第千七十一話 ルシオンへ
ルシオン。
ガンディアと長らく同盟を結ぶその国のことを、セツナは、ほとんど知らなかった。
ルシオン王家が統治運営する国だということは、知っている。
国王は、ハルワール・レイ=ルシオンという。話によれば、ガンディアの先の王シウスクラウドとは盟友であったらしい。
ハルワール王の息子であり王子であるハルベルク・レウス=ルシオンとは面識もあり、話したこともある。ハルベルクはレオンガンドの盟友であり、義弟ということもあってか、ガンディアの戦いによく参加した。同盟国であるルシオンにとって、ガンディアの躍進ほど頼もしい物はないということもあったのだろう。
それに、ハルベルクの妻、つまり王子妃はレオンガンドの妹でありガンディアの王女であったリノンクレアだということも、大いに関係している。リノンクレアがハルベルクの元に嫁いだのは、ガンディアとルシオンの紐帯を強くしようという意図があったからだ。いわゆる政略結婚であったものの、ふたりの結婚は、両国の国民に広く祝福され、ふたりの仲は両国民が羨むほどに睦まじいものだった。実際、セツナが見た限りでも、ハルベルクとリノンクレアの関係は良好そのもので、政略結婚がどうとか、そういうことを一切想像させないだけの力があった。
ともかく、ふたりの結婚によって、ガンディアとルシオンの絆が深まったのは事実であり、ガンディア、ルシオン、ミオンの三国同盟の中でも、ガンディアとルシオンの距離感が極めて近くなったという。その成果がルシオンによる度重なる援軍であり、ガンディアが戦いを起こすたびに、ハルベルクとリノンクレア、白聖騎士隊という戦力がルシオンから派遣された。そして、ガンディアの勝利に貢献してきたことは、よく知られた話だ。
ガンディアは、援軍を送られていてばかりで、ルシオンへの借りが増大する一方だった。
借りは、いずれ返さなければならない。
同盟国である以上、当然のことだ。
同盟国であり、対等な立ち位置にあるのが、ガンディアとルシオンなのだ。その関係が崩れるようなことがあってはならない。たとえガンディアの国土が膨れ上がり、国力が増したとしても、ルシオンとの関係が変わるようなことはないのだ。
少なくとも、同盟国として対等な関係を結んでいる以上は、そうあらなければならない。
でなければ、信用を失うことになる。
信用を失えばどうなるか。
いかにガンディアが大国となり、圧倒的な軍事力を誇るとはいえ、近隣諸国すべてを敵に回せばひとたまりもなくなる。セツナはひとり、《獅子の尾》は一部隊でしかない。ガンディア全土を護ることなど不可能なのだ。
信用を失った途端そうなるわけではないにせよ、そういったことの積み重ねが最悪の事態を生む。故に、信用が必要であり、侵攻のためには大義が必要なのだ。義もなく戦を起こせば、信用を失うだけのことだ。
「そのルシオンへの借りを返すときが来たということだ」
レオンガンドが、いった。
《獅子の尾》のルシオンへの派遣の理由が、それだ。ルシオンの度重なる援軍へのお返しとして、ガンディアの最高戦力である《獅子の尾》を派遣するというのだ。
「ハルワール陛下が亡くなられたことは、聞いているな?」
「はい」
「陛下の国葬が無事に終わり、ルシオンはいま、喪に服している。喪が開けるまで、軍事行動などは慎むのが世の習いだ。ルシオンもその倣いに従うという。だが、喪に服するのは、ルシオンだけだ。当然だな。近隣国には関係がない。喪に服し、軍事行動を謹んでいるいまこそルシオンに攻め込み、領土を切り取る好機だと考える国があったとしても、不思議ではない。ログナーがそうだった」
レオンガンドのいうログナーとは、シウスクラウドの死後、ガンディアが喪に服している隙をついてバルサー要塞に攻め寄せ、制圧したことをいっているのだろう。ログナーがバルサー要塞を制圧できたのは、クオンがログナー軍に与したからであり、ガンディア軍が喪に服していたことが最大の理由ではないようだが、問題はそこではない。
ルシオンが、ガンディアと同様、他国に付け入る隙をみずから生んでいるということだ。
「現在、ガンディア方面軍の第三、第四軍団がルシオンに入っている。が、それだけではルシオンのこれまでの働きに応えられぬだろう。よって、《獅子の尾》を派遣することを決定した」
「我々にルシオンの防衛に務めよ、と?」
「……ルシオンの領土に興味を示している国は、そう多くはない。そもそも、ルシオンにはガンディアという強力な後ろ盾が付いているのだ。ルシオンに攻め込むということは、同盟国であるガンディアにも敵対するということにほかならない。そうである以上、迂闊には手を出せまい。ガンディアと敵対することを恐れないのなら話は別だがな」
レオンガンドの口ぶりでは、そのような国はルシオンの近隣には存在しないといっている風に見えた。
「かといって、ハルベルク殿下の要請を無碍に断ることもできないのでな」
「殿下の要請……」
「ああ。ハルベルク殿下直々の用命なのだ。君と《獅子の尾》を借りたい、というのはね」
「なぜ、我々を?」
「ハルベルク殿下のことだ。我が国が誇る最高戦力を借り出すことで、ガンディアの貸しを帳消しにしてくれるつもりなのだろう。もちろん、君らが援軍に来てくれれば、ルシオンの領土を狙っている国があったとしても、二の足を踏み、思い止まると考えてもいるのだろうがな」
レオンガンドがほくそ笑んだのは、ハルベルクの思考を読みきったという自信があるからだろうか。レオンガンドとハルベルクは義理の兄弟だが、そういう間柄になる前から親しい関係だったという。そのことは、レオンガンドとハルベルクの親しげな様子からも伝わってきていた。
「なに、戦闘が起きることはあるまい。ルシオンでの観光旅行とでも思えばいい」
「はあ……それでいいんでしょうか?」
セツナは、レオンガンドの軽い口調に困惑した。
「《獅子の尾》に君の愉快な従者たち、黒獣隊、それからシドニア傭兵団がついていくのだろう?」
「ええ。その予定です」
「なら、ルシオンに攻め込むような国はあるまい。ガンディア最強部隊が大戦力を連れていくのだ。そんな国に喧嘩を売るなど、酔狂にも程がある。たとえ戦いが起きたとしても、小競り合い程度だろう」
レオンガンドの楽観的な物言いは、とてつもなく能天気で、レオンガンドらしくなかった。レオンガンドといえば慎重で、思慮深いという印象が強い。行動を起こすとなれば電光のような速さを見せるのだが、そうでないときは、常に深く物事を考えているようなところがあり、軽はずみな言葉を発することはなかったはずだった。
しかし、だからだろう。
レオンガンドの楽観的な言葉が、セツナの気を楽にしてくれていた。
アバードでの長い戦い(戦いそのものは大きなものではなかったとはいえ、彼とシーラにとっては長期に渡る潜伏は戦いそのものだった)が終わったと思った途端、ルシオン行きを命じられたのだ。息つく暇もないままつぎの戦いとなれば、それはもちろんやるだけのことはやるにせよ、疲労も蓄積するだろうし、その結果不測の事態に陥ることだってありうる。
アバードからルシオンまで長距離移動。移動の間、ほとんど休んでいるのと同じとはいえ、休息と移動は別物だ。
それに馬車の旅も快適とは、言いがたい。
なんにせよ、セツナはレオンガンドからの説明を受けて、気持ち、楽に考えるようになった。ルシオンに赴き、ハルベルクの指示に従えばいいだけのことだ。レオンガンドのいうように、ガンディア最強部隊《獅子の尾》が参上したとあらば、喪に服している隙を狙わなければ攻め込めないような国が、立ち向かってくるとは思い難い。
戦いは起きないだろう。
(起きたとしても小競り合い、か)
謁見の間を辞したセツナは、皆が控えている部屋に向かいながら、レオンガンドの言葉を反芻した。
しかし、考えるのは、ルシオンのことではなく、アバードのことだ。
アバードは、ガンディアの支配下に入った。ガンディアの領土ではなく、ベレルと同じ属国として、支配下に組み込まれたのだ。それについては、レオンガンドのほうでも了承済みのことであり、ガンディアがアバードの制圧に乗り出すようなことはないとの話だった。そんなことをすれば、近隣諸国の不信を買い、敵を増やすことになりかねない。わかりきったことだったが、レオンガンドからアバードの立場が保証されたことに、セツナは安堵した。
アバードの国王には、セイル・レウス=アバードがなるということも話した。ガンディアは、シーラを女王とするために戦ったが、シーラが王都破壊とアバードに混乱を招いた責任を取ったため、女王シーラの誕生は実現できなかったことも告げた。
そのシーラがセツナの配下に戻ったことには、レオンガンドも驚きを禁じ得なかったというが、セツナも驚いたことではあった。シーラは、アバードに残るものだとばかり想っていたからだ。だが、シーラがアバードにいられないという考えもわかったため、受け入れ、彼女と彼女の元侍女たちを黒獣隊として再び迎え入れることとしたのだ。
シーラの立場もまた、保証された。
アバード王家を離れ、行き場を失った彼女をガンディア国民として受け入れるという運びになったのだ。シーラがそれを望んでいるかはわからないが、ガンディアの領伯であるセツナの配下となるのならば、ガンディア国籍になることが望ましい。もとよりそのつもりではあったのだが、手続きを済ませる前にアバードの騒動があったため、先延ばしになっていたのだ。そして、アバードの騒乱が片付いたことで、宙に浮いた。シーラがアバードに残る可能性が高かったからだが、彼女がアバードを離れ、セツナの元に戻ってくるというのであれば、ガンディア国籍を取得するための手続きを行う必要があるということだ。
レムがそうであったように、だ。
エスク=ソーマたち元シドニア傭兵団の連中も、セツナの配下となるということで、ガンディア国籍を取得しなければならないが、そちらも特に問題はないだろう。エスクたちは、セツナの配下になることを了承し、ガンディアまでついてきたのだ。ガンディアに属することになることくらい、理解しているだろうし、でなければ、セツナの配下になろうとは思うまい。
シーラやシドニア傭兵団の扱いについては、セツナに一任された。
『想うままにせよ。君は領伯で、ガンディアの英雄だ。ある程度好き勝手に動いたところで、だれも文句はいえまいよ』
レオンガンドのそんな言葉が心強かった。
思うままにした結果、アバードの騒動に首を突っ込み、ガンディアを巻き込んでしまったが、結果だけを見れば、ガンディアとしても悪いことにはならなかったのだ。だから、そうもいっていられるのだろう。これがもし、ガンディアにとって悪い結果となれば、セツナは厳しく追求され、その立場も危ういものとなっていたかもしれない。
セツナは、レオンガンドの言葉を心に刻むとともに、ガンディアにとって最良の判断を下すことを心がけようと思ったのだった。