている。灰色の世界で、それだけが浮いている。真っ黒な人物。黒い髪に、全身黒ずくめで、まるでセツナを真似ているような、そんな風に思えたのは、きっと思い過ごしなどではあるまい。

 灰色の世界で浮いているのは、黒髪だけではない。赤い目もまた、この夢と現の狭間にあって、不思議なほどにあざやかに輝いていた。黒い竜と同じ目。ただし、人間を模しているためか、無数の目を持っているわけではない。目はふたつ。鼻も口もひとつ。人間そのものに見える。

 いつか見た姿だ。

「だが、俺が俺に負けるのは、道理としておかしくないか?」

 黒い男は、こちらの視線に気づいたのだろう。静かに問いかけてきた。

「なにがいいたいんだよ」

 セツナは上体を起こしたついでにその場に座り込み、あぐらをかいた。全身、自由に動く。痛みもなければ疲労もない。ここが夢と現の狭間だからだろう。現実ならば、苦痛のあまり座っている場合などではないかもしれない。背を斬られ、腹を刺された。死んでいてもおかしくはなかったが、どうやら、生きているらしい。

 生きているから、夢を見ている。

「なんで負けたんだ?」

 黒い男の言葉は軽い。常に威厳に満ち、重々しさのある黒い竜とは違うのだ。姿形だけでなく、中身まで変わっていたとしてもおかしくはない。単純に、これは黒き矛の干渉などではなく、セツナ自身の夢だという可能性もあるが、深くは考えなかった。

 どうせ、目が覚めれば忘れるようなことばかりだ。

「なんで……って、そりゃあ、相手が上手だったんだろう」

 自嘲などでもなければ、謙遜でもなく、認める。

 ニーウェ・ラアム=アルスールのほうが一枚も二枚も上手だったのだ。力量差は不明だが、セツナは、本来の力を出し切ることもなく切りつけられ、致命傷を負わされ、負けた。何者かによる助勢がなければ、ニーウェは苦もなくセツナを殺していただろうし、セツナはニーウェに一矢報いることもできずに殺されていたかもしれない。

 最悪、逃げるつもりではあったが、間に合ったかどうかはわからない。

「ということは、おまえはここまでということか」

  黒い男が、つまらなそうな顔をした。血の気の悪い青白い顔には表情らしい表情もないのだが、セツナにはなぜか、彼がつまらなそうにしているのがわかる。感覚的なものだ。気のせいかもしれない。

「ついに諦めるのか」

「だれが」

 叫びそうになって、言葉を飲み込む。叫び返すほどのことでもなければ、それほど離れているわけでもなかった。叫ばずとも、言葉は届く

「だれが諦めるかよ」

「じゃあ、戦うんだな?」

「当たり前だろ」

 むきになったつもりもないが、なんとなくそんな風に反論してしまった気がして、少し後悔した。無論、諦めるつもりなど毛頭ない。相手の能力がわからず翻弄され、殺されかけたが、つぎはそうはいかない、と決めている。いまのところ対処法など思い付かないが、なんとかしてみせるという気だけはある。気だけでどうにかなる相手でもないことだって理解してはいるのだが、それでもどうにかしなければならないのもまた、事実だ。

「それを聞いて安心したよ」

「安心? あんたが?」

 きょとんとする。

 すると、黒い男は、またしても意外なことをいってきた。

「おまえが諦めたら、つまらないからな」

「あんたは、黒き矛だろ?」

 問いただしたのは、ここが自分の夢かどうか確かめたかったからだ。自分の夢ならば、セツナにとって都合のいいことばかりいうのもうなずけるというものだ。しかし、問い詰めたところで、夢か、夢と現の狭間にいるのかを確かめることなどできないという事実に気づき、胸中で苦笑する。馬鹿げたことだ。

「ああ。俺はおまえがそう呼び、そう認識し、そう定義した存在だよ。本当の名など思い出せんがな。故にカオスブリンガーとでも呼べばいい」

「気に入らないんじゃなかったのかよ」

 ふてくされているわけではないが、つい、怒ったような口調になってしまった。黒い竜の反応を思い出したからだ。少なくとも竜は、カオスブリンガーという名を気に入っている風ではなかった。

「まあ……な。だが、俺を定義付けた名を無下にすることもないさ」

「定義……ねえ」

 彼の言葉を反芻した時、風が吹いた。灰色の風が荒れ地の中で渦を巻き、砂や小石を舞い上げる。男の黒衣が揺らめくと、竜の翼が広がったかのようだった。はっとする。紅い目がこちらを見ていた。じっと、見据えていた。炎のように赤く、血のように紅い目。燃え盛る地獄の業火を思わせ、血の池を想起させる目。彼が、口を開く。

「俺はカオスブリンガーと名付けられた。その名に込めたおまえの想い、おまえの願い、おまえの祈り、おまえの望み、それが俺を定義するのだ。俺は混沌をもたらすもの。おまえのために混沌を呼び、おまえのためにすべてを混沌で飲み込もう。それがおまえの望みなれば。それがおまえの願いなれば。それがおまえの夢なれば」

 彼の声が響く。朗々と、幾重にも響き渡り、耳朶に刺さり、鼓膜に染みこむ。鼓動が聞こえた。雷鳴のように激しく、怒涛のように止めどない、心臓の音。手が震えている。いや、手だけではない。全身が震えていた。彼の声が、彼の言葉が、心を、体を震わせるのだ。全身の毛という毛が逆立ち、血が逆流しているのではないかというような感覚があった。

「そして問おう。おまえはだれだ?」

 黒い男の目が輝く。

 問われて、セツナはその場に立ち上がった。震える体をなだめる必要もなければ、気負うこともない。ただあるがままに、思ったままに応えるのだ。

「俺は――」

 迷うことなどなにもなかった。

「セツナ」

 名を、口にする。

「神矢刹那。それが俺の名で、俺のすべて」

 告げると、黒い男が口の端だけで笑った。

 灰色の世界が崩壊を始める。

 この儀式になんの意味があるのかなどわからない。意味などないのかもしれない。無駄で、無意味なものなのかもしれない。だが、それでも、セツナは、彼とこうして再び会えて良かったと思えた。ただ利用されていただけではないのだということが理解できたからだ。そういう思いさえも、彼の、黒き矛の、カオスブリンガーの思い通りならば、それはそれでいい。いまならば、そう考えられる。

 意味ならばあったのだ。

 きっと。

 そんな風に思いながら、目覚めの時を待つ。

 夢と現の狭間から、現実へと流れ落ちるように落ちていく。

 重い瞼を開くと同時に鈍い痛みが全身から襲ってきて、セツナは悲鳴を上げそうになった。中でも背中と脇腹が特に強い痛みを発している。ニーウェに斬られた箇所と、刺された箇所だ。脇腹は、エレニアに刺された箇所でもあり、クレイグに刺された場所でもある。何度刺されても痛いものは痛いし、致命傷は致命傷だ。刺された数だけ強くなることなどありえないのだ。

 ぼんやりとした思考の中で、セツナは馬鹿馬鹿しい考えに苦笑した。そして、その苦笑のせいで腹が動き、痛みが膨れ上がったことに顔をしかめざるを得なかった。

 視界には、天井の木目があるだけだ。見慣れた木目調の天井。病院などではないらしい。ましてや王宮の医務室でもない。おそらく、《獅子の尾》の隊舎の一室だろう。もちろん、セツナの寝室ではなく、専属軍医管轄の病室に違いない。

「セツナ!? 気がついたのね!? 良かった……!」

 突如として響いたファリアの声に、頭が割れそうな気がした。ファリアらしくない反応のように思えたが、いつだって彼女は心配してくれていたことを思い出して、すぐさま前言撤回する。視界に飛び込んできたファリアの目には、涙が浮かんでいた。

 嬉しかった。

 ファリアが想ってくれているのだということが、はっきりと伝わってくる。だからだろう。セツナは照れ隠しで、想ってもないことをいった。

「生きてるって、痛いよな」

「第一声がそれなの?」

 ファリアが少しばかり不機嫌そうな声を出してきた。感動も薄れる、とでもいわんばかりだった。

「だって、痛いし……」

「そりゃあ、あれだけ重傷なら痛いでしょうよ。まったく、ひとに心配ばかりかけてさ」

 ファリアが嘆息とともにいってくる。彼女は、セツナの寝かされている寝台のすぐ側の椅子に腰掛けている。看病してくれていたのだろう。当然、隊服ではない。私服だった。簡素ながらも、どこかきりっとした服装は、彼女によく似合っている。

「……ごめん」

「なんで謝るのよ……もう……」

「ごめん」

 もう一度、いう。今度は、彼女はなにもいってこなかった。

 視線をそらし、天井を見る。首を動かすだけで痛みが走ったが、耐えられない痛みではなかった。この一年余り、軽傷から重傷に至るまで、さまざまな傷を負ってきたのだ。死に瀕したこともあれば、九死に一生を得たこともある。そういえば、ファリアとの出会いも、そのような状況だったことを思い出す。

「俺がもっと強かったら」

「もう十分すぎるくらいに強いでしょ」

 ファリアが呆れ果てたとでもいうような顔をした。

「でも、あいつ――ニーウェに負けたんだよ、俺」

「召喚武装の能力に負けたんでしょ」

「うん……」

「それなら、対策を練ればいいだけじゃない。これ以上強くなる必要なんて、あるとは思えないわ」

 ファリアの言い分も理解できる。セツナと黒き矛の力が十分だという言葉も、わかりすぎるくらいにわかる。どれだけ強大な力を手に入れることができたとしても、制御できなければ意味がない。いまでさえ、完全に制御できているとは言いがたいのだ。そんな状態でさらなる力を得たところで、宝の持ち腐れにしかならない。

 ファリアは、嘆息とともに予期せぬことをいってきた。

「っていっても、セツナがニーウェと戦うことはないと思うけど」

 風が、白の帳を揺らしていた。

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