第千六十五話 レムと黒仮面
「御主人様」
レムが改まって話しかけてきたのは、四台の馬車からなる一団が、アバードとガンディアの国境を越え、ガンディア領ザルワーン方面に入ってからのことだった。
アバード王都バンドールからシーゼルに至り、シーゼルではザルワーン方面軍第一軍団と別れた。ミルディ=ハボック率いるザルワーン第一軍団は、シーゼルで交代の軍団を待つことになる。
人数としては多少心細くなったものの、戦力としてはなんら問題はない。たとえ皇魔の大群に襲いかかられようとも、負傷者ひとり出さずに切り抜けられるだろうことは疑いなかった。なにせ《獅子の尾》がついているのだ。皇魔に遅れを取る《獅子の尾》ではない。
国境を越えるにはウルクザールの森を通過する必要がある。森はアバードの国境防衛拠点があるが、アバードがガンディアに降伏し、属国となった以上、なんの問題もなかった。皇魔に襲われるということさえないまま、ザルワーン方面に至っている。
極めて順調だった。
レムが話しかけてきたのは、そんなときだったのだ。
「ん?」
「ひとつ、おうかがいしたことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「いいぜ」
どうせ暇だしな、とセツナは安請け合いをした。レムのことだ。くだらないことでもきいてくるのではないかと想い、警戒もしなかったし、楽観的に考えてもいた。改まって、シーラとの間になにがあったかなど聞いてくるような人間でもない。そう考えていると、彼女は、いつになく神妙な顔つきで聞いてきた。
「御主人様は、アバード潜入中、なにかいつもと違うこと。特別変わったことをされた記憶、ございますか?」
「いつもと違うこと……? どういうことだ?」
「……御主人様がシーラ様、ラグナとともにアバードに向かわれてからしばらくしてのことなのですが、わたくし、時折、妙な感覚に襲われたのでございます」
「妙な感覚……」
「ああ、あのことね」
ファリアが納得したような顔をした。国境を越えるまでに書類仕事を終えた彼女は、荷台で揺られながら、くつろいでいる。
「知ってるのか?」
「あー、確かにそんなことあったわねー。セツナ分が不足してるってことで解決したんじゃなかったっけ?」
といったのは、ミリュウだ。理解の出来無い単語が混じっていたが、レムが彼女に反応したため、聞きそびれた。
「確かに御主人様の寝所で寝泊まりすることで回復したことは事実なのですが――」
「事実なんだ……」
「しかし、それで解決したわけではないのでございます。そのあとも同じようなことがございましたし……」
「それが、俺とどう関係あるんだ? ただの体調不良だったんじゃないのか?」
「御主人様によって与えられた仮初の命。これまで一度足りとも体調がおかしくなったことなどはなく、ましてやあのような感覚に苛まれたことなどございませぬ」
レムが、きっぱりと言い切った。彼女がそういうのなら、そうなのだろう。確かに、再蘇生後のレムが体調不良に陥っている姿など見たことはない。
「そして、御主人様を感じたのでございます」
「俺を?」
「はい」
レムが、ニコリと微笑む。
いつも微笑を絶やさない彼女だが、話している間、真剣で少しばかり不安そうな表情をしていたのだ。そんな彼女の顔に笑顔が戻ると、途端に安堵を覚える。やはり彼女には笑顔が似合った。いや、それは彼女だけではないのだろうが、とにかく、レムは常に微笑しているのだ。笑顔以外の表情をしているだけで違和感を覚えるくらいには、ずっと笑顔だった。それがレムだと認識してしまっている。
いつからだろう。
「ふむ……わかったぞ」
「なんでおまえにわかるんだよ」
セツナは頭上に目を向けたが、頭頂部でくつろぐ小ドラゴンの姿は全く見えない。馬車の荷台の屋根裏が見えるくらいのものだ。
「ふふふ……わしを甘く見るではないわ!」
「だれも甘く見てねえよ」
「なんなのでしょう?」
レムが尋ねると、飛竜はセツナの頭上で首をもたげさせたようだった。長い首が視界に入ってくる。緑柱玉のような外皮は、いつ見ても美しい。
「それはじゃな、おそらく、セツナがブソウショウカンジュツを使ったからじゃ」
「御主人様が武装召喚術をお使いになられたから?」
レムがきょとんとし、ミリュウが半眼になって告げる。
「セツナが武装召喚術を使うなんて、いつものことじゃない」
「なるほどな」
とは、シーラだ。彼女には合点のいくことだったらしい。
「なにがなるほどなのよ?」
「あのときのことだな?」
「うむ。さすがはシーラじゃな。わしの考えていることがわかるとは」
「……そういうことか」
セツナもラグナとシーラのやり取りから、彼がなにについていっているのかを把握した。そして、それならば、レムになんらかの作用があったとしても不思議ではないように思えた。
「どういうこと?」
「そうよ、どういうことよ! 隠してないで教えなさいよ! あたちたちがいないことをいいことに変なことしてたんじゃないでしょうね!」
「変なことってなんだよ……」
「んなことするかよ」
「ふたりが夫婦を演じてはいたがのう」
ラグナがぽつりと、いった。途端に荷台の中が騒然となる。ファリア、ミリュウ、レム、それにルウファまでもが盛大に驚き、仰け反った。そういえば、アバード潜入中、どうやって過ごしていたのかはなにも話していなかった気がする。
「夫婦!?」
「夫婦って、いったいどういうことよ!?」
「そうでございます! 夫婦!?」
「いや、そこかよ」
「そこでしょ!? ほかになにがあるのよ!?」
「正体を隠すためなんだから、なんの問題もないだろ」
「おおありよ!」
「まあ……おおありね」
「そうでございます! このわたくしを差し置いて、御主人様と契りを結ぶなど、あってはならない所業でございます!」
「どういうことだよ。俺にはそっちの方が気になるぞ」
ほとほと疲れ果てながら、セツナは嘆息とともに告げた。
それから、三人による追求から逃れるために呪文を唱える。言葉にするのは、呪文の末尾だけでいい。術式を完成させるための結語。武装召喚の四字。
「武装召喚」
セツナの体が光を発し、荷台を白く染め上げる。爆発的な光。いつものことだが、あまりに眩しく、目を逸らしたくなるほどだ。だが、その光は一瞬だけ現れ、一瞬にして消える。そして、異世界の武器を彼の手の中に出現させるのだ。
「あっ……」
レムが身を捩らせたのが、気配で知れる。
セツナは、手の中に現れた黒仮面を見つめ、それから仲間たちに目をやった。
「黒き矛……じゃない?」
「どういうこと?」
「クレイグの仮面に似ていますが……隊長って、カオスブリンガー以外も召喚できたんですね?」
「前にいっただろ。クレイグの闇黒の仮面は黒き矛の力の一部だったって。そしてこれもまた、黒き矛の力の一部なんだ。まさかこういうふうに召喚できるとは思っても見なかったけどな。そして、こういうことだってできるぜ」
セツナは、仮面を手の中で弄びながら、その能力を発動させた。荷台の虚空が歪んだかと想うと、闇人形が一体、音もなく出現する。少女染みた外見の闇人形は、彼の意志のままに荷台の中を浮遊して周り、彼の仲間たちを驚かせた。中でも一番驚いているのは、レムだ。彼女は驚愕の顔のまま、動かなくなってしまっている。
「だいじょうぶか? レム」
「……はい、わたくしはだいじょうぶでございます。ですが、先もいったように変な感じなんです」
彼女は身悶えしながら、いった。本当に気分が悪そうだった。セツナはなんだか彼女に悪いことをしている気がして、黒仮面をすぐにも送還するべきだと思った。手の中の仮面を見下ろす。ルウファがいったように、クレイグ・ゼム=ミドナスの仮面に似ている。死神零号の仮面。しかし、出現する“死神”は、クレイグのそれとは似ても似つかぬものだ。
「やっぱ、これが原因なんだな」
「おそらくは……」
「なんで?」
「よくわかんねえけど、レムの“死神”の能力と源泉を同じにしているから、とかかもな」
レムは、黒き矛が取り込んだ闇黒の仮面の能力によって、再度、仮初の命を得た。彼女の命は、セツナの命と同期し、セツナが死なないかぎり死なない存在となった。それだけではない。レムは、闇黒の仮面の眷属たる仮面を用いずとも“死神”や“死神”の大鎌を扱うことができるようになっていた。それは、彼女が闇黒の仮面の能力を与えられたということにほかならないのではないか。そう考えれば、セツナが闇黒の仮面を召喚したことで彼女になんらかの影響を及ぼすのは、当然のことだったのかもしれない。
「確かに……この人形、レムの“死神”っぽいもんねえ」
ミリュウが闇人形を見つめながら、感想を述べた。闇の塊のような人形は、確かに“死神”によく似ている。しかし、“死神”とは明らかに異なる造形をしている。とはいえ、性質そのものは“死神”となんら変わりあるまい。
「レムの“死神”っていうより、レムに似ているように思えるけど?」
ファリアが闇人形とレムを見比べながらいうと、ミリュウが眉根を寄せて難しい顔をした。
「む……いわれてみれば、確かに」
「そうか?」
セツナには、よくわからない。闇人形は、“死神”よりも人間に近い姿をしている。それこそ少女のような造形をしていて、“死神”のようなおどろおどろしさはない。
「なるほど、御主人様……」
「なんだよ?」
「アバード潜入中も、わたくしに側にいて欲しかったのでございますね」
「はあ?」
「だから、わたくしそっくりの“死神”を召喚していた、ということでございましょう?」
レムは一方的に告げてくると、とても嬉しそうな表情を浮かべた。
「うふふ」
「いや、まあ、レムがそれで納得できるのならいいけど……しかしあれだな」
「ん?」
「レムの体調が悪くなるのなら、あまり使わないほうがいいかもな」
「そうじゃな」
「体調が悪くなる、というわけではないのです」
「違うのか?」
「なにか、御主人様に心の奥底まで覗かれているような、そんな感覚があるのでございます。それが、その……なんていいますか、変な気分でして……」
レムが頬をわずかに紅潮させながらいってきたことはあまり理解できなかったものの、結論を出す手助けにはなった。
「だったらやっぱり使わないほうがいいんじゃないか」
セツナはそう結論付けると、闇人形を掻き消し、黒仮面も送還した。手の中から重量が消え、光の粒子が虚空に散り、やがて完全に溶けてなくなる。
レムがほっとしたような、残念なような、複雑な表情を浮かべたのが印象的だった。
それから、話はアバード潜入中のことに及び、セツナはミリュウとレム、そしてファリアからの激しい追求を受けたのだった。