第千五十七話 苦さを抱いて(二)
翌二十七日、夜明けとともに王都バンドールに戻ったアバード軍、ベノアガルド騎士団を出迎えたのは、ガンディア軍の軍旗であり、王都がガンディアの支配下に置かれたという事実だった。
衝撃が両軍を襲ったものの、アバード・ベノアガルド軍とガンディア軍との間で戦闘が起きるようなことはなかった。
九尾の狐によって破壊し尽くされた王都を巡って争うような状況ではなかったこともあるが、なによりも、アバードがガンディアに対し降伏したことが大きい。
アバードが、ガンディアとの戦争を継続することを諦めたのは、王都がガンディアの手に落ちたこともあるが、なによりも、アバードの国王夫妻が死去したことで政府そのものが機能不全に陥ったからだ。国家の支柱ともいえる王が死んでしまったのだ。それによる混乱は、王都だけでなく、国全体へと急速に波及するのも時間の問題だった。
アバード政府は、リセルグ王とセリス王妃の死による混乱を収めることに重きを置いた。この状況では、ガンディアと戦うことなど不可能だと結論づけた。戦ったところで、どうなるものでもない。王がおらず、王に次ぐ指導者もいない。政府の機能は著しく制限されており、大臣たちが顔を突き合わせて協議するだけの時間もない。王都はガンディアの支配下にあり、アバード・ベノアガルド軍は王都外にいる。たとえ王都に辿り着いたところで、ガンディア軍との戦力差は著しい。
結論を迫られた。
アバードは、仕方なくガンディアに降伏し、その旨を帰還したアバード軍、ベノアガルド軍に告げた。アバード軍の王都への帰還直後に戦闘に発展しなかったのは、王子セイル・レウス=アバードみずからがアバード軍を出迎えたからであり、王子自身の口から、ガンディアに降伏することを決めたということを伝えたからだ。アバード軍の指揮を取っていた双牙将軍ザイード=ヘインは猛反発したものの、リセルグとセリスが死んだということをセイルから聞くと、政府の決断への反発を胸に納めた。王が死亡したとなれば、戦うこともままならない。双牙将軍はそう結論づけたのだろう。それから、彼はセイル王子の心中を察したように深々と頭を下げた。
王子は、気丈に振舞っていた。その雄々しい態度は、とても八歳の子供が見せるものではなく、彼がいかに次期国王として相応しくあるよう教育されてきたかがわかるというものだった。それなのに、世間はシーラを支持し、応援した。アバードが二分されるほどに、シーラ派を名乗る人間がいた。それもこれも、セイル・レウス=アバードのひととなりを知らないものが多かった、ということが原因であろう。
シーラの活躍は、派手だ。アバード国内の皇魔の巣を虱潰しに潰し、外敵から国土を守り、魔王討伐でも戦功を上げている。聞いただけですんなりと理解できる。シーラがいかにアバードのために力を尽くしているのか、だれでもわかる。だから、シーラこそ女王に相応しいという国民が増大したのだろう。耳触りのいい言葉に心を寄せるのは、人間ならば仕方のないことだ。
しかし、セイル・レウス=アバードの実体を知れば知るほど、彼もまた、王に相応しい人格の持ち主であることがわかる。幼さなど感じさせない精神性を持ち、聡明で、見識もある。状況を把握し、冷静に対処することができる。
王宮、王都が壊滅的な損害に見舞われ、父を母、さらに叔父を失ったという状況にありながら、泣き言ひとついわず、ひとびとの前に姿を見せている。それだけでも、彼が王に相応しい人間であるといえるのではないか。
シド・ザン=ルーファウスは、セイルの心中を想いながら、考える。
セイル派は、ただ、セイルが王位継承権保持者だから彼を支持し、応援していたわけではない。セイルが王に相応しい人格を持つ人間として成長しつつあり、名君の片鱗を見せていたからこそ、セイルを支持し、盛り立てようとしたのだ。セイル派が王宮にて権勢を誇ったのは、セイルが王位継承権の保持者であり、王と王妃の後ろ盾があったからだというのは、事実のようだが。
セイル派にはセイル派の正義があり、それはシーラ派とは相容れぬものだったのだ。
両派が激突すればアバードが真っ二つになり、混乱が起こるのは当然のことだった。そして、その激突を利用してシーラ派を壊滅させるべく暗躍したのが、ラーンハイル・ラーズ=タウラルであり、リセルグだ。
ふたりは、シーラを哀れみ、彼女を生かすにはどうすればいいのか考えぬいた。考えぬいた結果、シーラ派を消し去り、彼女にも死んでもらうことにした。それがエンドウィッジの戦いの真実であり、顛末だ。エンドウィッジの戦いは、ラーンハイルの画策によってシーラ派の一方的な敗北に終わり、シーラ派に属した将軍、貴族、軍人の多くが戦死するか、捕縛され、刑殺された。
シーラも、処刑された。
シーラを名乗るラーンハイルの愛娘が、だ。
リセルグとラーンハイルは、それで終わらせようとした。
シーラが死んだという事実が、シーラ派の希望を断ち切る。アバードはやがてセイル派一色に染まり、再び安定を取り戻すだろう。本物のシーラは、ラーンハイルの意図を汲んで、どこかでひっそりとでも生き抜いてくれるはずだ。それでいい、と、リセルグもラーンハイルも想っていた。
だが、それでは気が気でないのが、セリス王妃だった。
彼女は、狂気に取り憑かれていた。
シーラをこの世から抹消しなければ、セイルの王位継承が脅かされ続け、ついにはセイルを失う事態に発展するのではないか、という妄念が、彼女の思考を支配していた。セリスは、シーラの処刑には、立ち会っていない。立ち会っていないが、リセルグの反応などから、シーラの処刑が偽りであると悟り、本物のシーラがどこかに生きているということを知った。
それが、発端になった、というべきなのかもしれない。
シドたちは、セリスの魂を救うべく、アバードの潜在的混乱を収束させるべく、シーラを殺すために動いた。
なにもかも遠い昔の出来事のように思えるのは、昨日の戦いが鮮烈に記憶に焼き付いているからなのか、どうか。
彼は、そんなことを考えながら、王都を進んでいた。
王都は、廃墟と化している。
王都のすべての建物が破壊されたわけではないにせよ、残っている建造物よりも倒壊し、瓦礫と化した建物の数のほうが圧倒的に多く、無事な建物を探すほうが困難と言ってもいい状況だった。あれほどの化け物が暴れ回ったのだ。王宮は無論のこと、王都が無事で済むはずはなかった。王都への帰還を果たしたアバード軍の将兵は、バンドールの惨状を目の当たりにして言葉を失ったようだ。
それは、騎士団とて、同じだ。
シド率いるベノアガルドの騎士団も、アバード軍に続いて王都の門を潜った。門は破壊されていたが、それはおそらくセツナがシーラとともに王都に進入する際に壊さざるを得なかったからだろう。城壁は、無事だった。皇魔という脅威から王都の人々を護るための防壁。九尾の狐が壊さなかったのも、当然なのかもしれない。
九尾の狐はシーラで、シーラは、おそらく己の死だけを望んでいた。
破壊活動も戦闘行動も、すべて、敵意を自分に向けるためだけのものだったのではないか。自分に殺意を向けさせるためだけのものだったのではないか。
自分を殺させるために。
自分の命を終わらせるために。
きっと、彼女は救いを欲したのだ。
そのときの彼女にとっては、死が、救いだった。
すべてを失い、自分さえも見失ったのだ。死を望むよりほかはない。だが、みずから死を選ぶことは、できなかった。だから、殺されようとした。
セツナの手で、殺されることこそを望んだ。
だが、結果的にシーラは生き残り、九尾の狐は消滅した。
残ったのは、廃墟とかした王都の町並みであり、王宮の惨状だ。そして、投げ出されたひとびとである。
ひとびと。
王都そのものが灰燼と化したかのような状況にありながら、死者はひとりとしてでていないということがガンディア軍の調べで明らかになっており、そのことも、シーラがシーラたる所以であることのようにシドには想えた。シーラは、自分の死のためにだれかを犠牲にすることなどできなかったのだ。王都を蹂躙しながらも王都市民のだれひとりとして殺さなかったのが、その証だ。アバード、ベノアガルド、シャルルム、ガンディアの将兵も、だれひとり、九尾の狐に殺されてはいない。負傷したものこそいれ、命に別状のあるものはいなかった。
それがシーラの選択。
そして、だからこそ、彼女の生還を受け入れることができるのだろう。
もし、彼女が王都の人々を殺戮し、戦場でも殺戮を働いたのならば、シーラの生還を認めることはできなかっただろう。彼女ひとりのために数多の人間の死を黙殺することはできない。それは、セツナとて、同じだったはずだ。
彼がシーラの救出に拘ったのは、きっと、彼女がだれも殺していなかったからだ。自分のためにだれかを犠牲にできない心優しい彼女だからこそ、救おうとし、救い出すことができたに違いなかった。
(それで良かったのだろう)
シドは、廃墟と化した王都を王宮を目指して馬を進めていた。道中、肩を寄せ合い、悲嘆にくれる人々を散見する。国王夫妻の死を悲しみ、嘆いているのだろう。ガンディアに降伏したことを嘆いているものもいるかもしれないが、そういった声は聞かれない。むしろ、ガンディア軍に感謝しているものもいるようだった。どうやらガンディア軍は、家を失い、困窮しているひとびとのために炊き出しを行い、各所で食事を振舞っているらしいのだ。
シドは、そういった情報を耳にするなり、すぐさま騎士団騎士たちにも同様の手配をした。騎士団が是とするのは救済である。困っているひとたちを見れば、手を差し伸べるのが騎士団の流儀だ。
「しばらくはバンドールに滞在することになるだろう」
シドがベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート、ロウファ・ザン=セイヴァスに向かって話しかけたのは、騎士団騎士たちを被災民の救援に向かわせてからのことだ。炊き出しが必要ならばその手配をし、それ以外のことで力が必要ならば、その手伝いをさせる。やらなければならないことは山ほどあるだろう。なにせ、王都――アバードの首都が壊滅したのだ。壊滅し、死者がいないということは、被災民が大量に発生しているということであり、手助けを必要とする声には困らないだろう。騎士団としては、これ以上望むべくもない活躍場所といったところかもしれなかった。
「へえ」
「力仕事は、卿にとってはお手のものだろう?」
「戦うための力なんだがなあ」
「戦うだけがすべてではないさ」
太い腕を大袈裟に振り回す大男を見つめながら、シドは微笑んだ。ベインもまた、魂に救済の二字を刻まれた騎士団騎士のひとりだ。ひとを救うことに喜びを見出すのは、当然の道理だった。
「そして、救い方も、ひとつではない」
戦い、勝利するだけが救いではない。相手を殺すだけが救いではない。手を差し伸べ、引き上げることもまた、救いである。対話することもまた、救いとなる場合もある。ただ、側にいるだけで救われるものもいる。救いの形は様々で、だからこそ困難を極めるのだ。
「それはわかってるがね」
「わかっていないからごねているんじゃないのか?」
と、口を挟んできたのはロウファだ。
「なんだって?」
「駄々をこねるとか、まるで子供みたいだな」
「ああ!?」
「王子殿下の爪の垢でも煎じて飲んでみることをおすすめするよ」
「はっ、そりゃあてめえのほうだろ」
「なんでそうなる」
互いににらみ合い、一触即発の状態へと移行したふたりを見て、シドはやれやれと頭を振った。
「仲良くするのはいいが、周りに迷惑のかからないときにしてくれないか」
「皮肉はいいっての」
「冗談でも、こんなのと仲がいいだなんて思われたくはないんですが」
「同感だ」
「ほら、仲が良いじゃないか」
「はあ……」
ロウファが嘆息するのを横目に見て、ほくそ笑む。ロウファとベインの相性が圧倒的に悪いのは、昔からのことだ。理由はわからないが、ロウファがベインを毛嫌いしており、毛嫌いされているから、ベインもまた、ロウファを遠ざけた。口論するようになっただけましというべきだった。
「それで……ガンディアとは戦わないんだな」
ベインが、遠方を見やりながら、いった。彼の視線の先には、天幕を張り、炊き出しや負傷者の手当を行っているガンディア軍の部隊がいる。食事にありつこうと長蛇の列を作るひとびとや、手当を受けることができて喜び咽ぶひとたちの姿があった。
「アバードが降伏した以上、我々が戦う理由はない。アバードが徹底抗戦するというのなら話は別だったが、なにぶん、この状況ではな……」
「ま、王都復興が先決か」
「そもそも戦力が圧倒的に足りない上、陛下、王妃殿下が亡くなられた」
「混乱は、しばらくは続きそうですね」
「ガンディアがどう出るか次第だ」
ガンディアは、シーラが女王になることこそアバードのためになると公言していた。アバード政府によって売国奴の烙印を押されたシーラこそ、王位継承者に相応しく、アバードの混乱を収める唯一の方法だと主張した。そしてそれは、一部のアバード国民に支持された。シーラ派である。シーラを売国奴だといったところで、シーラ派の人々に効果があるはずもなかったのだ。エンドウィッジの戦い以降、凋落の一途を辿ったシーラ派ではあったものの、貴族、軍人はともかく、国民の中のシーラ支持者が完全に消え去ることはなかったのだ。そういったひとびとからすれば、シーラが生きていたという事実のほうが、彼女がガンディアと通じ、センティアに現れたことよりも大きい。そして、シーラこそが希望だと信じて疑わないようなひとびとには、彼女がガンディアと繋がっていようとどうだっていいのだ。ガンディアがシーラの女王擁立に力を貸してくれるのなら、これほど心強いことはない。あのガンディアなのだ。小国家群最大の領土を誇るガンディアが後ろ盾についてくれるのならば、シーラが王位継承権を得、女王としてアバードを導く存在となる日がくるのはまず間違いない。
ガンディア軍は、シーゼルでのシーラとの合流以降、ますますシーラの存在を主張し、正義を唱えた。アバードを混乱から救い上げるには、シーラが女王となる以外にはないと力説し、そのためにアバード政府にシーラの王位継承権復活を訴えた。ガンディア軍が王都への侵攻に踏み切ったのは、アバード政府が提案を受け入れなかったからであり、王都を攻め落とし、力ずくでシーラの王位継承権を復活させようという意図があったからだ。
そして、戦いは、ガンディアの勝利に終わった。
普通ならば、このままガンディアの思い通り、望み通りに事が運ぶだろうが。
シドは、更地となった王宮の有様を見て、足を止めた。
一度、目にしている。
シーラがハートオブビーストの力――だろう。間違いなく――を解放し、すべてを破壊し尽くした瞬間に立ち会っている。彼女が巨大獣となってなにもかもを踏み潰し、蹂躙し、粉々に打ち砕く様を目の当たりにしている。
果たして、王都を廃墟とした張本人が女王の座につけるのかどうか。
王都市民がそれを受け入れるのかどうかよりも、シーラ本人がどうするのか、そのことが気にかかった。