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第百六話 魔人の夢、両極の力

 吹き抜ける風の音に目を開くと、見慣れた町並みが視界を埋めた。通い慣れた通学路。車道を行き交う自動車が、ここが生まれ育った世界なのだと思い知らせるようだ。

 あの世界には自動車なんて存在しないし、排気ガスが漂うこともない。行き交うのは馬車であり、舞うのは砂埃だ。空気が違った。

 空の青さも、雲の白さも、なにもかもが違う気がする。いや、気のせいではないはずだ。人類に汚された世界と、

「……戻ってきた?」

 極めて現実的な感覚はある。だが、実感はない。そもそも、どうやって戻ってきたのかもわからないのだ。

 セツナは、わけもわからぬまま、自宅に向かっていた。ここが元の世界なら、母がいるはずだ。

(母さん)

 そう思うと、無性に逢いたくなった。たったひとりの肉親。一月程度なのに何年も逢えていない気がした。

 駆け出していた。何人か、顔見知りとすれ違ったが、セツナの足は一向に止まらなかった。止めようがないのだ。

 帰りたい。

 帰って、母の顔が見たかった。それだけでいい。それ以上の望みはない。いや、もう一度この世界で過ごせるならそれに越したことはない。

 戦いの中にしか自分の居場所のない世界で生きていくのは、苦痛以外のなにものでもない。血と死に彩られた闘争だけでは、心が壊死していくだけだ。

 だから、もう一度、あの優しい母に逢いたかった。

 家に着いた。こじんまりとした一軒家だったが、母と子のふたりで暮らすには十分過ぎるほどの広さがあった。白亜の家の外観を見ただけで懐かしさが込み上げてきた。

 迷いもなくドアを開け、靴を脱ぎ捨てて家に上がる。廊下を歩いていると、奥から小気味よい音が聞こえてきた。包丁がまな板を叩くあの音だ。近づくと、鼻歌まで耳に届いた。

 母が、いつものように楽しげに料理をしている。想像すると、いてもたってもいられなくなった。

「母さん、ただいま!」

 台所に飛び込むと、セツナは叫ぶようにいった。こちらを振り返った母が、少し困ったような笑顔を浮かべる。懐かしい、いつもの笑顔だ。意味もなく目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。

「おかえりなさい、セツナ」

 母の声は優しく、心まで包みこまれるようだった。懐かしい声。ずっと聞きたかった。もう二度と聞くことはないと思っていた。戻ってこられるはずがないと決めつけていたのだ。

「どうしたの、なにがあったの?」

 母が、包丁を置き、手を洗いながらこちらの顔を覗きこんでくる。セツナは涙を拭うと、なんでもないよ、と笑ってみせた。母には泣き顔なんて見せたくはなかった。悲しい涙ではなくとも、心配をかけたくなかった。いや、沢山心配させてしまったかもしれない。異世界で過ごした一ヶ月の間、連絡を取る手段なんてなかったのだ。

「でも、怪我してるわよ? だいじょうぶなの?」

「え?」

「ほら、手から血が出てる」

 母に指摘されて、即座に手を見た。両方の手の平が、赤黒く染まっていた。血だ。濃密な血の臭い。むせ返るような戦場の空気が、あっという間に鼻腔を満たす。自分の血ではないのは、痛みがないことでもわかる。だが、血は乾いてもいない。セツナは声を失った。

 後ずさる。手の平を服で拭っても、血は落ちなかった。それどころか、衣服が汚れただけだった。

「違うんだ……これは違う……」

 なぜ言い訳をしているのか、自分でもわからなかった。母に誤解されたくない。いや、誤解じゃない。ひとも魔も、殺してきたのは自分だ。自分の意志で、殺戮を繰り返した。敵を斬り裂き、屠り、戦場に血の花を咲かせてきたではないか。だからあの世界で居場所を確保できたのだ。王宮召喚師にして《獅子の尾》隊長という地位を得たのだ。なにも文句はないはずだ。それでよかったはずだ。そこに喜びを見出し、レオンガンド王に忠誠を誓ったのではなかったか。

「母さん!」

 気づいたら、叫んでいた。けれど、目の前は真っ暗で、なにも見えなかった。

 夜の闇と、静寂が横たわっている。

「なんだ……」

 もはや見慣れた光景だった。ルクスの猛特訓に疲れ果てた体は、夜中に痛みを訴えて目を覚まさせるのだ。視界に入ってくるのは暗闇で、王都の夜の静けさが身に沁みるようだ。

 闇の中、目が慣れてくることでわかるのは、《獅子の尾》隊の隊舎の二階にある、セツナの寝室だということだ。過ごした時間は短く、まだ居心地の悪さを感じる。微妙な疎外感。ベッドやテーブルの他人行儀な素振り。無論、無機物にそのような感情があるとも思えないが。

 だが、その違和感こそが、この世界にいるという現実を思い知らせるのだ。

(夢か……)

 胸中でつぶやくと、目頭が熱くなった。理解のできない感情が渦を巻き、セツナの心を波立たせる。夢とはいえ、久し振りに母の顔を見ることができたのは幸せだった。それは間違いない。だから、あれが夢だったことが残念であり、同時に安堵してもいる。

 あの夢が現実だったなら、自分は母になんと説明したのだろう。血に汚れた手で、母に触れることなどで来ただろうか。

(できるかよ)

 セツナは、夢の中に消えた母の笑顔を思い出した。母は元気でやっているだろうか。心配しすぎて体調を崩したりはしていないだろうか。どうせなら恋人でも作って陽気にやってくれているほうがいい。そんなことを考えた。

 もうあの世界には戻れないことがはっきりとわかって、漠然とした寂しさが襲ってくる。戦争のせの字もない平穏な日常には戻れない。この手は血塗られてしまったのだ。何人殺しただろう。考えるだけで気が狂いそうになる。それでも、戦場に出れば敵を殺すしかない。目の前の敵を殺すことが、自分に与えられた使命なのだ。

 その使命を全うした先になにがあるのかなど考えている余裕はなかった。この世界における居場所を守り続けるために、敵を殺すことだけに集中していればいい。そしてそれは、あの懐かしい日常への回帰を諦めるということにほかならなかった。

(覚悟したはずだろ)

 胸中で吼えたところで、喪失感は消えない。なにもかもいまさらだといったところで、そう簡単に割り切れるものでもなかった。夢に見てしまったからだろうということもわかっている。夢さえ見なければ、こんな想いも抱かずに済んだのだろうか。

「なにを泣いている。怖い夢でも見たか?」

 突然の声に、セツナははっとなった。腕で涙を拭う。いつの間にか泣いていたらしい。それから上体を起こし、視線を巡らせた。いつの間にか、室内に月光が差し込んでいる。そんなことにも気づかないくらい夢想に集中していたということだが、迂闊にもほどがあった。とはいえ、反省はあとだ。窓を開けた犯人を探すほうが先決だろう。

 もっとも、相手はすぐに見つかった。

 女は、窓枠に腰掛けていた。月明かりに曝された髪が、燃える炎のように揺れている。長い足が影になって浮かんでいる。夜風が運ぶ女の匂いに、彼は顔をしかめた。香水とは違う、濃密な薫りに酔いそうになる。

「別れを済ませただけだ」

 セツナは憮然とした。無理やり起こした体の節々が悲鳴を上げてくるが、黙殺して表情にも出さなかった。彼女に付け入る隙を与えたくはない。

「そうか」

 女は、別に笑いもしなかった。月光を浴びる横顔は、見れば見るほど美しいと思ってしまう。絶世の美女といっていいのだろう。彼女に比肩する美貌の持ち主を、セツナは知らなかった。世界中を探せばどこかにいるのかもしれないが、そんなことは問題ではない。その芸術品のような横顔を見ているうちに、頭がぼうっとしそうになることのほうが問題だった。頭を振る。彼女の魅力に惑わされてはいけない。

 アズマリア=アルテマックス。セツナをこの世界に招待した人物であり、魔人の異名を持つ武装召喚師。ここガンディオンで皇魔おうまの群れをけしかけられたのは、一月ほど前のことだ。しかし、セツナはいま、彼女に敵意を向ける気にはなれなかった。夢を見たせいだろう。

 あの夢は、闘争心を鎮める力があった。

 セツナは、痛みに負けて寝台の上に横になった。痛みは、訓練の成果だ。今日のルクスは、いつにもまして手厳しかった。痣ができるのはいつものことだが、ここまで痛めつけられるのはめずらしいことだ。気でも立っていたのかもしれない。もう少し上手くやれないものかといつも思案するのだが、どうにも、彼の動きについていけないのだ。ルクスが“剣鬼”と恐れられる所以を垣間見ている、そんな日々を送っている。

 夜風が、熱を帯びた体に優しい。

「もう戻れないってことがわかったんだ」

 セツナは、静かにいった。彼女が聞いていようといまいと関係ない。ただのひとりごとだ。自分に言い聞かせているだけだった。

「俺の生まれ育った世界にさ。たとえ戻ったとしても、居場所がないってわかった。俺の住んでいた場所は、表面上は平穏で、安寧があったんだ。戦いに明け暮れるいまの俺が汚していい場所じゃないんだ。壊していい場所じゃない」

 青白い月明かりは、セツナの心を包み込むかのように柔らかく、穏やかだ。闇を圧倒するでもなく、支配するでもない。ただあるがままに光を与えてくれる。手をかざす。傷だらけの手には、血の跡はなかった。夢の中のような有り様にはなりようがない。

「この世界で生きていく覚悟を決めたわけか」

「とっくに決めていたはずなんだよ。それを再確認できたってこと」

「良かったじゃないか。これで未練に惑わされずに済む」

「他人事だな。あんたのせいなのに」

「わたしは門を開いただけ。潜ってきたのは君だ。わたしは君を無理やり連れてきたわけではないよ」

 アズマリアは、嘲笑いさえしない。淡々と事実を突きつけてくるだけだ。そのほうが馬鹿にされるより余程堪えることを知っているのだろう。もっとも、いまのセツナにはそのような小細工は通用しなかったが。

「わかってるさ……そんなこと」

 空から降りてきた門を目撃したことが、すべての始まりだった。あの門に興味を持たなければ、別の誰かが召喚されていたのだろうか。

 アズマリアの召喚武装ゲートオブヴァーミリオン。この世界と異世界と繋ぐ魔法の扉。その門を通って、皇魔が現れたこともあった。

「あんたの《門》でも、俺を元の世界に戻すことはできないんだろ」

「それは前にもいったはずだが……もう少し詳しく教えてあげようか?」

 彼女がやけに親切なのは、なんの前触れだろう。

「武装召喚術による召喚物は、召喚者の意志で送還できる。だが、君たちはわたしの召喚物によって召喚された物体だ。わたしの意志では送還できない。《門》を使えば、別の世界へ移送することはできる。が、どこに繋がるかは保証できない」

「“たち”……ね」

「クオン=カミヤは、君の知り合いなのだろう? 彼は、君のことを知っていたよ」

 セツナは、堪らず跳ね起きた。痛みは感じないほどに、女の話に集中している。クオン=カミヤの名を出されれば、そうならざるを得ないのだ。彼の名は、こちらに来てから今日に至るまで何度となく耳にしてきた。傭兵集団《白き盾》の団長であり、無敵の盾を召喚する武装召喚師。そして、セツナが奪還に一役買ったバルサー要塞を陥落させた要因。

 胸の奥がざわめいた。

「やっぱり、俺の知ってる久遠なのか?」

「さて。実際会って確かめてみたまえ。彼が勘違いしているのかもしれない。そもそも、わたしは君たちを同じ世界から召喚しようとして召喚したわけではない。同じ世界に繋げようと思って繋げられるものではないし、わたしの定めた召喚条件に適うかどうかもわからない」

「その条件に引っかかったのが、あいつであり、俺ってことか」

「そういうことだ」

「条件ってなんだよ」

「世界を救う力」

「はっ……」

 セツナは取り合わなかったが、彼女は本気だったらしい。静かに続けてくる。

「わたしはね、セツナ。この世界を取り戻したいのだよ」

 声の調子は、真剣そのものだった。

「この世界を支配するものがいる。理不尽な力で、運命をねじ曲げようとしているものたちがいる。ひとならざるそれらと対峙し、戦うためには、とてつもなく強大な力が必要なのだ。例えば無敵の盾のような絶対的防御力。例えば最強の矛のような圧倒的攻撃力。そういった力を見出し、導くために、わたしは存在しているといっても過言ではない」

 いってから、アズマリアは苦笑した。

「まさかこんなに早く両極の力が揃うとは思わなかったがな」

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