第千八十八話 ニーウェとニーウェ
エリナ=カローヌは、その日の朝、いつものように市街地の沿道を歩いていた。早朝、人気はないに等しいものの、常に警備隊の目が光っている以上、王都新市街の安全性は確保されているといっていい。十歳の少女がひとり出歩いていても、なんの問題もなかった。
セツナ一行の帰国による興奮と熱狂は記憶に新しく、新市街のまっさらな通りを歩いているだけで気分が高揚してくるようだった。曇り空もなんのその。いや、曇っているからこそ、昨日の光景が脳裏に浮かび上がるのかもしれない。昨日も、曇り空だった。
「お兄ちゃん、かっこよかったねー」
首輪に結び付けた紐に引っ張られるようになりながら、ゆるゆると歩く。日課の早朝散歩は、武装召喚師としての訓練というよりは、ニーウェの散歩のためだった。
ニーウェとは、エリナより数歩先を歩く黒い毛玉のことだ。犬である。なんでも彼女の師匠であるミリュウ=リヴァイアの戦友が大事にしていた犬であり、戦死した友の代わりにミリュウが飼うことにしたのだという。しかしながら、《獅子の尾》は忙しい身の上であり、常にニーウェを連れていくこともできないため、龍府を出発する際、弟子のエリナに預けたのだ。
エリナも預かった以上は誠心誠意、ニーウェの面倒をみるつもりだった。ニーウェは愛くるしい小犬であり、面倒をみるのも苦ではなかった。なにより師の大切な犬なのだ。そしてそんな大切な犬を任されたのだ。エリナも気を吐くというものだ。
そのミリュウだが、昨日、セツナと一緒に王都に戻ってきている。暇が見つかり次第、《獅子の尾》隊舎に顔を出し、授業を受けようと考えている。
ただそれだけのことで彼女の胸は弾んだ。
ミリュウから与えられた宿題をこなしながら、ミリュウとの一対一の授業を心待ちにしていたのだ。師は忙しく、王都を空けることが多い。立場上、仕方のないことだし、そのことについてエリナが残念に思うことはない。
弟子と認めてくれ、なおかつ、親身になって教えてくれるミリュウには感謝しかないのだ。
だから、ミリュウがいないときは勉強に熱を入れる。つぎに会えたときに驚かせるくらいになっておきたい。
そうでもしないと、いつまで経っても理想の自分になどなれないのだ。
エリナの考える理想の自分とは、武装召喚師として自立し、なおかつ、セツナの役に立っているというものであり、武装召喚師として学びはじめたばかりといっていい彼女の現在地から、遥か彼方にその到達点はあった。
遠い。
遠いが、一歩一歩、前を進んでいけば、いつか必ず辿り着けるはずだ。
師もそういってくれている。
だから、エリナは、一歩一歩、踏み締めるように新市街の清潔な街並みを歩いていた。
新市街。
ガンディアの領土の急速な拡大は、王都への移住者を日々、増加させた。ついには《市街》から溢れ出るまでになり、ガンディア政府は王都の拡張を決定。《市街》の外周に建設されはじめた居住区は《新市街》と命名され、以前の市街地は《旧市街》と呼ばれ、区別された。
エリナが旧市街から新市街に移り住んだのは、サリス=エリオンの仕事の関係だった。サリスは都市警備隊で働いており、新市街の警備のため、住居を新市街に移したのだ。エリナは、母ミレーユともどもサリスに世話になっており、彼の転居にも当然のように同行した。サリスも、当たり前のようりミレーユとエリナを迎え入れており、このまま本当の家族になれる日も近いだろうと思えた。
カラン大火で父を失って一年あまり。
心の傷も癒えはじめている。
それもこれもセツナのおかげだと彼女は信じていたし、だからこそ、セツナの力になりたいと考えている。
自分はまだ幼く、なにができるわけもない。だから、いまは体を鍛え、心を磨き、立派な武装召喚師になるべく精進に精進を重ねているのだ。無論、これでは足りないこともわかっている。まだまだ足りない。こんなものでは、師に追いつくことなどできはしないのだ。
足を止めている暇はない。
そんなことを考えながら、毎朝、小犬のニーウェの散歩をしている。
ニーウェの散歩は、サリスと住んでいる家の近所を三十分散策する程度のもので、ニーウェは最初こそ戸惑い、迷っていたものの、いまではお決まりの散歩道ができていた。その散歩道を歩き終わるのがちょうど三十分くらいで、それでニーウェは満足するらしかった。起き抜けの運動にもちょうどいい気がする。エリナの日課としている自主訓練はそこから始まるのだが。
訓練と言っても難しいことをするわけではない。まだ体もできあ上がっていないエリナには無理をさせられない、というミリュウの方針によって、体力をつけることを主眼として訓練が課せられていた。それと同時並行で古代語を学び、武装召喚術の勉強も行っている。古代語は、亡父が毎日のように諳んじていたこともあって、苦もなく学べている。
そして古代語を学ぶことは、亡き父の面影を追うことにも繋がった。
サリスも好きだし、母を支え続けてくれている彼には、母と一緒になってほしいと思うのだが、一方で、父のことも愛している。そのことは矛盾しないだろう。父のことを愛し、忘れることはないが、いまを生きる母にはサリスが必要で、エリナには母が必要なのだ。そのことで父への愛、想いが薄れるようなことは、決してない。
不意に紐が強く引っ張られて、彼女はぎょっとした。ニーウェがこれほどまで強く反応を示したことはこれまでなかったのだ。新市街の見慣れぬ風景を始めて探索するときも興奮していたものだが、ここまでのものではなかった。
「ニーウェ、どうしたの?」
ニーウェという名を呼ぶのは、少し、変な気分だった。名の由来を知ってしまったからだが、知らなければ、きっとどうということもなかったに違いない。別段、奇妙な名前というわけでもないのだから。
エリナがニーウェという名に妙な感覚を抱くのは、その名がセツナを意味するものだということを知ったからだ。セツナは、一瞬という意味の言葉らしく(どこの言葉なのかは教えてもらえなかったが)、一瞬という意味の古代語がニーウェであり、セツナがたまに使う偽名なのだというのだ。小犬にニーウェと名付けたのはミリュウであり、偶然ではなく、セツナがニーウェという偽名を使っていることを知ったからそう名付けたらしい。
つまり、ニーウェと呼ぶと、セツナを呼び捨てにしている気がするのだ。
それが奇妙な感覚の正体で、だからエリナは極力ニーウェの名を口にすることはなかった。だが、いま、ニーウェが力強く前進するのを見ていると、声をかけずにはいられなかったのだ。
彼は前方になにかを発見して興奮しているようだった。そして、興奮のあまり全力で走り始めたため、エリナは紐を手放してしまった。強く握りすぎていたことが仇になった、というべきかもしれない。緩急のついた動きについていけなかった。
「あ、待って!」
エリナは慌ててニーウェを追った。首輪に結び付けられた紐を引きずりながら、ニーウェは疾走する。小さな黒い毛玉のどこにそれだけの力があるのかと思うほどの速度で走っていく。エリナは見失わないようについていくだけで精一杯だった。やがて、紐の移動が止まる。ニーウェが足を止めたのだ。見ると、小犬が見知らぬひとに飛びついていた。息を切らせて駆け寄る。
「駄目だよ、ニーウェ!」
ニーウェはエリナの声など無視して、その通行人に尻尾を振り、じゃれついている。
「ん?」
「だれ、この子。知り合い?」
「ここはガンディオンだよ。そんなこと、あるわけがないだろう」
「そうだけどさ、ニーウェって」
「……この犬の名前じゃないか?」
通行人はふたり組だった。若い男と小柄な女の組み合わせで、恋人同士なのかもしれないと思えたのは、仲睦まじく見えたからだが。黒髪の男は、足にしがみつくニーウェに対し、困ったような素振りを見せている。エリナは地面に落ちていた紐を拾い、慌ててニーウェを引き寄せた。
「ご、ごめんなさい! うちのニーウェが迷惑かけて!」
ニーウェはいまだ興奮状態で、エリナに強く引っ張られたことを猛抗議するかのように吠えてきた。甲高い吠え声は、あまり吠えることのないニーウェらしくないものといっても過言ではない。
「迷惑なんてかかってないから、大丈夫だよ」
男は、穏やかに笑いかけてきた。その穏やかなほほ笑みを見た瞬間、エリナははっとなった。濡れたような黒髪に血のように赤い目が特徴的な青年。青年というには幼すぎるきらいはあるが、エリナから見れば青年としかいいようがない。目鼻立ち、顔の輪郭、背丈、体格、なにもかもが彼女のよく知る人物に似ていた。
「あ……」
「それにしても、その子、ニーウェっていうんだね?」
「お兄ちゃん?」
エリナは、つい、そう呼んでしまった。エリナがそう呼ぶのは、この世でただひとりしかいない。エリナを絶望の淵から救ってくれたただひとりの人物。彼だけがエリナにとってのお兄ちゃんであり、彼だけが、エリナにとっての生きる希望だった。光なのだ。だから、エリナはその光に向かって生きていく。
その光源たる人物とまるで同じ姿をした人物が、目の前にいた。
「やっぱり知り合いなんじゃん?」
「どうしてそうなるんだ」
「だってこの子、ニーウェを見て、お兄ちゃんって」
「俺は末っ子だよ。妹なんていないし、いたとして、こんなところにいるはずがないだろう?」
「そうだけど」
聞けば、声もまったく同じで、違うといえば、声音の柔らかさくらいだった。しかし、彼はセツナではないらしいことが、彼と女の会話の中から理解する。
「お兄ちゃん……じゃない?」
「うん。俺は君の兄さんじゃないよ」
彼はそういって、その場に屈みこんだ。ニーウェが彼に駆け寄るのを止められないのは、呆然としているからだ。別人だとすればあまりに似すぎている。そっくりそのまま、鏡写しにしたかのようだった。しかし、彼がセツナではないというのは、完全に理解できる。
セツナが目の前にいれば、エリナは自分を見失うほどに興奮するからだ。
目の前のセツナと同じ姿をした人物には、心を揺さぶられることはなかった。それこそ、セツナと彼が同一人物ではないという証明になるだろう。ニーウェには、わからなかったようだが。
つまるところ、ニーウェが興奮して飛び出したのは、セツナだと想ったからに違いない。ニーウェは長らくセツナたちの元にいたのだ。本来の主に再会したとなれば、興奮するのもやむなしといったところだろう。
「君の兄さんに似ているのかな?」
「うん……そっくり」
「へえ」
彼が興味深気な表情を浮かべる。どこか静けさを湛えた青年は、それだけで不思議に感じられた。セツナとは、まるで正反対だからだ。まったく同じ姿をしながら、その言動も感じるものもまるで違う。違和感を覚えるのも当然なのだろうが。
むしろ、まったく違うからこそ、混乱が最小限で済んでいるとも思えた。
彼は、小犬のニーウェを撫でながら、話しかけてきた。
「君のいうお兄ちゃんっていうのは、もしかして、セツナ伯のことかな?」
「そうだよ! セツナお兄ちゃん!」
威勢よく肯定すると、彼は女性と顔を見合わせた。それから、もう一度こちらを見る。横顔も正面から見た顔もセツナそのもので、だから、エリナは多少混乱を覚える。姿形も声も同じ。やはり、変な感じがした。
「つまり、君の兄なのかい?」
「違うけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんだから、そう呼んでるの」
「なるほど」
セツナと同じ顔をした別人は、にっこりと笑って納得顔をした。
「つまり、ニーウェの探し相手の知り合いってわけね。その知り合いが混乱するんだから、やっぱり似すぎなんだって」
「探し相手? それにニーウェって」
「ああ、俺の名前、ニーウェっていうんだよ」
「この子と同じ名前だね」
そして、セツナの偽名と同じ名前でもある。
不思議なこともあるものだ、とエリナは思う。胸騒ぎがした。彼女の目の前でニーウェと戯れている人物は、セツナのことを聞いてきたのだ。セツナは有名人で、ガンディア国内で知らないひとがいないほどなのだが、エリナとセツナの関係性に興味を持つということは、セツナに関心があるのではないか。
その関心が物事を悪い方向に運ぶ気がして、エリナは、そっと胸に手を当てた。
「そうだね。妙な縁を感じるよ」
ニーウェは、小犬のニーウェをひとしきり撫でたあと、ゆっくりと立ち上がった。
「同じ魂、同じ姿の持ち主がいる場所に、同じ名前の犬がいるなんて、不思議なこともあるものだ」
彼の発した言葉の意味はわからなかったものの、エリナの中の漠然とした不安が急速に増大して行くのは間違いなかった。
悪い予感がした。