第千五十三話 夢への旅路
少女の影が消えて、どれくらいの時間が経過したのか。
シーラ姫と思しき少女の幻影が出現した原因は、わからない。それこそ、ナーレスの死にゆく意識が生み出した幻想かもしれないし、本当の死神だったのかもしれない。ジベルの死神部隊などではなく、現実に存在する死神。そんなものが存在するのかは不明だが、実際に存在したとすれば、あのような姿だったという可能性も、皆無ではない。
死の間際、意識に焼き付いた人間の姿で現れる、というのなら考えられない話ではない。命を刈り取る死神がひとのいい存在であるはずがないのだ。皮肉めいた姿で現れたとして、なんら不思議ではない。むしろ、レム=マーロウのような姿の死神こそ、不自然だ。もっとも、レムはレムでまったく構わないし、呪われた命を持つ彼女こそ、死神の名に相応しい存在もいないのだが。
呪われた命。
仮初の永遠。
セツナが死ぬまで生き続ける、という。
それは、黒き矛の能力の一端らしい。
クレイグ・ゼム=ミドナス(アルジュ・レイ=ジベル)によって仮初の生を与えられ、その末に殺されたレムを哀れに想ったセツナは、彼女に仮初の命を与えた。それが、生命の同期というものらしい。レムは、それによって生命の法を超えた存在になったといってもいいのだろう。セツナが死ぬまで、なにがあっても死ぬことはないというのなら、そうなる。
だが、それは呪いだ。
死を欺瞞し、生を偽るのだ。
それを呪いと呼ばずして、なんと呼ぶのか、
(呪い……か)
ナーレス=ラグナホルンは、なにもない虚空を見やったまま、考えていた。呪い。自分もまた、呪われている。ただし、ナーレスの場合は、逆だ。死へと加速する呪いだ。毒を食らった。食らってしまった。その毒が体中を回りきり、生命を蝕み尽くすのに、彼が想像した以上の時間がかかっている。もっと早く死ぬものだとばかり思っていた。
(もって一月……などと考えていたものだが)
苦笑する。
遥か先まで見渡す目をもってしても、自分の運命までは見通せなかったらしい。
それは、最初からそうだった。
ガンディアにいるときから、ザルワーンに潜り込んでいるときまで、自分の運命だけは、見通すことができなかった。だから、工作が発覚し、拘束されるという事態を避けられなかった。毒を得たのも、そのためだ。その毒が命を蹂躙し尽くすまでこれほどまでの時間がかかるとは、思いも寄らなかった。
おかげで、彼はみずからの作品作りに熱中することができたといっても過言ではない。毒が猛威を振るわなかったから、彼に時間を与えてくれたから、ここまで来ることができたのだ。不完全な、しかし治しようのない毒に感謝しなければならない。
毒がなければ――命の時間がもっとあれば、彼はここまで焦らなかっただろう。殺さずに済んだ命もあっただろうし、クルセルクとの戦いも、もう少し気長にやったことだろう。犠牲を最小限に抑えようとしたことだろう。少なくとも、クルセルク軍をガンディア領土に招き入れるという賭けにはでなかったはずだ。
時間がないという自覚は、彼に短期決戦を強いた。どのような戦いも、時間をかけることはできなかった。時間をかければ、それだけ、己の死が近づいてくる。平時ならばともかく、戦争の最中、死ぬようなことがあってはならない。後継者が育ち、めどが立つまでは、軍師の役割を放棄することなどあってはならない。
焦りが、犠牲を増やしたのは間違いない。
その結果、ガンディアの領土が加速度的に拡大したのは、喜ぶべきことなのかどうか。
(喜ぶべきことなのでしょう)
ナーレスは、考える。
揺れる世界の中心で、ひとり静かに考える。
龍府を目指す馬車の荷台。隣にはオーギュストがいて、彼のことをじっと見ている。ナーレスの死に様を見届けようとでもいうのかもしれない。律儀な男だ。律儀で、情の深い――まるで、ガンディア王家のひとびとのようだと想ったが、そんなことを口にすれば、彼は怒るかもしれない。怒らずとも、不快に想うかもしれなかった。彼は、サンシアン家の人間であることに誇りを持っている。
喜ぶべきは、彼の存在にも、ある。
オーギュスト=サンシアンという政治家がレオンガンドの側についたのは、手放しで喜んでよかった。彼は、ガンディアのためになるということで反レオンガンド派を抜け、こちらについた。そのおかげでセツナは死を免れ、反レオンガンド派の一掃にもこぎ着けた。ガンディアの政治がレオンガンドの意志の下に統一されたのは、オーギュストの寝返りに端を発するといっても過言では、なかった。
様々なことが、脳裏を過る。
考えがまとまらない。
きっと、死が目前に迫っているからだ。体はろくに動かず、呼吸もままならない。視界は狭まり、音も遠い。やり残したことが多すぎる。後悔がない、などとはいいようがない。当たり前のことだ。なにもかも、途中で投げ出してしまうことになる。後継者たちに任せてしまうことになる。仕方のないこととはいえ、胸を張って納得できるものでもない。
まず真っ先に上がるのは、アバードのことだ。
バンドールを巡る戦いは、どうなっただろう。
エイン=ラジャールは上手くやっただろうか。
彼の戦術通りに事が運び、勝利することはできただろうか。
きっと、上手くいっただろう、とは、想う。
ガンディアの戦力は、潤沢かつ強力だ。セツナが合流した時点で、勝利は疑いようもなかった。たとえベノアガルドの騎士団が精強であり、十三騎士が強力無比であったとしても、セツナがいる限り負ける気がしないのだ。セツナは勝利の象徴だ。セツナと黒き矛が、ガンディアに勝利を約束する。
そのうえで、エイン=ラジャールが確実に勝利をもぎ取るため、手練手管を用いるだろう。あらゆる状況を利用し、あらゆる事象を戦術に組み込むに違いない。エインという才能は、ナーレスが見出したのだ。後継者に相応しい才能の持ち主だと確信を持って、いえる。彼ならば、ナーレスに匹敵する戦術を用い、戦場を支配するだろう。
シャルルム、騎士団、アバード――すべてを利用し、勝利を収めるに違いない。
(君なら……大丈夫)
ナーレスは、エイン=ラジャールのどこか幼さを残した容貌を思い浮かべながら、微笑んだ。彼は、あの幼い顔のままなのかもしれないとも想った。幼顔の軍師。それはそれで面白いかもしれない。面白く、楽しいかもしれない。そんな彼の活躍を見届けることができないのは、心苦しいが、仕方のないことだ。
仕方のないこと。
そういって、諦める以外には、ない。
命の時間は、もはやわずかしかない。
龍府までは、持つまい。わかっている。わかっているから、龍府に向かうのだ。シーゼルの陣中で死ぬわけにはいかない。だれにも、オーギュスト以外のだれにも知られるわけにはいかない。死を秘さねばならない。ナーレスが生きていることにしておかなければならないのだ。
ふと、顔を上げる。いつの間にか、俯けていた。狭い視界に影が走る。予感がした。馬車が急に停止する。
「どうしたのでしょう?」
オーギュストが御者台を覗きに行こうと腰を浮かせたのに対し、ナーレスは、穏やかに告げた。
「敵襲でしょう」
「敵襲?」
「ウルクサールはアバードとガンディアの国境……アバードの国境防衛部隊の生き残りでもいたのでしょう」
ナーレスは、淀みなく、告げた。声が、でた。そして、自分の耳でも明瞭に聞こえた。なぜ、ここまではっきりと聞こえるのか、自分でもよくわからない。わからないが、彼にはいまやどうでもよかった。声が出て、耳が聞こえて、意識がはっきりとしているのなら、やるべきことはひとつしかない。
「部隊をまとめなさい。そして、わたしの言うとおりに兵を動かすのです」
「わたくしが、ですか?」
「あなた以外にだれが指揮をとるというのです?」
ナーレスが告げると、オーギュストは覚悟を決めたように神妙な顔になった。
事実、敵襲だった。
敵襲があったのは、馬車がシーゼルの南方に横たわるウルクサールに差し掛かったときだった。最初、森の中からいくつもの矢が飛来し、先頭を進む馬車の足を止めた。先頭が止まれば、後続の馬車も止まらざるをえない。止まっている間にも矢は飛来する。先頭の馬車の御者が頭を射抜かれて即死したものの、それ以外の死者はいなかった。兵のひとりが御者の代わりを務めることになったが、そのことは問題にはならない。
森の中からの狙撃に対して、ナーレスは馬車の後退を命じた。後退する最中も矢が飛来したが、最初の矢の飛来とともに停車したこともあって、後退すれば届かなくなった。が、届かなくなったからといって、解決するものでもない。
夕闇が迫っている。
森の中は完全な暗闇といっていい。敵は、暗闇を盾としている。夜が来れば、夜の闇もまた、彼らを守る盾となるだろう。そして、夜の闇に乗じて襲いかかってくるはずだ。時間はかけられない。
ナーレスは、三つの部隊を編成すると、二部隊を街道の脇に退けさせた馬車の側面に配置した。射程ぎりぎりのところまで前進させ、森の中に向かって弓射を行わさせた。無論、手応えはない。敵の射程範囲外ということは、こちらの射程の範囲外に敵がいるということでもある。矢の無駄遣いだが、それはどちらも同じことだ。こちらの矢は潤沢にある。敵は、どうか。
もちろん、こんな馬鹿げた戦いを続けるつもりもない。
残る一部隊を後方からウルクサールに突入させ、迂回して敵の側面を衝かせた。敵集団が巣を突かれた蜂のように、森の中から飛び出してくる。それを弓兵隊がつぎつぎと討ち取っていった。時間はかからなかった。消耗したのは、敵をくぎ付けにするための矢だけだ。兵はひとりも失わなかった。
襲撃者の死体を検分したところ、その正体は、やはりアバード軍の兵士たちであり、国境防衛部隊の生存者たちだったようだ。随分やつれていたが、それは防衛拠点を失い、森の中をさまよいながらなんとか命を繋いできたからだろう。
そして、ガンディア軍に一矢報いるため、ウルクサールに隠れていたに違いない。ガンディア軍は、ザルワーン方面以南に戻るためには、ウルクサールを通る必要がある。待ち伏せるには、持って来いだ。だが、十人たらずの戦力では、一矢報いるのがやっとといったところで、それも戦力になりえない御者を射殺したに過ぎない。
なんとかして命を繋ぎ、身を潜めてきたことの結果がこれでは、兵士たちも浮かばれないだろうが。
それもまた、仕方のないことだ。
「さすがは軍師様ですね」
馬車に戻ってきたあとのオーギュストの素直な感想が、少しばかり嬉しかった。簡単な戦いだ。きわめて単純で、だれでも思いつくような戦術。さすが、などといわれるものでもない。オーギュストが感心してくれるのは、彼がこれまでの人生で戦闘などほとんど経験したことがないからだ。サンシアン家は特別な立ち位置にいる。戦場に立つ必要のない家といっていい。そのわりには、そつなく指揮官の役割をこなせていたのだから、血筋というものは、恐ろしい。
不意に理解する。先ほどの戦いの意味。運命の形について。
「なるほど」
「はい?」
「これが、わたしの最期の戦いらしい」
苦笑する。
このような簡単な戦いが人生の幕を下ろすために用意されたのだとすれば、面白くもあり、おかしくもあった。皮肉めいてもいる。これまでの戦いの総決算などでは、断じてない。初歩も初歩だ。故にこそ、必要な戦いだったのかもしれない。
軍師が死ぬための儀式だったのではないか。
体から力が抜けた。空転する。視界が流れた。
「ナーレス様……?」
オーギュストがなにかをいったらしい。らしい、というのも、音が、聞こえなくなっていた。音が聞こえなくなると、記憶も定かではなくなる。なにをいったのかさえ、理解できない。
目は、それよりもずっと早く見えなくなっていたらしい。前後がわからないのは、意識がまともに働いていないことの証明なのだろう。痛みは、ない。痛覚はとっくに失われていたらしい。気づかないうちに、戦いに熱中している間に、だ。
なにもかも失われていくのがわかる。
ナーレス=ラグナホルンという人間を形作っていたものが、音もなく崩れ落ちていく。
(これが……死……か)
茫然とする。
理解していたことだ。
死ぬことは、わかっていた。戦場に立つ身だ。いずれ、どこかの戦場で死ぬだろう。覚悟はしていた。だが、まさか、このような最期を迎えるとは、想像だにしていなかった。毒を得てからは、考え方も変わり、どこかで野垂れ死ぬこともあり得ると思い始めていたが。
(いや……これでいい)
ナーレスは、暗闇の中で、認める。
これが、いい。
こういう最期でいいのだ。
戦場で死ねば、全軍の士気を下げることになりかねない。平時、ひと目につくような場所でも死ねない。彼の死は、良いにせよ悪いにせよ、政治に影響を与えること間違いないからだ。
生き続けよ。
彼は、想った。
ナーレス=ラグナホルンという名は、生き続けなければならない。
生き続け、ガンディアの守護神となるのだ。
生き続けよ――。
ナーレスは、闇の中に溶けていくのを認めて、目を閉じるのを意識した。意識したところで、もはや肉体を動かすことはできまい。だが、構わない。意識して、目を閉ざす。
目を閉ざし、夢に落ちる。
声が聞こえた気がした。
懐かしい声。
シウスクラウドが呼んでいる。
ミレルバスが笑っている。
レルガ兄弟も、待っている。
行こう。
再び、夢を見るために。
オーギュストは、ナーレスの手を取り、反応さえなくなったことに気づいて、茫然とした。そして、理解する。混乱はしない。取り乱しもしない。ただ、厳然たる現実を目の当たりにし、理解し、認識するだけのことだ。悲しみにくれるのは、それからでいい。
もはや脈はなく、体温が急速に失われていくのがわかる。
ナーレスがいったとおりになった。
龍府への道中、死ぬだろう。
彼の目論見通り、彼の思惑通り、彼は、死んだ。
死は、オーギュストだけが看取った。オーギュストだけが、彼の死を知った。死を秘さねばならない。隠し通すことこそが力となる。牽制となる。ナーレスが生きている限り、ガンディアは無敵だ。
軍師ナーレスは、いまや軍神の如く崇められている。
軍神ナーレスと英雄セツナ。
戦においてはガンディアの両輪となるふたりがいる限り、ガンディアが破れることはない。ガンディアは盤石であり、レオンガンド王の元、栄光に満ちた道を進み続けるものだと、だれもが信じている。
オーギュストとて例外ではない。
いや、彼は特にそう思っていた。参謀局に配属されて以来、右も左も分からない彼に手取り足取り様々なことを教えてくれたのがナーレスであり、触れ合ううち、軍師ナーレスの凄まじさを理解したのだ。それこそ気が遠くなるほどの膨大な量の情報を頭に詰め込み、それを元に戦略を練り、戦術を編み出す。オーギュストには到底真似のできることではなかったし、軍師の後継者候補であるエイン=ラジャールとアレグリア=シーンにも同じことが言える。
尊敬するべき人材たち。
故に、彼は全身全霊で持って、参謀局の力になろうと思ったのだ。彼ら参謀局こそ、ガンディアの将来を担う組織なのだということが理解できたからだ。
そして、その頂点に君臨する参謀局長にして軍師ナーレスこそ、ガンディアに必要不可欠な存在なのだと改めて思い知った。
だから、彼が己の死期について話すとき、オーギュストは、いつも胸を締め付けられた。冗談だと想いたかった。嘘だと笑い飛ばしたかった。
実際、ナーレスが死に至る毒に蝕まれていると言い出してから随分経つ。彼は、あれからいくつもの戦場に出ていて、多くの勝利に貢献している。特にクルセルク戦争では、連合軍全体の戦術戦略を一手に担うという八面六臂の活躍を見せた。クルセルク戦争後は、それまでの彼が嘘のように王都を飛び回り、王宮や王都の人々を戸惑わせた。
なんだ、元気じゃないか。
オーギュストは、安心した。
ナーレスの体を蝕んでいた毒が消え去ったものだとばかり、思っていた。
だが、現実は、そこまで甘くはなかった。
六月の頭くらいからだろうか。
ナーレスの体が、急激に痩せ始めた。胃が食べ物を受け付けなくなり、無理に食べても、吐き出すことが多くなった。食べなければ体が持たなくなる。といって、食べれば吐き出してしまう。オーギュストには、どうすることもできなかった。彼が痩せ衰え、死に向かっていくのを見届けることしかできなかった。
『それで良いのです』
オーギュストがなにもできないことに苦しむたびに、ナーレスはそういって、微笑んだ。
『あなたは、わたしの死を見届けてくださればよい。わたしが確かに生き、死んだということを覚えてくだされば、よい』
オーギュストは、目頭が熱くなるのを止められなかった。止めようとも、思わない。頬を熱い液体が伝い、顎からこぼれ落ちる。
『そして、わたしの死を、胸に秘しておいてください』
揺れる馬車の中、オーギュストは、ナーレスの亡骸を見守り続けた。死を秘匿するためには、その死を見届けなければならない。
皮肉で、辛いことだ。
だが、自分以上に辛いのがナーレスだったに違いない。
そんなことを、想う。
馬車は、やがて国境を越えるだろう。
ナーレスの魂をガンディアに運ぶため。