第百五話 黒き矛対蒼の墓標
「はあっ? セツナの先生? 俺が?」
ルクスが素っ頓狂な声を上げたのは、王宮晩餐会から数日後のことだった。
セツナと謎の女の戦いが王の演出として片付けられ、宴は夜遅くまで続いた。ルクスが酔い潰れるほどに酒を飲んだのは久しぶりだったし、翌日の気分の悪さは、酒を断とうと決意したくなるほどだった。セツナの演武は一部で評判となっていたが、女の話題が出てくることはなかった。ルクスも、女のことを思い出せないでいた。あの場面を思い出しても、女の姿だけがぼやけてしまっていた。酔いのせいかもしれなかったが、腑に落ちないのも事実だった。とはいえ、その女のことだけを考えている暇もない。
ルクスは、もっと大きな問題に直面した。予想だにしない事態といっていい。
「陛下から相談されてな。おまえを推挙しておいた」
シグルドは事も無げに言い放ってきたが、とんでもないことだ。《蒼き風》の団長とはいえ、シグルドは一介の傭兵にすぎない。身分などはない。国に雇われた瞬間から契約が終わるまでは、平民と同等以上に扱われるかもしれないが、それ以外では虫けら同然なのだ。国に籍を置かず、諸国を流浪しているのだから当然といえば当然だ。そんな身分不明の人間が、一国の王に相談されるなど、普通ならば考えられないことだった。
もっとも、レオンガンドという人物は、なにかと規格外なところがあった。王子のころ、国内の街から街へと点々としていたという話もある。傭兵に相談するなど、彼にとっては容易いことなのかもしれない。
それは、いい。
問題は、シグルドが相談された案件だ。
セツナが戦闘の先生を探している、という。
セツナ・ゼノン=カミヤ。つい先日、王宮召喚師を叙任され、王立親衛隊《獅子の尾》の隊長に任命された彼は、注目の的だろう。ガンディア国内のみならず、隣国の耳目も彼に注がれているのは想像に難くない。黒き矛のセツナの雷名は、近隣諸国に轟き渡っている。
その彼が師を欲する理由はなんとなくわかったものの、ルクスは猛然と抗議した。
「いやいやいや、どう考えてもおかしいでしょ。なんでそこで俺なんです? 軍の教官にでも師事したほうがマシですよ」
「彼は武装召喚師だ。ただの軍人には理解できないことがある」
それも理解できる。が、納得はできない。
「だったら、ほかの武装召喚師を当たるべきだ。だいたい、彼の隊には武装召喚師がふたりもいる。傭兵なんかに学ぶべきことはないはずです」
「彼は武装召喚師だが、正規の武装召喚師ではない。正規に訓練を受け、正規に修学した武装召喚師では、彼の悩みを理解できない。その点、おまえはどうだ?」
「どう……って」
「わかっているはずだ。昔のおまえも、親から受け継いだだけの力に振り回されていた。彼のようにな」
事実を突きつけられ、反論も思い浮かばなかった。
ルクスが愛用する魔剣グレイブストーンは、彼の父が武装召喚術によって召喚した剣だった。召喚武装だからこそ、強大な力を秘めていた。武装召喚師としての訓練を受けてもいなかったルクスには、到底扱いきれるものではないほどの力だった。その大きすぎる力は、ルクスに実力以上の戦果を挙げさせたが、窮地へと追い込んだこともあった。
「いまや力を制御したおまえなら、彼の良き模範となりうる」
「どうだか」
「俺がそう信じているだけさ」
シグルドは、にかっと笑った。野性味あふれる男の笑顔になんど押し切られたのかわかったものではない。次こそは拒絶してやると、毎回毎回誓うのだが。
結局、自分は団長には勝てないのだ、と思い知ることになるのが落ちだった。
ルクスは、シグルドを心の底から愛していた。父のように、兄のように。だれよりも尊敬してやまない。彼が白といえばどんな物事でも白であり、黒といえば黒に染まった。彼が死ねといえば、ルクスは死ぬだろう。それは、彼がルクスを必要としなくなっても同じことだ。ルクスの居場所は彼の側にしかない。それ以外の世界など必要ではないのだ。シグルドは、そんなルクスを哀れに思っているようだが、それはとんでもない勘違いだといわざるをえない。
ルクスは、いま、幸せの絶頂の中にいる。
(じゃれているんだな、俺は)
シグルドに反抗する度に、そう認識する。恋人の愛を確かめるために行動を起こすのと大差のないことかもしれない。それが認められようと認められまいと構わないというのが、恋人のそれとは違うのだが。
「受けて、くれるな?」
拒否する可能性を考えてもいないシグルドの言葉には、ルクスへの深い信頼があるのだろう。それを実感としてわかってしまうから、ルクスはどんな要求も飲まざるをえないのだ。
ただ、今回ばかりは抗いたかった。彼を訓練しても、なんの得にもならないのがわかっている。いや、彼のために時間を消費することを考えれば、損失のほうが大きい。場合によっては、自分の訓練のための時間もなくなりかねない。
それは、ルクス本人だけでなく《蒼き風》にとっても損失ではないのか。
だからルクスは、条件を出した。
「……ふたつ、条件があります。ひとつは俺の流儀で教えることを許可していただくこと」
「そりゃ当然だ。だれも文句はいわねえさ」
シグルドが大いに頷いた。
「もうひとつは、黒き矛と対戦させていただくこと」
「本当にいいんですか?」
セツナ・ゼノン=カミヤと名乗るようになった少年が、不安そうな顔でこちらを見ていた。軽量ながらも鎧を身につけ、黒き矛を手にしたその姿は、戦場においては一騎当千の悪鬼そのものだ。彼の成し遂げてきたことが、その姿に説得力を持たせている。風聞だけの存在ではない。彼の活躍は、目の当たりにしたこともある。
そして、狂おしいほどに禍々しい漆黒の矛の威容には、対峙するだけで震えが来るほどだった。
グレイブストーンを握る手が、歓喜に震えている。父の遺した召喚武装は、黒き矛とは対照的に美しい剣だ。湖面のように碧く澄んだ刀身は、この世のものとは思えない。実際、この世界のものではないが、この世に残り続けることも確かだ。
この世界に召喚されたまま召喚者が死ぬと、召喚武装は、元の世界に戻ることもままならなくなる。役目を果たし、契約通りに帰ることも、召喚者の意志によって送還されることもなくなるからだ。召喚者が死に、契約が宙に浮く。すると。召喚者の血縁者がつぎの契約者になるというのが通説だが、それが事実かはわからない。少なくとも、ルクスはその通説通り、グレイブストーンの契約者となった。
「俺が望んだことだ。君が断るというのなら、俺も降りるだけだ」
「そんな」
「戦ってくれたら君の師になるっていってるんだ。喜ぶべきだぜ」
告げると、少年は黙った。覚悟を決めた、というわけではあるまい。返す言葉が見つからないだけだろう。
ふたりが対峙しているのは、《群臣街》バルガザール邸の広い庭の中だ。いくら許可を得たとはいえ、黒き矛との対決だ。人目につかない場所がよかった。とはいえ、王宮内で戦うわけにもいくまい。事故でも起きたら大変だ。こんなことで人生を棒に振りたくはない。
昼間。空は晴れ、雲が泳いでいた。熱気を帯びた風が、ふたりの間を吹き抜けていく。庭の片隅に設けられた観客席には、セツナの部下となった武装召喚師ふたりと、《蒼き風》の団長と副長だけしかいない。レオンガンド王もこの対決を見届けたかったようだが、積もりに積もった政務がそれを許さなかった。それでよかったともいえる。王がこの場にいると、セツナが緊張してしまったかもしれない。必要以上の緊張は、思考も反射も鈍らせる。
「どうなっても知りませんよ」
セツナの言葉には諦めがあった。矛を召喚した以上、もうどうにもならない所まで来ている。それを理解したのだ。彼が、矛を構える。切っ先がこちらを向いた。
瞬間、ルクスは衝撃に頭を貫かれた――ような錯覚に口の端を歪ませた。黒き矛が放つ殺気の鋭さは、想像を絶していた。同じ戦場にいるときに感じたものよりももっと破壊的で、どす黒い殺意だ。しかし、怯えはない。畏れもない。むしろ歓喜に近い感情の流れがある。
(俺も所詮は戦闘者に過ぎないってことか)
戦いの中でしか生きている実感を持てないものがいる。戦いこそがすべてで、血で血を洗い、死で死を埋める、そんな連中がいる。そういった連中は、通常の社会では生きていけないのだ。ルクスが、曲がりなりにも生きていられるのは《蒼き風》という組織のおかげであり、シグルドとジンのおかげだった。彼らとの出会いがなければ、ルクスは戦が尽きた地で野垂れ死んでいただろう。
「どうしてくれるのか楽しみだ」
ルクスは、セツナが地を蹴ったのを見た。直後、彼は目前に現れている。早い。が、ルクスは慌てることなく剣を薙いだ。金属音とともに火花が散る。セツナは、全力ではなかった。ルクスの剣に弾かれて、黒き矛が空を泳いだ。その隙を突いたはずの剣は虚空を刺してしまった。セツナは既に左へ飛んでいる。着地と同時に方向転換した彼は、矛を振り被り、突進してきた。これも素早い。しかし、ルクスは完全に対応した。打ち下ろされた一撃は、体を右に半歩ずらすことでかわして見せると、透かさず剣の柄で腹を殴った。
「くっ」
セツナが、驚いたようにこちらを見た。予期せぬ反撃を喰らったという顔だ。舐められている。ルクスは、セツナの足を払おうと思い立ったが、やめた。地面に刺さった矛が邪魔だ。代わりに、空いていた左手で裏拳を叩き込む。さすがに矛の柄で防がれたが、続け様に放った蹴りは見事腹に刺さった。鉄の板に護られているとはいえ、打撃は通る。彼が手にしているのは、無敵の盾ではないのだ。
付け入る隙はいくらでもあった。
このままこちらの勢いになるのを嫌ったのか、セツナが距離を取った。牽制にと振るった矛が発した剣圧は、突風のように吹き抜けた。 それを見れば、彼がどれだけ凶悪な力を秘めているのかがわかる。いや、彼ではない。彼が扱う召喚武装の力。黒き矛。彼によってカオスブリンガーと名付けられたそれは、まともに戦ったこともない少年をして戦場の悪鬼へと変貌させるだけの力を持っている。
対峙して、肌で感じる。全身総毛立っているのがわかる。ルクスの半生において、これほどまでの敵と対決したことはなかった。数多の戦場を駆け抜けてきたが、こんな感覚は初めてだった。強い。ただただ強い。圧倒的な力を認識する。破壊と殺戮の権化。だがそれは、黒き矛の力を引き出せる使い手あってこそのものだ。
黒き矛を構えた少年は、あまりに未熟だった。彼の行動は、ルクスには手に取るようにわかった。殺気が走りすぎている。どこへ移動するのか、どこを狙っているのかがわかりすぎるくらいにわかってしまう。そして致命的なのは、直線的すぎるということだ。
「それで、本気じゃないよね?」
「当たり前だ!」
セツナが吼えるようにして飛んでくる。またしても直線。ただし、その速度は常人には捉えられないほどであり、戦場ならばなんの問題もなく敵陣を貫くだろう。だが、ルクスは常人ではなかった。セツナが貫いたのはルクスの残影であり、彼が矛で空を裂いたとき、ルクスはセツナの背後を取っていた。兜と胴鎧の隙間、項が覗く。瞬間、ルクスは手刀を叩き込んでいた。
「っ……」
手応えは、セツナが反撃に移って来なかったことで確信に変わる。握力を失った手から黒き矛が滑り落ち、彼自身の体も前のめりに転倒した。意識を失ったのだ。
黒き矛とグレイブストーンの対決は、あっさりと終わった。得物がぶつかり合ったのは一度。激しい戦闘ではなかった。期待外れではあったものの、収穫がなかったわけではない。
「セツナ!」
セツナに真っ先に駆け寄ったのは、ファリア=ベルファリアだ。保護者としての面目躍如といったところか。ルウファ・ゼノン=バルガザールも続く。
観客席を見ると、シグルドとジンがやれやれといった顔をしていた。対決するまでもなかった、とでもいいたげな表情だったが、ルクスはそうは思わなかった。実際に対戦してみなければわからないこともある。セツナに足りないものがなんであるのか、必要なものがなんなのか、戦ってみてよく把握できた。課題が見つかったのだ。それだけで価値は有ったといえよう。
(それに……一度経験しておいてよかったかもな)
ルクスは、セツナに視線を戻すと、ファリアが気を失った彼を介抱していた。地に落ちた矛は、未だに禍々しい気配を漂わせている。召喚された役目を果たしていないからか、この世に留まっているようだ。もっとも、召喚者以外が手にしたところで扱うことはできない。それが、召喚者と召喚物の契約だからだ。例外があるのは、召喚者が命を落としたときだけだ。
この矛を手にしたセツナと戦うことは、もう二度とないかもしれない。絶対にない、とはいえない。《蒼き風》は傭兵集団だ。団長の意向次第では、ガンディアの敵国と契約することもありうる。しかし、その場合でも、黒き矛との直接戦闘は避けようとするだろう。ルクスひとりで釘付けに出来るならいい。戦場で、あらゆる制限から解放された黒き矛のセツナは、いまの比ではないはずだ。その彼をルクスひとりで抑えられる自信はなかった。
いまのままのセツナなら、なんとでもなる。それは、確信する。直線的な戦い方しかできない彼の相手をするのは、必ずしも難しいことではない。
しかし、彼は、これから成長するのだ。
ルクスが、鍛え上げる。徹底的に鍛え上げ、黒き矛の支配者にまで育て上げる。そういう契約だ。ガンディアと、ルクス=ヴェイン個人の契約。
セツナは強くなる。いまよりずっと強くなるのは、間違いない。“剣鬼”が鍛え上げるのだ。
そうして成長したセツナとは、ルクスは戦わないだろうと思った。戦場でまみえても、殺し合おうとは思えなくなるだろう。
だから今日、こうして黒き矛の洗礼を浴びておくのは良い経験だったのだ。
「とはいえ、いまの君には失望しかないんだなあ、これが」
ルクスは、数合打ち合っただけで床に倒れ伏したセツナに冷ややかな視線を投げていた。経緯を思い出すまでもなく、彼は弱い。ただただ貧弱で、無力だ。ここまで戦えないとは想定外だったが、逆に考えれば鍛える甲斐があるというものかもしれない。が、生憎ルクスには他人を育成することに喜びを見いだす類の人間ではなかった。
セツナは、こちらを見てもいない。床に木剣を放り出し、動き出す気配もなかった。
「力尽きた……か」
死んではいないだろう。この程度で死ぬようなら、どの道すぐに殺される。だったら、いっそここで死んでいたほうがましに違いない。もっとも、セツナが死ねば、ルクスは王の怒りによって殺されるだろうが。
そんなぞっとしないことを考えていると、倉庫の扉が開いた。店主が差し入れでも持ってきたのかと顔を向けると、私服のファリア=ベルファリアが立っていた。
「ちょうどよかった」
「はい?」
「彼が夢の国に旅だったところなんだ」
ルクスが告げると、彼女は肩をすくめた。