第千五十九話 夢より淡く
夢を見たことを、覚えている。
いや、それが夢だったのかどうかさえ、定かではない。
きっと、夢と現の狭間にいたのだ。
夢想と現実の狭間を漂い、聲を聞いた。
ハートオブビーストの声。
気高く、力強く、傲慢で、情け深い――そんな、聲。
そしてそれは、形になって現れる。
白毛の九尾。
九つの尾を持った純白の大狐。
視界を埋め尽くすほどに巨大で、意識を塗りつぶすほどに膨大な存在。シーラが仮初に成り代わり、彼女の世界を破壊し尽さんとしたもの。破壊できたのは、彼女の世界ではなく、生まれ育った宮殿と都だけだ。彼女自身は、壊せなかった。
彼女はまだ、生きている。
そのことが不思議なのかもしれない。
それは、ただこちらを見ていた。
こちらを見て、微笑んでいた。
『そなたは、死ねなんだな』
聲が響く。世界に。心に。
「うん」
シーラはただただうなずき、認めた。死ねなかった。みずからの命を断つという以外の方法でなんとかして死のうとしたが、生き残ってしまった。せっかく、ハートオブビーストの力を最大限にまで引き出し、ハートオブビーストの力を借りたというのに。
死ねなかった。
『斯様に暴虐を働き、破壊の限りを尽くしたのにも関わらず、そなたに残された優しさが、気高さが、誇りが、そなたを殺させなんだ』
「俺の優しさ……」
反芻するようにつぶやく。
セツナにも、同じようなことをいわれた気がする。
『そう。そなたは優しいが故、かの者共を殺せなんだ。踏み躙り、根絶やしにすることができなんだ。それがそなたの限界。そなたのそなたたる所以ゆえ……』
「でもさ……普通なら、それでも殺してくれるだろ」
巨大な九尾の狐となって、破壊の権化となって暴れ狂ったのだ。普通ならば、殺そうとするはずだ。なんとしてでも殺し、被害を最小限に食い止めようとするはずだ。でなければ、九尾の狐による破壊と蹂躙は際限なく広がっていくかもしれない。だれもかれも殺されてしまうかもしれない。
しかし、セツナは、殺さなかった。
シーラを傷つけようともしなかった。シーラにどれだけ傷つけられても、必死になって、生かそうとした。あの茫漠たる闇の中から救い出してくれようとした。
光。
ただただ眩しく、鮮烈で、網膜が焼きつくされるのではないかというほどに強烈な光。
『そなたの想い人は良い男子よな』
「……俺も、そう想うよ」
『あのもののためにも、生きねばならんぞ』
「ああ。わかってる」
『わらわも、あのものとともにありたいと想う故、な……』
「ありがとう」
そうして、夢が醒めた。
夢が覚めれば、現実を直視しなければならなくなる。
現実。
バンドールへ戻れば、決断の時が待っている。
どうするべきか。
答えは、ひとつしかない。
視界の端に着飾った白髪の少年を認めたとき、シーラは、思わず叫んでいた。
「殿下! 王子殿下!」
廃墟同然の王宮に遮蔽物は少なく、声など、叫ぶまでもなく届く。それでも、抑えられない感情があった。それは喜びなのか、悲しみなのか、よくわからない。どちらでもあるのだろう。両親を失ったという寂しさもあれば、このような再会になってしまったという悲しみもある。最愛の弟との再会を嬉しく想う気持ちもあれば、彼の無事を心から喜んでもいる。王宮を徹底的に破壊したということは、彼を巻き込み、殺してしまう可能性もあったのだ。
そうならなかったことのほうだ、不思議でならない。
「姉上……?」
アバード王家の血筋の証明たる真っ白な頭髪を持った少年は、当然、王族の一員であり、どこからどう見ても、彼女のよく知っている人物だった。セイル・レウス=アバード。アバード唯一の王位継承者であり、シーラの実の弟。真実はどうあれ、彼女はそう教わり、そう信じて今日まで生きてきた。数カ月前、最後に見たときとなんら変わらぬ姿は、彼が平穏無事に生きてきたことの証であり、王宮の策謀に巻き込まれたりしなかったことを示しているのだろう。セイル派とも王宮派とも呼ばれていた人々がセイルを大切に扱わないはずもなく、その点で心配したことはなかったが、無事な姿を目の当たりにして安堵したのは事実だった。王宮の人間を疑っているわけでもなんでもない。ただ、不安を抱いただけのことだ。そして、不安は、離れている時間がながければ長いほど増大する。静かに、音もなく。
シーラは、安心とともに駆け寄った。駆け出す足を止められなかった。瓦礫と化した天井や倒壊した柱を避け、セイルの元に向かう。彼の周囲には、もちろん、王宮近衛の兵士たちやアバードの重臣たちがいる。アバードの今後について話し合っていたのか、それとも、別のことを相談をしていたのか。いずれにせよ、彼らがシーラの進路を塞がなかったことには感謝するしかない。皆、シーラのことに気づいている。しかも、恨み言をいってくることもなければ、敵意を向けてくるでもない。この惨状を生み出した原因だというのに、だ。
だれもが、なにかを諦めたような顔をしていた。
シーラは、セイルの目の前に辿り着くと、傅き、頭を垂れた。アバードの王子であり、王位継承者である彼に臣下の礼を取るのは、当然のことだ。セイルが物心付く前からそうだった。それが当然であるという認識がシーラとセイルの間にはある。シーラとセイルの間に、だけではない。だれもがセイルこそ王位継承者であり、次期国王であるのだという認識の元に振る舞い、言葉遣いや態度を改めた。シーラはただの王女であり、王位継承者ではない。そういう認識の違いが、態度に現れている。国王になるための教育といってもいい。
そして、シーラはそれでいいと思っていたし、彼女は率先してセイルを特別扱いした。そうすることで、彼女の侍女たちや周囲の人間もセイルこそを特別に扱うようになり、セイル自身に次期国王としての意識を植え付けていったつもりだった。彼はまだ幼いが、いずれこの国を背負って立つ人間になる。生まれた時から決まっていたことだ。だから、物心付く前からそのように接し、いまでは当然のものとなっていた。
「殿下……お久しゅうございます」
「姉上こそ、よくぞ、ご無事で」
なにも、変わってはいない。
シーラは、セイルの返事を聞いて、実感とともにそれを認識した。認識し、顔を上げる。セイル・レウス=アバードは、まだ八歳の少年だ。少年という言葉さえも合っていないのではないかと思えるほどに幼い。だが、王子の衣装を身につけた彼の姿は、この場にいるほかのだれよりも毅然としていて、彼が次期国王として教育されてきたことを証明するかのように立派だった。
立派に、王子としての自覚を持ち、立っている。
泣いてはいない。
「ご無事で……」
しかし、彼の声は、震えていた。か弱く、淡く、揺れていた。目が、こちらを見ている。淡い碧の瞳。その目には、シーラが映り込んでいる。同じ髪、同じ目の色をした女。傅き、彼を仰いでいる。主を仰ぐように、仰ぎ見ている。
セイルの目から、涙がこぼれた。
「あ……」
セイルは慌てて涙を拭うと、それから、はっと気づいたように笑みをシーラに向けてきた。
「王位継承者でもなくなるのですから、いくら泣いても構いませんよね?」
「……なにを、仰られるのです。殿下」
「もう、殿下と呼ぶのはやめてください、姉上。アバードの王位を継承するのは、姉上、あなたなのですよ?」
「殿下までそんなことを」
「話し合って、決めたことです」
セイルの言葉は、強い。周囲を見ると、大臣や近衛兵たちが神妙な顔で、セイルの声に耳を傾けている様子だった。こちらを見てはいない。直視するのは不敬に当たるとでも想っているのかもしれないし、久々の姉弟の再会に水をささないようにしてくれているのかもしれない。いずれにせよ、アバードの人々は優しく、温かい。
「王都が抑えられた以上、アバードに勝ち目はない。故に降伏したのです。降伏した以上、ガンディアの望み通りにするしかありませんから。敗者は勝者に従う――これこそ、乱世の倣いでございましょう?」
セイルの口調には、よどみがない。とても八歳の少年の台詞とも思えないが、それが彼女や周りの人々の教育の賜物となれば話は別だ。感慨深い。
「……それは、そうですが」
「もちろん、わたくしは、姉上が王位継承権を欲して行動を起こした、などとは想っていませんよ」
「殿下……」
「姉上がそのようなことをなさるはずがない。姉上が、家を裏切ることなどあろうはずもない。高潔で、気高く、だれよりもこの国と家を愛しておられた姉上が、アバードを混乱に陥れようとするはずがありませんから」
セイルの目は、澄んでいる。綺麗な、穢れひとつないまなざし。もはや自分にはないもののように想えて、シーラは、彼の目を記憶に止めようとした。こうしてじっくりと見つめられるのも、今日、このときが最後かもしれない。
「ですから、姉上こそ王位継承者たるべき、という風潮もわからなくはありませんし、わたくしも、姉上が女王として君臨するアバードに住んでみたいと想ったものです。姉上ならば、それはそれは立派な女王となられること間違いありませんから」
「……しかし」
シーラは、静かに告げた。
「わたくしに、そのような資格はございません」
「資格? 王位継承権ならば――」
「わたくしがいいたいのは、継承権の有無ではございません」
シーラは、セイルの目を見つめながら、口を開いた。
伝えなくてはならないことがある。
教えなくてはならないことがある。
自分がしてきたこと、自分がしでかしたこと、自分というもの。なにもかも、伝える必要がある。
シーラは、セイルに今回の騒動に関して、自分の知りうる限りのことを伝えた。