第千九十三話 帝国と聖王国
窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
九月十三日午後三時過ぎ。
新市街での捜索任務が、セツナが重傷を負ったことで一旦休止となり、ファリアたちは瀕死のセツナを連れて隊舎に戻ることになった。セツナはすぐさまマリア=スコールの手によって治療を施され、現在は医務室でマリアとエミルに見守られながら眠っている。背を斬られ、脇腹を深々と突き刺されるという重傷であり、応急処置が間に合わなければ死んでいてもおかしくはないほどの傷だったという。
突如としてランスロット=ガーランドが消え、セツナの元に辿り着いたファリアが見たのは、血まみれのセツナだった。その姿は、いまも彼女の網膜に焼き付いていて離れない。幸いにも応急処置が施されていたため、ファリアがオーロラストームの“運命の矢”を使う必要はなかった。“運命の矢”は寿命を削る禁断の技だ。
応急処置を施したのは、セツナの側にいた紳士で、彼は医療道具を持ち歩いているという奇特な人物だった。医者ではないというのだが、医術にも精通しており、軍医として戦場を駆け巡ったこともあるらしい。また、セツナが九死に一生を得たのは、その紳士とともにセツナを見守っていた女性のおかげだという。そのことは、ラグナの証言からも明らかだ。
灰色の髪の女性は、どこか無機的なものを思わせた。
ラグナは、セツナの側で小さくなっていた。自分が不甲斐ないばかりにセツナに瀕死の傷を負わせてしまった、というのだが、ラグナのせいではないことは明白だ。セツナがここまでの傷を負うということは、相手が強かったというだけの話なのだ。
相手は、ニーウェ・ラアム=アルスールと名乗ったという。
(ニーウェ……か)
ファリアが衝撃を受けたのは、当然といっていい。ニーウェとは、セツナがログナーに潜入する際の偽名としてファリアが用意したものなのだ。セツナという言葉の意味するところを古代言語に置き換えただけだが、それとまったく同じ名前の人物がいて、その人物がセツナとまったく同じ姿をしているというのだから、奇妙な縁を感じずにはいられなかった。
運命。
だとすれば、数奇な運命だ。
そして、その数奇な運命の中心にいるのが、いまも医務室で寝ているセツナなのだろう。
セツナがニーウェ・ラアム=アルスールと名乗る人物と戦った現場は、都市警備隊の監視下に置かれ、一般人の立ち入りは禁じられた。幸い、現場周辺の建物にはまだ人が入っていなかったこともあり、一帯を封鎖しても大きな問題にはならなかった。新市街の完成は多少遅れるものの、その程度の遅れならば取り立てて問題になるほどのものでもない。
問題があるとすれば、ニーウェ・ラアム=アルスールと、セツナに応急処置を施した人物の扱いに関して、だろう。
ニーウェ・ラアム=アルスールは、調べたところ、帝国の人間だった。しかも、皇子だという。末の皇子で、皇位継承権がないために有名ではないが、調べればすぐにわかることだった。アルスールを領地とする闘爵で、ファリアが戦うはめになったランスロット=ガーランド、ミリュウが剣を交えたというシャルロット=モルガーナ、レムが戦ったミーティア・アルマァル=ラナシエラの三名は、ニーウェの三臣と呼ばれる直属の家臣だったのだ。
帝国の人間で、しかも皇子となると、その扱いには慎重にならざるをえない。ファリアたちの報告を受けて、レオンガンドたちはいまごろ頭を抱え、悩ませているに違いない。
レオンガンドらガンディア首脳部の頭を悩ませるのは、ニーウェたち帝国人の扱いだけではない。
セツナに応急処置を施した人物のことも、問題になる。
その人物は、名をミドガルド=ウェハラムといった。名前からはわからないが、神聖ディール王国の人物であり、王立研究所の所長だというのだ。そんな人物がなぜガンディアくんだりまでやってきたのかは、ファリアたちにはまだわからない。王宮でレオンガンドたちに説明しているころだろう。
また、彼とともにセツナを護ってくれた女性も、もちろん、ディール王国の人間だ。
なぜ、神聖ディール王国の関係者がセツナを護ってくれたのかはわからないが、ファリアはミドガルドと彼女に感謝してもしたりないくらいだった。彼女とミドガルドがいなければ、セツナは死んでいたかもしれない。
ニーウェによって、殺されていたかもしれないのだ。
ニーウェ――つまりエッジオブサーストの能力は不明であり、その能力次第では、ラグナの防御魔法さえ無意味だった可能性がある。
「……こんな気分、二度と味わいたくなかったな」
ミリュウがこぼした一言は、きっと彼女の本音だろう。セツナの回復を待ち続けるだけの時間。彼のためになにをしてやることもできず、祈り、願うことしかできない時間。辛く、苦しく、胸が張り裂けそうになる。
一度目は、セツナがエレニアに刺されたときだ。あのときは激昂したミリュウを抑えるので必死だったが、今回は、そうはならなかった。ミリュウは、自分に怒りをぶつけていたからだ。シャルロット=モルガーナを一蹴できていれば、セツナに加勢し、彼を護ることができていたのだから、自分のことを不甲斐なく思うのも仕方がない。
それはファリアも同感だった。ランスロット=ガーランドとの戦いを早急に終わらせることができていれば、このようなことにはならなかった。
レムも、そう考えていたようだ。ミーティア・アルマァル=ラナシエラを突破出来ていれば、と悔やむしかないのだ。
「そうね……」
うなずき、肯定する。
重い静寂が、隊舎を包み込んでいる。
シーラたちも、エスクたちも、瀕死のセツナを見て息を呑んだものだ。普段は皮肉屋のエスクも、今回ばかりはなにもいってはこなかった。シーラは、セツナの命令を無視してでもついていくべきだったと悔しがり、嘆いた。しかし、彼女にはそんなことはできなかっただろう。シーラはセツナの命令に従うほかない。エスクも同じだ。そして彼は、自分たちがついていったところで、同じだっただろう、ともいう。黒き矛のセツナがこうも圧倒されるのだ。“剣魔”如きでは相手にならないだろう、と彼はいう。
そのとおりなのかもしれないが、それでも、ファリアはセツナの窮地を救いたかった。
後悔ばかりが胸の奥に渦巻いている。
いつだってそうだ。
いつだって、間に合わない。
いつだって、手が届かない。
(セツナ……)
ファリアは、彼の回復を祈りながら、肩に乗っているミリュウの頭を撫でた。
拠点とする宿に辿り着いたころには、雨が降り始めていた。外套を纏い、頭巾を目深に被って顔を隠し、宿へ入る。顔を隠すのは、ニーウェの顔はあまりに目立つからだ。とくにこの王都では、知らない人間がいないのではないかというくらい、有名な顔だった。新市街ではそのことを利用して噂を立てたのだが、拠点への移動中まで顔を晒す馬鹿もいない。
裏通りでひっそりと経営している宿は、普段から客が少ないらしく、ニーウェ一行がしばらく宿泊すると告げると、宿の主人はひどく喜び、素性を尋ねてくるようなこともなければ、正体を探ろうとすることもなかった。不用心なことだが、金払いのいい客に去られるようなことはしないのは、当然ともいえる。
そして、そういった不用心さがニーウェたちに安息を与えてくれるのだ。
「まさか王国が干渉してくるとはね」
王国とは、神聖ディール王国のことだ。帝国人は、神聖ディール王国のことを、往々にして王国と呼ぶ。
大陸の四分の一ほどを支配下に収める三大勢力のひとつが、ザイオン帝国であり、神聖ディール王国だ。統一国家の崩壊たる大分断から約五百年(両国が成立して数百年)、互いに反目しつつも沈黙を守り、暗黙の了解のように小国家群には手を出さず、また、互いの両国にも手を出さなかった。それはヴァシュタリア共同体も同じであり、三大勢力はこの数百年、領土外に戦力を差し向けたことなどなかった。
だが、今日、その均衡が崩れたかもしれない。
帝国からはニーウェが、王国からはあの奇妙な女が差し向けられた。小国家群にて急速に拡大を続ける国、その王都にだ。偶然にしてはできすぎている気がしないではないが、気にし過ぎだろう。
女とは、セツナとの戦いを邪魔した女のことだ。
奇妙な女だった。灰色の髪と淡く光を発する目を持つ女。長身痩躯。均整の取れた体型だったが、鍛え上げられているようには見えなかった。なぜその女が王国の人間だと判明したのかといえば、身に纏っていた白の装束に真紅の杖の紋章が刻まれていたからだ。真紅の杖は、神聖ディール王国の紋章であり、その女が王国人であることを証明しているようなものだ。
女がガンディアの人間である可能性も低くはないが、ガンディアのものが王国の紋章つきの装束を身につけるはずもない。よって、ニーウェはその女を王国人と断定した。
ニーウェが退いたのも、それが理由だ。
「しかしなぜ、王国が小国家群に?」
「それをいえば、俺たちも同じだよ」
ニーウェは苦笑とともにいった。ニーウェもまた、暗黙の了解を破り、帝国領土外に出ている。セツナの立場が立場だ。彼を殺すということは、帝国とガンディアの関係を敵対的なものにする可能性が高い。そうなったところでガンディアにはどうすることもできないし、帝国もまた、どうすることもないのだが。
だからこそ、ニーウェはガンディアへの旅を止めなかった。セツナを殺したところで、大勢に影響はないと判断したのだ。少なくとも、帝国が動き出す理由にはならない。たとえガンディアが帝国に敵意を抱き、セツナの復讐を誓ったところで、現状のガンディアでは帝国の敵になどならない。
しかし、相手が王国の人間となるど話は別だ。帝国人と王国人の対立が両国の数百年に渡る沈黙を破らせることになどなったら、目も当てられない。王国の内情がどうあれ、帝国は国是として、動きたくないのだ。
「それはそうですが……王国の連中も、セツナ伯と黒き矛を狙っていると?」
「それはないよ」
ニーウェは断言する。ニーウェがセツナと黒き矛を狙っているのは、それがエッジオブサーストの望みだからだ。
エッジオブサーストがさらなる力を得るためには、黒き矛を破壊し、その力を取り込む必要があるからなのだ。セツナを殺すのは、そのためといっていい。黒き矛を破壊するためには、召喚者を殺すほうが手っ取り早いからにほかならない。黒き矛さえ破壊できるのならば、セツナを殺す必要はないともいえるが、そうはならないだろう。セツナが生きている限り、黒き矛を送還される可能性がある。召喚された状態でない限り、破壊することはできない。つまり、セツナが黒き矛を召喚している状態で彼を殺し、黒き矛を召喚されたままにしておくのだ。そうすれば、矛の破壊にどれだけ時間をかけようとも構わなくなる。セツナを殺すのは、そのための手順なのだ。
また、エッジオブサーストが黒き矛の破壊を要求するのは、エッジオブサーストが黒き矛の一部だからなのだ。エッジオブサースト以外にもあったようだが、それらは既に黒き矛に吸収されてしまっており、神聖ディール王国に黒き矛の力のかけらを召喚したものがいるはずがなかった。
その上、あのときニーウェを吹き飛ばした女は、武装召喚師ではなかった。
人間ですらなかったかもしれない。
こちらを見る無機的な目は、淡く光を発していた記憶がある。とても人間の目ではなかった。
「まさかとは思いますが、王国とガンディアが協力体制を結んでいるのでは?」
「これまでのところ、王国が小国家群に触肢を伸ばしているという情報もなければ、ガンディア領内に王国の手のものが紛れ込んでいるという話もない。王国とガンディアが協力体制――たとえば同盟のようなもの――を結んでいる可能性は、極端に低いだろうね」
ニーウェは窓の外に目をやりながらいった。旧市街と呼ばれる一般市民の居住区はいま、激しい雨音に包まれている。まるで空が泣いているようだというが、だとすれば、号泣も号泣だろう。
「とはいえ、今後どうなるかはわからないな」
「今後……」
「あの女がガンディアと王国を結びつける可能性だってある。そうなれば」
「我が帝国も黙ってはいられませんね」
シャルロットの冷ややかな目は、いつになく研ぎ澄まされていて、ニーウェの感性に心地よかった。
「それで、殿下はどうされるおつもりで?」
「しばらくは様子を見ようと思う。王国の人間がいる以上、迂闊なことはできない」
「まあ、それが一番ですね」
ランスロットのにこやかな笑みが、彼が生来、争いごとを好んでいないことを思い出させてニーウェは心苦しくなった。彼に戦いを強いているのは、自分だ。自分という存在がなければ、ランスロットは戦いに身を投じることなく、術の研究に没頭していたことだろう。
そんな彼のためにも、この私闘を早く終わらせ、国に戻りたいところなのだが。
(そういうわけにもいかないようだな)
神聖ディール王国の手のものがいないところでセツナと戦い、決着をつける必要があるのだ。その機会を待つか、作る必要がある。それまではガンディア領土内を潜伏し続けるしかない。
寝台の上に寝転がって足をばたばたとさせているミーティアを見遣りながら、ニーウェは目を細めた。生粋の戦闘者である彼女には、退屈な日々が始まることだろう。
ランスロットにとっての楽園は、ミーティアにとっての地獄でもあるのだ。