第百四話 影と踊るように
王宮大広間は、騒然となっていた。
軍人のうち酔っていないものは一斉に要人の警護のために動いた。貴族たちはわけもわからぬまま、安全な場所へと避難させられる。それでも完璧とはいえないが、なにもしないよりは遥かにマシだろう。
なにが起こったのかわからないが、だれもセツナに問うこともできなかったのは、彼が黒き矛を召喚していたからだ。数多の敵を殺戮したという召喚武装を目の当たりにして、だれもが息を呑んだ。
セツナは、大広間の状況などお構いなしにテラスを睨んでいる。彼の手に握られた禍々しい黒き矛の切っ先が、闘争の予感をルクスにも伝えてくる。
「なんだ? いったい」
「さあ?」
傭兵団の団長と副長は、目の前の獲物に夢中らしく、特に興味を示さなかった。ルクスは、自分は将来そんなふたりのようになってしまうのだろうか、と愚にもつかぬことを考えた。
そうしている間にもセツナが動く。矛を旋回させ、なにを叩き落とした。ガラス片が、彼の足元の肉に突き刺さり、テーブルの近くにいた男が腰を抜かした。ガラス片は、テラスから飛来したものだろうか。だとしたら、だれかが投げて寄越したに違いなかった。セツナが窓を割って飛び込んできてから、時間差がある。
「敵か」
「そんなもので対抗するのですか」
「あー……」
ナイフとフォークの二刀流で視線を巡らせていたシグルドは、ジンの一言ですぐさまばつの悪そうな顔になった。晩餐会だ。当然、武器など持ち込んでいない。だからといって、食事用のナイフでは、思うままに戦えない。無論、戦い方次第では敵を撃退することも、殺害することも可能ではあるが。
そもそも厳重な警備の施された王都の、幾重にも張り巡らされた防衛網の中枢なのだ。鼠一匹通さない堅固さは、このようなときにこそ真価を発揮するはずだった。
それが、破られたのか。
「セツナ、なにを……!」
ファリアが非難するように叫ぼうとしたらしいが、未遂に終わる。敵が動いた。テラスから、セツナに向かってなにかが飛来する。ルクスがそれを人体だと認識できたのは、セツナが、相手の飛び蹴りを矛で受け止めたからだ。給仕服のスカートが翻る。体を捻り、もう一方の足で柄を蹴ると、反動でさらに跳んでみせた。セツナの後方五メートルほどの位置にあったテーブルに音も立てず着地する。食器と食器の隙間に足がついていた。皿もグラスも微動だにしていない。
軽業師のような体技だ。一朝一夕に真似できるようなものではない。
セツナが女に向き直る。女は悠然と両手を翳した。と、どこからともなく現れた食事用のナイフが、セツナ目掛けて飛んでいった。セツナは、怯むことなくナイフを叩き落とす。透かさずフォークがセツナに向かった。返す刃で叩き斬り、続け様に飛来した三枚の皿もことごとく粉砕してみせた。破片が散乱に、晩餐会場がめちゃくちゃにされていく。
まるで魔術でも見ているかのような光景に、多くのものがは開いた口が塞がらないようだった。悲鳴も上げられない。そして、だれひとりとして、ふたりの戦いを止めることができない。
「あの女、鋼線使いだな」
いつの間にか料理を手放したシグルドは、目を細めていた。そのとき、団長の野性的な風貌に威厳が備わったように見えたのは、ルクスの贔屓目だろうか。
「鋼線……」
セツナへと殺到する食器が淡々と破壊され、甲高い破砕音が鳴り響く中、ルクスは女の指先に注視した。時折腕を振り回すような仕草をするものの、女が基本的に動かしているのは指先だけだった。一見、なにも持っているようには見えない。しかし、目を凝らして見ていると、光の反射を認識できた。十本の指先から、糸状のものが伸びているのがわかる。
そこまでわかればあとは簡単だ。腕や指の動きで操られた鋼鉄の糸が、縦横無尽に虚空を走り、そこかしこのテーブルからナイフやフォーク、空になった皿を捕獲しては、セツナに向かって投げつけている。もちろん、そんな芸当、簡単にできるものではない。長い長い鉄の糸を自由自在に操るなど、人間業ではない。
ルクスでさえ、戦慄を覚える。これほどの技能者が、いまのいままで表舞台に出てこなかったというのか。黒き矛のセツナを手玉に取るほどの一方的な攻勢を見る限り、どこかの戦場に出ていれば、勇名を馳せたに違いない。もっとも、セツナがひとりきりのところを襲ったあの女は、戦場で生きるような人物とは思えないが。暗殺者か、それに近い立ち位置のものだろうか。だとすれば、騒ぎを大きくしすぎだったが。
ルクスは、一度手合わせしてみたいと思いながらも、関わり合いになりたくないとも思った。どちらも正直な気持ちだった。あの女のような荒唐無稽な戦い方をする人間とは、戦場で巡りあう可能性は低く、そういった意味では戦ってみたいのだが。無意味に終わるかもしれない、という意味では戦いたくもなかった。
破壊音が止んだ。女が攻撃の手を止めたのだ。だが、それで終わりではないのは、だれにだってわかる。女は、両手を頭上に掲げていた。まるで見せつけるような動作は、演出のようにも見えたが。
次の瞬間、セツナの頭上からナイフとフォークが滝のように降り注ぐ。セツナは、対抗せずに飛んだ。前方、女に向かう。ナイフとフォークはテーブルに突き刺さるか、床を跳ねた。セツナが、あっという間に女との距離を縮めた。女は、笑ったようだ。両腕を胸の前で交差させる。セツナは相手の動作を無視するかのように、黒き矛を叩きつける。激しい金属音が耳に刺さる。女の眼前に構築された鋼線の壁が、黒き矛を受け止めたのだ。
セツナは、予想外の展開に目を丸くしたが、反撃を嫌って後ろに飛んでいた。女は、鋼線の防壁を解いただけで追撃しなかった。食器類を投擲することもしない。様子を見ている。
別のテーブルに着地したセツナは、黒き矛を構え直した。女は、特に構えもしていない。とてつもなく長い射程を誇る鋼線を自在に操る女だ。構える必要などないのだろう。いや、その自然体のような体勢こそ、女の戦闘態勢なのかもしれない。
緊迫感が、王宮大広間に満ちた。だれひとりとしてふたりの対決から目が離せない。貴族も軍人も賓客さえも、彼と彼女の戦いに見入っていた。恐怖に震える必要はないことがわかったのだ。女の目的はセツナひとりだと、理解できた。黒き矛ならば負けはしないだろうという共通認識が、安堵を生んでいた。
再び、ふたりが交錯する。セツナが矛を叩きつけるたび、女は矛の軌道上に鋼線の盾を構築し、受け止めてみせる。激突のたびに音が響き、火花が咲いた。まるでふたりは踊っているようだ。互いの命を賭けた死の舞踏。戦場を知らぬものすら息を呑み、見惚れるほどの凄まじい衝突。矛が舞い、鋼線が踊る。華麗に、苛烈に。
(ふむ……)
ルクスは、ふたりが本気では戦えていないことを残念に思った。女は、隙あらばセツナの首を狙っている素振りこそ見せてはいるのだが、その実、隙を作ろうとはしていない。セツナもセツナで、黒き矛の全力を解放してはいなかった。それで倒せると踏んだわけでもあるまい。だが、外へ誘い出そうにも、女が乗らないのだ。仕方なく、円舞を続けている。
いつまで続くものかと思っていると、拍手が響いた。セツナと女、ふたりがぴくりと反応する。両者は即座に飛び離れ、別々のテーブルに着地した。セツナの足元では食器が踊り、女のテーブルに変化は起きない。技量の差は明確だった。両者が本気なら、首が飛んでいたのはセツナかも知れない。
セツナが、黒き矛の切っ先を天に向けた。戦闘の終わりを告げるように。
拍手していたのは、レオンガンド王だった。部下に護られた王は、彼らを押し退けるようにして前に出ると、静まり返った会場の人々の視線が自分に集まるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「いかがでしたか、我が黒き矛の演武。彼の実力が皆さま方にもおわかり頂けるよう、趣向を凝らしてみたつもりなのですが、お気に召しませんでしたかな」
会場がどよめきで包まれ、歓声へと変わる。拍手喝采は、戦場を知らぬ貴族たちからだ。軍人の中でも、セツナの戦いを目にしたこともない連中は、その凄まじさに舌を巻いただろう。旧ログナーの人々にしてみれば面白くもない出し物だったに違いないし、少なからずガンディアへの心象を悪くしたものもいたかもしれないが。場を収めるにはこの方法しかなかっただろう。
セツナがばつの悪そうな顔をしながら、テーブルから飛び降りる。
相手の女は、いつの間にかいなくなっていた。女が気配を消したのは、衆目が王に集中したときだ。ルクスは気配の消失には気づいたが、視線を女のいた場所に戻した時には完全に消え失せていた。やはりただものではない。
セツナを中心とした大きな輪ができるように、人々が離れていくのが見えた。黒き矛を手にした彼には、近寄りがたいものがあったのだ。それはルクスにも理解のできる感情だったし、観衆にセツナの心情を察しろというのは無理な話だ。
セツナは、どうすればいいのかわからず、途方に暮れている様子だった。
「まったくもう……」
ファリアが頭を抱えるのもわからなくはない。
「セツナ、御苦労だった。もう戻っていいぞ」
レオンガンドの助け船に、セツナがほっと胸を撫で下ろすのがわかった。彼は、王に深々と頭を下げると、黒き矛を送還し、そそくさとファリアたちのテーブルに戻っていった。
「うまいまとめかたではありますね」
「まあな」
感心するふたりを他所に、ルクスは、自分たちのテーブルの上からは食器がなくなっていないことに気づいた。ほかのテーブルには、代わりの食器が運ばれ始めている。また、給仕や使用人たちが、場内に散乱した食器の破片を片付けるため忙しく動いている。怪我人ひとりいないのは、幸運だったのかどうか。女の攻撃対象にならなかったとしても、飛び散った破片で怪我を負う可能性もあったのだが。
「いまの戦い、おまえはどう見た?」
シグルドに問われ、ルクスはセツナに視線を移した。彼は、肩の荷が下りたように安らかな顔をしている。
「どうということもないですよ。ただのくだらない戯れとしか言い様がない。セツナは本気じゃなかったし、相手も同じ。見ていて、得るものはなかった」
本気なら、あんな戦い方にはならないだろう。大袈裟な演出にも思える。そう考えれば、レオンガンド王の言もあながち嘘ではないのかもしれない。黒き矛の実力を見せつけるための演武。それには成功しているだろう。セツナを遠巻きに見る人々の目は、晩餐会が始まった当初とはまるで違っていた。
とはいえ、セツナには知らせていなかったように思えてならなかった。彼はいま、ほっとした顔でファリアの説教を聞いている。すべてを最初から知っていた人物の顔ではない。
「確かにな。だが、仕方ないんじゃないのか? 彼が本気を出せばどうなるのか、おまえだってわかってるだろ」
「ええ」
場所が場所だ。大勢の要人が一堂に会した大広間。黒き矛が本気を出せば、巻き添えに何人死ぬかわかったものではない。黒き矛の戦い方はただただ苛烈だ。味方殺しをするような戦い方ではないにせよ、こんな場所では巻き添えが出る可能性は大いに有った。彼は彼なりに力を抑えていたのだ。が、抑え方があまりに拙すぎた。
ただ遊んでいるだけの相手に、押されていた。圧倒されてはいなかったものの、決定打が出せない以上、じりじりと敗北への道をたどるだけだっただろう。
彼は、力の制御ができていないのだ。召喚武装を支配し、その力の引き出し方、使い方が理解できていれば、いまの戦いで押されることもなかっただろう。
ただ殺戮すればいいだけの戦場ならそれでいい。だが、そんな戦いばかりではないのだ。ときには力を抑えることも必要になるはずだ。
「わかってますよ。彼の本気は、戦場でしか見られないってね」
それで、この話は終わるはずだった。