第千六十二話 姉と弟
廃墟の中にいる。
廃墟。
そう、廃墟だ。
この世に生を置けて二十数年、生まれ育ち、住み慣れた楽園は、数日前、みずからの手足で破壊し尽くした。
物心ついたころ、天地のすべてであった王宮は、いまや跡形もなくなってしまったといってもいいような状態であり、子供の頃、周りを振り切って駆け回った王都も、もはや在りし日の姿を思い浮かべることさえできなくなってしまっていた。
惨状。
そんな言葉が脳裏を過る。
そして、そのたびに自分のしでかしたことの大きさに打ち震え、苦しむのだ。
自分は、なんということをしてしまったのだろう。
自分は、いったい、なにがしたかったのだろう。
自分はやはり死ぬべきだったのではないか。
死んで、詫びるべきだったのではないか。
それ以外の道などなかったのではないか。
廃墟と化した王宮の中を歩きながら、シーラの頭の中に浮かぶのはそのような言葉ばかりだ。なぜ、自分はのこのこと生きているのだろう。考えるのはそのことであり、生と死を分かった出来事のことだ。
死のうとした。
死ぬべきだと想った。
他に選択肢などあるべきはずもなかったからだ。死んで、すべてを終わらせる以外にはないと判断し、決断し、だから、なにもかも壊した。壊して、踏み躙って、それで、終わりになるはずだった。
だけれども、彼女は殺されなかった。それどころか、生かされてしまった。救われてしまった。
(救い……)
胸中に浮かんだ言葉の妙な暖かさに、呆然とする。胸に手を当てる。生きている。彼が手を差し伸べてくれたから、自分は、こうして生を実感していられる。それは喜ぶべきことなのか。悲しむべきことなのか。いまいち、よくわからない。生き恥を晒しているのではないか、と思うこともある。だが、それでよかったのだ、とも思い直す。
生きて、生き恥を晒して、なおもまた、生きていく。生きて、アバードの力になればいい。壊したものは直せばいい。失った命は戻らないが、建物は、都市は、作りなおすことができるのだ。
拳を握り、力を込める。
このアバードの騒乱は、シーラ派の暴走に端を発しているといっても過言ではない。タウラル要塞に集ったシーラ派と、王都に篭もるセイル派、王宮派の対立が、事の発端だ。対立の激化を止めることができていれば、だれひとり命を失うような事態には発展しなかっただろ。だが、彼女には、シーラ派の暴走を止めることも、王宮の動きを抑えることもできなかった。そして、両軍がエンドウィッジで激突するという状況になってもなお、彼女には、どうすることもできず、ただ、ラーンハイル・ラーズ=タウラルのいうままに国を去るしかなかった。
レナ=タウラルがシーラの代わりに戦いに参加し、捕縛され、処刑された。それもこれも、リセルグとラーンハイルの密謀だというのだから、やっていられない。リセルグとラーンハイルは、シーラを生かすためにレナをシーラとして処刑したのだ。エンドウィッジの戦いは、ラーンハイルにとってはシーラを生かすためだけの戦いであり、そのためにシーラ派の軍人がどうなろうと知った話ではなかった、ということらしい。そしてそれがリセルグの考えでもあったというところに、苦悶を覚える。
リセルグも、シーラを生かそうとしてくれたのだ。そのためにレナをシーラとして処刑し、公表した。また、シーラ派の残党を排除した。ラーンハイルも処刑したという。
そう、ラーンハイルは、とっくに処刑されていたのだ。センティアでの公開処刑は、まさにシーラを誘き出すためだけのただの方便だったのだ。ラーンハイルの死を知ったのは昨日のことで、彼女は愕然としたものだ。
ラーンハイルは、みずからの死も、シーラを生かすためには必要だと判断し、リセルグもそれを承認した、ということなのだろうが。
だが、セリスが耐えられなかった、らしい。
処刑されたシーラが偽物であることを知ったセリスは、本物のシーラを殺すことをリセルグに訴えた。シーラを亡き者にしなければ、セイルの世がきたとしても、安心していられない。いや、そもそも、シーラがいる限り、セイルの世などこないかもしれない。強迫観念が、セリスの思考を支配した。
セリスがそこまで思い詰めていた理由も、いまとなれば、少しはわかる。
シーラを王子という立場から解放するために苦しみ抜いたというのに、シーラが女王になれば、すべてが水の泡になる。これまでの苦労、痛みが、なにもかも無駄になってしまう。そういった感情がセリスを追い詰め、狂わせていったのかもしれない。
セリスのことを想うと、ただそれだけで、彼女は哀しみに溺れそうになる。なぜ、母の想いに気づいてやれなかったのか。なぜ、もっと早く、母の考えに気づいてあげられなかったのか。
セイルが生まれたあと、シーラはシリウスという名を捨て、シーラとして生きることになった。王子シリウスではなく、王女シーラとして、生きていくことになった。性別が変わった。それこそ、天地がひっくり返るような衝撃があったが、セリスが嬉しそうな顔をしていたこともあって、それでよいのだと想った。
『これからは、あるがままに生きていいのですよ』
セリスがどのような想いを込めて、そんなことをいってきたのか、いまならわかる気がする。
セリスは、シーラが性別を偽り、王子として振る舞っていることを悲しみ、苦しんでいたのだ。愛娘を男として育てることの矛盾に苦しみ、のたうっていたのだろう。そのうえで、つぎの子を生もうと必死になっていた。必死に。それこそ、どのような手を用いてでも、子を成そうとした。その結果生まれたのがセイルであり、セイルが男であったことで、セリスはそれまでの苦悩や苦痛から解放されたのだろう。
シーラを王子という呪いにも似たものから解放することができたのだ。セリスとしては、それでよかったに違いない。シーラがそのまま王女として育っていけば、幸せでいられたに違いない。
だが、そうはならなかった。
シーラは、セリスの愛に応えようとした。セリスとリセルグの愛情に応えるには、どうすればいいのか。アバード王家の人間の役割について、真剣に考え抜いた彼女が出した結論こそ、セリスの心中を苦しめ、狂わせていったのではないか。
いまとなっては、そう想うよりほかない。
シーラが戦場に出て、活躍し、王宮に帰ってくるたびに、セリスはシーラの活躍を賞賛した。しかし、賞賛する一方で、窘めることを止めなかった。王女として立派になってくれればいいというセリスの言葉は、本心だったのだろう。しかし、シーラは、セリスが認めてくれるには、もっと戦い、もっと戦功を積みあげなければならないのだ、と想った。
そこに行き違いが生じたのだろう。
そして、その結果が、この惨状なのだとしたら、やりきれない。
「姉上!」
不意に飛び込んできた声に、彼女ははっとした。目線を上げると、瓦礫の山の間を、セイルが駆け寄ってきていた。侍従長や近衛は、セイルとシーラの邪魔をしないように、なのか、距離を取って待機している。昔から、よく気のつく連中だ。
シーラは、セイルが目の前まで来るのを待ってから、彼の前で傅いた。
「ガンディアとの会談は、もう済んだのですか?」
「はい! もう終わりましたよ!」
「殿下は、元気でいらっしゃいますね」
シーラは、威勢よくうなずいてきたセイルの様子に、表情をほころばせた。セイルが元気いっぱいでいる姿を見ていると、不思議なほどに活力が湧いてきた。ついさっきまでの重い足取りが嘘のように、体が軽くなる。霧が晴れていくような感覚。幼いセイルのありのままの表情は、まるで太陽のようだった。
「姉上がいてくださるのです! 元気にもなりますよ!」
「ふふ……わたくしは、殿下がそういってくださるだけで、ここにいる意味があるというものです」
シーラは、セイルの満面の笑みに、微笑みを返した。
抜けるような青空が、頭上に広がっている。
廃墟同然の地上と比べると、天国のような景色だった。澄み切った青の空。流れる雲はまばらで、夏の太陽の燦々たる光が、廃墟の王都に降りしきっている。そんな光景を、シーラは、セイルとふたり、日陰から見ていた。
瓦礫の山が生み出す日陰に、ふたりして腰を下ろしていた。セイルの侍従長と近衛兵は、遠巻きにこちらを見守っている。皆、シーラを信用してくれていた。シーラのことをよく理解してくれていた。そのことが、彼女には涙が出そうになるほど、嬉しい。
セイル派、王宮派の貴族や軍人も、シーラ憎しで動いていたわけではない、ということがよくわかる。シーラ派という派閥そのものと敵対していたものの、シーラ個人にどうこうするつもりはなかった、ということだ。
シーラ派が、セイル個人に敵意や悪意を抱いていなかったのと同じだ。シーラ派が倒そうとしたのは、セイル派、王宮派であって、セイル本人ではない。むしろ、シーラ派にとってセイルは味方といってもよかった。風の噂によれば、セイルはシーラを支持し、応援していたのだから。
「王都の復興には、ガンディアとベノアガルドが協力してくれるようです」
「そうですか。それならば安心ですね」
シーラは、隣に腰掛けたセイルの小さな体を見下ろしながら、微笑を浮かべた。ガンディアがそう判断することは、エインに聞いて知っていた。だから、彼女はエインの提案を受け入れたといってもいい。
エインの提案とは、つまり、アバードの騒乱の原因を、イセルド=アバードに集約するということだ。イセルドの野心がこのような惨状を作り出すことになった、という理論は、真実を知らないひとびとには、受け入れやすいものかもしれない。実際、イセルドがリセルグの影武者に糾弾されている場面を見たものは少なくない。そして、影武者が、イセルドがリセルグを殺したとも取れる発言をしたことは、よく知られていた。イセルドを元凶に仕立てあげるのは、難しい話ではなかった。
困難なのは、シーラ自身の想いとどう折り合いを付けるかだったが、それもアバードのためと説得されれば、応じるよりほかはない。アバードが今後ガンディアと上手く付き合っていくためには、この騒乱の原因をイセルド=アバードひとりに集約するのが手っ取り早いのだ。
イセルドは、リセルグの影武者によって殺された。リセルグの影武者も死んだ。真相を知るものは、極めて少なくなった。
イセルドを元凶に仕立て上げ、そのうえで、王都破壊の罪だけは自分のものとする――シーラは、王都市民への演説をそのようなものとした。王都の人々からはシーラを非難する声も少なくはなかったが、イセルドが元凶だという話が受け入れられなかったわけではない。
イセルドの野心がアバードをふたつに分け、国をこのような状態に導いた。そして、イセルドは狂気の中でリセルグとセリスを殺し、その結果、シーラは暴走し、王都を破壊してしまった。
物語は、そのようになった。
そうすることでアバードの復興が早まるというのなら、そうするよりほかはない。
政治だ。
「はい。アバードだけでは何年かかるかわかりませんでしたが、ガンディアとベノアガルドが協力を惜しまないということであれば、思った以上に早く復興できるかもしれません」
「そうですね。そうなると、いいのですが」
ベノアガルドが復興に協力してくれるとは、想いも寄らなかった。が、騎士団騎士たちの言動を思い返せば、彼らがそのような結論を下したとしても不思議ではない。騎士団騎士は、救いを掲げた。シーラを殺すのも、シーラをある意味で救うためだった。実際、センティアで殺されていれば、あれ以上苦しむことはなかっただろう。セリスとリセルグが死ぬこともなければ、アバードが戦火に包まれることもなかったはずだ。つまり、あのときシーラが生き延びたからこのような結果に終わった、ということでもある。
しかし、死ねなかった。
なにも知らぬまま、なにもわからぬまま死ぬなど、以ての外だった。
そして、真実を知れば、死ぬべきだと、想った。
父や母を苦しめながら生き続けることなどできない。
そのふたりを苦しみの中で死に至らしめたとなれば、生きる道理さえない。
そう、想った。
だが、彼女はいま、生きている。
生きて、今後のことについて考えている。アバードの今後。自分の今後。将来。未来。
「姉上は、やはり、責任を感じておいでですか?」
「当たり前です」
シーラは、きっぱりといった。
「王宮も王都も、わたくしが、この手と足で壊してしまった。バンドールのひとびとの生活を踏み躙ってしまった。アバード国民のためにあるべきアバード王家の人間にあるまじきことを、してしまったのです」
「だからといって、姉上が王家を去るのは、間違っています」
「殿下……」
「姉上には、アバードに残って、わたくしを支えて欲しいのです。わたくしはまだまだ未熟です。たとえ王位を継承したとしても、王として上手くやっていけるとは思えないのです。そのとき、姉上が側にいて、わたくしを支えてくれれば、安心できると想うのです」
(セイル)
シーラは、胸が詰まるような感覚の中で、実弟の目を見ていた。同じ目。アバード王家の血筋を示す青い瞳の中に、シーラの顔が映り込んでいる。同じ髪色、同じ目色、同じ肌色。なにもかも同じ。違うのは、父親だけだ。だが、その違いが、シーラとセイルの関係をわかつことはない。それは、わかりきっている。なぜならばシーラはセイルを実の弟として愛していたし、王子として、王位継承者として敬っていたからだ。それは、これからも変わることはないだろう。
王家を離れたとしても、血の繋がりを絶つわけではない。
「お言葉ですが、殿下。殿下には、わたくし以外にも信の置けるものがいるはずです。いないのであれば、作らねばなりませぬ。わたくしはもはや王家を離れた身。わたくしを頼られるなど、お門違いも甚だしく存じ上げます」
「姉上は手厳しいな……」
どこか嬉しそうで、どこか寂しげなセイルの横顔は、
「もう、決めたことなのです。わたくしは、王家の役割を果たせませんでした。王家の務めを。王家の責任を。わたくしには、もはや王家の一員である資格もない」
それは、王族として、アバード王家の一員としての務めを果たすことに心血を注いできたシーラには、耐え難いことだった。
みずからの手で、みずからの足で、みずからの意志で、これまで積み上げてきたものを根底から破壊してしまった。
「そして、わたくしが王家を離れなければ、殿下を王位につかせることができない」
「姉上、まさか、そのようなことで……」
「大切なことです」
それが、セリスの願いだ。
言葉にこそしなかったが、シーラはそう想っている。
無論、それだけが理由ではない。
「わたくしが王家に残っていれば、ガンディアは、なんとしてもわたくしを女王に仕立てあげようとしたことでしょう。それが、ガンディアの掲げた大義故。御旗故。わたくしを女王にしなければ、大義が成り立たなくなる。それは、ガンディアに許せぬこと。わたくしを女王に仕立てあげたあとは、アバードを想うままに操るつもりだったのでしょうが」
いかにもナーレス=ラグナホルンの考えそうなことだと想いながらも、そこまで考えていたのかどうかは、わからない。シーラを女王に仕立てあげるための侵攻だったのは間違いないし、それだけは疑いようがないのだが、それ以降のことについては想像の域を出ない。いずれにせよ、シーラには受け入れがたいことだったに違いないが。
「わたくしが王位についたとて、同じことでしょうに」
「そうでもありませんよ。少なくとも、わたくしはそう想います」
アバードがガンディアの属国となった以上、ガンディアの思惑通りに動かざるを得なくなるのは仕方のないことだ。だが、シーラが女王となって君臨するよりは、セイルが王位を継承するほうが絶対的にいい、と彼女は想うのだ。
もちろん、セイルがまだ十歳にもなっていない子供だということは理解しているし、彼が成長するまでは側にいてやりたいという気持ちもある。だが、そんなことを言い出せば、キリが無くなる。
未練が残る。
未練は、断ち切らなくてはならない。
「殿下は、まだ幼い。王として力不足なのは、当然のことです。ですが、殿下、それはこれから身につけていばいいだけのことです。足りないものは、周りの者が補ってくれましょう。皆、殿下のためならば力を尽くしてくれるはずです。殿下は、ひとりではありませんよ」
「姉上……」
「なにもかもおひとりで抱え込まなくていいのです。皆に頼ってください。ただ頼るのではなく、必要なとき、必要な分だけ頼るのです。そうすれば、皆も殿下の期待に応えようとするでしょう」
自分に言い聞かせるように、いった。
ひとりで抱え込まなくていい。
彼がいってくれた言葉を、そのまま、いっている。
「わかりました。姉上の教え、肝に銘じておきます。そうすれば、姉上がいつも側にいてくれているような気がしますから」
セイルがこちらに笑顔を向けてきた。澄み切った笑顔は、彼が純粋なまま成長してきたことを示しているようだった。いったことを素直に受け入れ、そのまま糧とすることができる。それがセイルの強みだろう。
「姉上は、どうされるのです?」
「わたくしは、ガンディアに行きます」
「ガンディアに?」
「はい」
うなずいて、立ち上がる。彼女の元侍女たちが、遠巻きにこちらを見守ってくれていた。それがなんだか嬉しくて、彼女は泣きそうになった。
「約束……していますから」
約束。
彼は覚えていなかも知れない。
しかし、構うものかと彼女は想った。
一方的なものでいい。
それで構わない。
勝手に約束したのだ。勝手に護るだけのことだ。
彼も、そうだった。
勝手に約束して、勝手に護った。
守り抜いて、彼女を引き戻してくれた。
(セツナ)
彼がいなければ、シーラはここにはいられなかっただろう。こうして、セイルと話し合うこともできなかった、ということだ。
「殿下、もし、困ったことがあれば、いつでもご相談ください。わたくしにできる範囲でお力添えいたしますので」
シーラは、そういって、セイルに笑顔を向けた。