第千八十六話 新市街の噂
セツナは、隊舎の広間に集まった皆に、レオンガンドから聞いた噂についての話をした。
噂というのは、ガンディオン新市街で、ルシオンにいるはずのセツナを見かけるというものだった。まったく見に覚えのない、根も葉もない話だとセツナは答えたし、それはレオンガンドもよく理解していた。
セツナは、つい先日までルシオンにいて、隊の仲間や配下のものたちと行動を共にしていたのだ。そのことはセツナが証言するまでもなく、レオンガンド側でも把握していた。でなければ、セツナたちとルシオン、ワラルまで口裏を合わせていることになる。
ルシオンはまだしも、ワラルがセツナの極秘行動の援護をする理由がない。理屈に合わないことだ。
まだしもとはいったが、ルシオンがセツナと口裏を合わせるのも奇妙な話であり、道理に合わないことだった。確かに援軍にセツナを要請したのは、ルシオンであり、ルシオンがなにかを企んでいたのなら話は別だが、喪に服している最中にそのようなことをするはずがない。そも、ルシオンがガンディアを裏切る必然がなく、また、セツナがレオンガンドの意に反するようなことをするわけがない。
だからこそ、奇妙なのだ。
しかも、多数いる目撃者の証言によれば、セツナと似た人物ではなく、セツナがいた、というのだ。濡れたような黒髪に血のような赤い目を持ち、背格好もセツナと同じくらいで黒ずくめという出で立ちは、セツナ以外のなにものでもなかった、というのだ。不審な点があるとすれば、そのセツナが王都市民にとって見慣れぬ人物と一緒にいるということであり、そういう目撃情報に尾ひれがつき始めているという。
その尾ひれのひとつが、セツナがなにかを企み、新市街に隠れているのではないか、というくだらないものだが、英雄が任務を放棄して新市街をさまよっているとなると、そうもなろう。
「つまり、セツナの偽者がいた、というわけね?」
ファリアが結論をいった。
「まあ、そういうことだ」
「陛下はなんて?」
「噂の正体を俺たちで突き止めろ、とさ。いまのところ実害は出ていないものの、今後どうなるかはわからないからな」
「それはわかるけどさ、でもなんでセツナが調べなきゃなんないの? 都市警備隊とか総動員すればいいんじゃ?」
ミリュウがいってきたそれはセツナが抱いた疑問であり、レオンガンドにした質問でもある。新市街で目撃情報が数多く出ているというのなら、都市警備隊を動員すれば、すぐにでも捕まえられるはずだった。だが、それはできない、とレオンガンドはいった。
そんなことをすれば、大事になる。
セツナはミリュウを見て、口を開いた。
「俺にそっくりだったっていっただろ」
「そうだけど……」
「都市警備隊が俺を追いかけてたら、悪い噂が立つかもしれないし、大騒ぎになるのは間違いないからな」
それこそ、王都始まって以来の大騒動にだって発展しうる。大騒動の原因がセツナとなれば、問題はガンディア全土に波及するかもしれない。もちろん、捕まえてしまえば、それが偽物だと断定されれば、問題もすぐに収束するかもしれないが。
「なるほど」
「確かにね。君を見たことがあるひとたちが、君だったっていうんだから」
「であればこそ、放置しておくこともできないというわけなのでございますね?」
「悪事を働かないとは限らないものね」
「なんのために?」
「そりゃあ、大将の評判を落とすためだろ?」
椅子を後ろ向きにして、背もたれを抱えるようにして座っているエスクが、皮肉げに笑った。
「英雄サマの評判が地に落ちれば、ガンディアの評判も地に落ちる。そうなればいまのいままでガンディアに従っていた国も敵に回るかもな」
「まさか」
「英雄で持っているガンディアのいびつな構造が裏目にでるってこってすよ、大将」
「セツナの評判が落ちたところで大勢にそこまでの影響はないわよ」
ファリアがにべもなく告げると、エスクは肩を竦めた。ファリアの後ろから、ミリュウが彼を睨み付けていたからもあるだろう。どうやら、ミリュウとエスクの相性はよくなさそうだった。
「ただ、彼のいうようにセツナによく似たその人物が、セツナの評判を落とすために悪行の限りを尽くせば、その限りじゃないわね」
ファリアが、冷ややかに言葉を続ける。
「陛下もセツナを庇えなくなれば、ガンディアはセツナを使えなくなるかもしれないでしょ?」
「そういうもの?」
「そういうものよ。そして、陛下はきっと、そういうことになるのを恐れているのよ。だから、セツナ自身で偽物を検挙して欲しいのかもしれないわ」
「なるほどな。英雄も大変だ」
とは、シーラ。ファリアが同意を浮かべる。
「そうね」
そんなふたりのやり取りに、広間が一瞬、静かになる。妙に寒々しい空気が流れ始めるのを見て、セツナは咳払いをした。
「ともかく、明日からは隊を上げて新市街を捜索することになる。目的はもちろん、俺によく似たその人物を捕まえることだ。たとえなにもしていなくとも、だ」
罪があろうとなかろうと、セツナと同じ姿をした人間を新市街に放置しておくことなどできるわけがない。拘束し、正体を突き止め、その上で措置を決める、という。場合によっては、セツナの影武者にする、というのもありだと考えているらしい。セツナは、ガンディアにおいて政治的にも軍事的にも重要な人物であり、命を狙われる危険性もある(実際に狙われたことがある)。影武者のひとりでもいれば、安心感も違う、ということだ。が、もちろん、それはセツナによく似たその人物次第だ。
「隊……ってことは、《獅子の尾》だけですか?」
「俺たちは?」
シーラの不満そうな顔に対し、エスクは満面の笑顔だった。
「俺たちは休んでいいってことですね、やったー」
「喜んでいるところ悪いが、当然、おまえたちも使うぞ」
「ええ!? そんな殺生な!?」
「いや、当然だろ」
セツナが憮然とした顔で告げると、エスクはわかっていたとばかりににやにやした。
「わかってますってば、大将。俺ァ、別に休みたがりじゃないんでね。むしろ、働きたくて働きたくて仕方がない類の人間なんすよ」
「腐ってたもんな」
シーラが口を挟むと、エスクは乾いた笑いを浮かべた。
確かに、エスクは腐っていた。シーゼルの酒場で、明日の行き先もわからず、酒に溺れ、酩酊状態で日々を過ごしていたという。エンドウィッジの戦い以降、シドニア傭兵団が解体同然になり、なんとか残党を集めたものの、団長代理としてもうまくやっていけずにいた。彼が多少なりとも活力を取り戻したのが、シーラがアバードに戻ってきたことを知り、シーラとアバードへの復讐心に目覚めたからだというのは、皮肉というべきか。
それ以来、エスクは、酒に溺れていた日々を忘れるようにセツナとシーラに付き従った。いや、付き従うふりをしていたのだ。
ラングリード・ザン=シドニアを奪ったシーラとアバードへの復讐。
それがエスク=ソーマの生きる希望となり、彼を戦いに駆り立てるものだったのだ。
復讐は、果たせたといるのかどうか。アバードは、彼の望んだ通りに大混乱に陥り、ガンディアに支配されるに至った。シーラは絶望の果てに九尾の狐と化して、破壊の限りを尽くした。シーラはすべてを失ったといっても過言ではなかった。
溜飲は、下がったのだろう。
戦後、エスクとシーラがそれなりの距離感を保ちながらうまくやっているところを見ると、そういうことらしい。
シーラはシーラで、エスクに複雑な感情を抱いてもいた。エスクたちシドニア傭兵団の傭兵たちが尊敬して止まないラングリードを見殺しにしたも同然なのだ。彼女にはほかに道がなかったとはいえ、その事実を消し去ることはできない。少なくとも、シーラのように責任感が強く、なにもかもひとりで抱え込もうとする性格の持ち主は、そういったことさえ自分のせいだと考えてしまうものだ。エンドウィッジの戦いを始めたのは、シーラではない。シーラはむしろ、王宮との戦いを避けたがっていたのだ。が、止められなかったのもまた、事実だ。その事実に責任を感じている。エンドウィッジで散った命は多く、数えきれない。アバードの優秀な軍人の多くが、シーラ派として散り、あるいは処刑された。シーラにとって大切なひとたちもだ。
エンドウィッジの戦いさえ止めることができれば、だれも死なずに済んだのではないか。
シーラが思い悩むのもわからなくはない。
しかし、きっとどうあがいても止められなかったのだろう、とセツナは考える。
ひとひとりの力ではどうすることもできない状況にまで発展していたのだ。シーラだけでは、シーラとその周囲の力だけでは、エンドウィッジの戦いを避けること、止めることはできなかったのだ。
情勢が動き出せば、そうなる。
レオンガンドがセツナの偽物の拘束に拘っているのは、そういうこともある。偽物がセツナの悪評を立て、世間を騒がせ、セツナを追い詰めるような状況が生まれれば、レオンガンドの力を持ってしても抑えきれなくなるかもしれない。
そういう恐れが、レオンガンドを突き動かしているのだ。