第千四十六話 白毛九尾(七)
声が、氾濫している。
『きらい』
精一杯の声。
『きらい』
精一杯の叫び。
『きらい』
精一杯の、強がり。
『きらい』
慟哭。
セツナは、廃墟と化した王都の真ん中で、耳に飛び込んでくる数多の声を聞いていた。声は、少女のものだ。しかし、聞き知っている。よく、知っている。幼さが残っているものの、彼女の声に違いなかった。
「シーラ……」
シーラの声。
九尾の狐への変貌による副作用か何かだろうか。あるいは、そうやって主張することで、敵意を集めようという魂胆なのか。
「追わぬのか?」
「……追うに決まってるだろ」
「急がねば、間に合わぬかもしれぬぞ」
「わかってる」
ラグナのいうとおりだった。
シーラは、死を望んでいる。
殺されたがっている。
だから、王宮を破壊し、王都を破壊し、その上で戦場に向かった。おそらく戦場を蹂躙し、すべての敵意を自分に向けさせるつもりなのだ。そうすることで、殺させようとしている。みずから命を絶てないから、絶とうとしても、セツナや周囲のひとびとに止められるから、そうするしかない。殺さなければ止まらない暴威となるしかない。憎悪と殺意の対象をなるほかない。そうでもしなければ、死ねないから。
そうでもしなければ、終わらせることができないから。
悲しみを断ち切ることができないから。
急がなければならない。
急いで追いかけなければならない。
九尾の狐の正体を知っていようと知っていまいと、暴威の塊とかしているそれを放置することなど、ありえない。倒す以外の選択肢などないのだ。そして、倒すということは、殺すということだ。ほかには、考えられない。ほかの選択肢など、あり得べきではない。シーラがそれを望んでいる。彼女は、敗北が死に繋がるような戦いを行うだろう。そのために蹂躙するに違いない。戦場を蹂躙し、すべてを敵に回すのだ。アバード、ベノアガルド、ガンディア、シャルルム――全勢力を敵に回せば、全勢力の力が九尾の狐に注がれれば、さすがの怪物も倒れるだろう。
特に武装召喚師たちと死神、ベノアガルドの騎士たちが力を合わせるようなことがあれば、九尾の狐ほどの化物といえど、倒せないとは思い難い。
だから、急がなければならない。
急がなければ、取り返しの付かないことになる。
(ここからじゃ遠すぎる)
九尾の狐は、一足飛びに王都の城壁を飛び越え、瞬く間に戦場へといってしまった。しかし、セツナの足では、戦場に辿り着くまでにかなりの時間を要するだろう。全速力で走ったところで、辿り着いたときには、戦いが終わっている可能性があった。そして、戦いの終わりは、九尾の狐の勝利ではなく、四勢力の勝利となるはずだ。
それは、シーラの勝利でもある。
望み通り死ぬということは、勝利といってもいいだろう。
つまりセツナは、シーラの勝利を邪魔するべく、行動を起こそうとしている。
セツナは、右手に握った黒き矛を一瞥すると、矛先を旋回させた。腿を浅く切り裂き、血が吹き出す瞬間を見た。血の中に景色を見る。視界が歪み、暗黒が訪れる。一瞬の暗転。つぎの瞬間、世界に色彩が戻り、叫喚と熱狂が意識を包み込んだ。
戦場。
戦場は白い霧で包まれており、なにがなんだか、よくわからない。声が氾濫し、そこかしこから聞こえてくる。シーラの声。シーラの慟哭。シーラの絶叫。死を望む叫びだ。
「転移能力とは、便利なものですね」
声は、すぐ後ろから聞こえた。
「シド!」
振り向くと、シド・ザン=ルーファウスが涼しい顔で立っていた。白霧の濃度たるや猛烈なのだが、至近距離ならば表情くらいわからないではない。彼は、セツナの左肩に置いていた手を離すと、こともなげに言い放ってくる。
「王都へ転移するのを見ていましたから、便乗させていただきました」
「……てめえ」
セツナは睨んだが、彼にかわされた。
「さて、シーラ姫に、わたしどもの技が通用するかどうか」
「させねえってんだろ」
「させない、とは?」
シドの目は、冷ややかだ。
「放っておけば、全軍壊滅の憂き目を見ることになるだけです。あなたは、自軍の将兵よりも、シーラ姫のお命のほうが大事だとおっしゃるのですか?」
「だれもそんなこといってねえだろ」
「わたしには、そういっているようにしか思えませんが」
彼は、やれやれと頭を振った。シドの反応は、正しい。セツナはわがままをいっている。その自覚もある。現状を早急に終息させ、シーラを救う一番の方法は、彼女を殺すことだ。
「死を望み、そのために暴れ狂う獣姫。姫様の望みを叶え、その魂を救うには、殺すしかない。ほかに方法があるとでも? まさか、これから探すつもりじゃないでしょう? そんなことをしている暇があるはずもない」
シドのいっていることは、道理だ。
理解はできるし、シーラがそう望んでいることなど、百も承知だ。シーラはずっと死にたがっていた。自分のせいで愛する祖国を混乱に陥れてしまったことを悔い、また、多くの犠牲を払ったことも悔いていた。いや、そもそも、シーラ派と王宮の対立が深刻化した時点で死を望んでいたのが、彼女だ。だれよりも責任感が強く、なにもかもひとりで背負い込んでいる。
いや、ひとりで背負い込む以外にはなかったのかもしれない。
王位継承者でもない王女には、ほかに選択肢などなかったのかもしれない。
そういう意味では、龍府でセツナを頼ったのは、彼女としては破格の行動だったのだろう。相当な決意の末での行動だったはずだ。恥も外聞もかなぐり捨てての行動。だから、ではないにせよ、セツナは彼女の申し出を聞き入れ、彼女を庇護下に置いた。庇護下に置き、守り抜くと決めた。頼られたのだ。頼られ、応じた以上、応えなくてはならない。
でなければ、嘘だ。
セツナは、右太ももの痛みを黙殺すると、シドから視線を逸らした。そのまま視線を巡らせ、白霧の中をさまよわせる。視界を包み込む白霧は、まず間違いなく、九尾の狐が発生させたものだ。これでは、いかに黒き矛の補助を得たセツナであっても、九尾の狐の居場所を見つけることは簡単ではない。どれだけ視力が良くなったところで、視界を白く塗りつぶされれば、なにも見えないのと同じだ。音で聞き分けようにも、氾濫する少女の声が巨大獣の居場所を判別させない。気配を探ろうにも、戦場には数多の気配で満ちている。においもそうだ。
不意に、シドがセツナの前に出た。彼は剣に雷光を帯びさせながら、振り返りもせずにいってきた。
「あなたはここで見ているといい。わたしたちがシーラ姫の魂を救うのをね」
シドが地を蹴った。彼の姿が稲妻のようになって視界から消える。視界は、白霧によって狭まっている。シドを目で追うことは不可能だった。
「どうするのじゃ?」
「どうもこうもねえ」
「む?」
「行くしか、ねえだろ」
地を、蹴る。
蹴った勢いで、飛ぶ。跳躍。足が痛んだが、たいしたことではない。彼女の苦しみに比べればなんてこともない。苦しみ。彼女は苦しみ続けた。苦しみ抜き、それでもなんとかここまで来たのだ。何度も死のうと想っただろう。死ねば、少なくとも、その苦しみからは開放される。たとえすべてが失われ、無に消え去ろうとも、絶望的な苦痛の中でのたうち続けるよりは、いい。そう想ったとしてもおかしくはないくらい、彼女は追い詰められていた。それがわかっていて、手を差し伸べてやることさえできない自分の不甲斐なさに腹が立つ。彼女のためになにかできたのではないか、彼女の痛みを肩代わりすることはできなくとも、苦しみを分かち合うことなどできなくとも、受け止めることくらいなら、出来たのではないか。
後悔ばかりが頭の中に浮かんで、消えた。
白霧の中を疾走する。敵味方が入り乱れた戦場は、白霧によってまさに混沌と化している。声が聞こえ、少女の姿が散見された。シーラによく似た少女の幻影。
『きらい』
いくつもの声が聞こえ、白い霧の中に消えてなくなる。
それがいったいなにを意味しているのかは、わからない。
ただ、九尾の狐に敵意を集めさせるためだけのものなのか、それとも、なにかを訴えてきているのか、セツナには見当もつかない。セツナはただ、九尾の狐を探し求めて走り続けるしかない。
「セツナ! ちょっ――」
「御主人様!」
ミリュウとレムの声が聞こえたかと思うと、
「セツナ!?」
「隊長!?」
ファリアとルウファの叫びが聞こえた。
が、セツナは立ち止まらなかった。立ち止まっている暇はない。わずかでも足を止めれば、それだけシドに追いつけなくなる。いや、とっくに追いつけていない。速度では、シドのほうが圧倒的に上であり、こればかりはいくら黒き矛の力を引き出したところで到達できないのではないか、と思い知らされた。いくら脚力を引き出したところで、雷光のように移動する彼には到底追いつけない。
(追う必要はない)
ではなぜ、急ぐのか。
単純なことだ。
急がなければ、シドがシーラを殺してしまうからだ。
シドは、シーラを殺すことを躊躇わないだろう。それがベノアガルドの騎士団の正義ならば、正義の実行を躊躇うとは、とても思えない。殺すことが救いと信じているのなら、なおさらだ。そしてそれが理解できるから、口惜しい。
シーラの苦しみ抜いた魂を救うには、その生を終わらせるしかない。
(本当にそうか? 本当に、それしかないのか?)
セツナが自問の言葉を吐いたとき、分厚い白霧の層を抜けた。
呆れるほどの青空の下、大地の覇者のように君臨する白毛の九尾の狐が、いた。純白の体毛が陽光を受けて眩く輝き、戦場を見下ろす青い眼は、湖面のように澄んでいる。ただただ美しい存在だった。化物などとはいえないような美しさと、威厳と、圧迫感を兼ね備えた存在であり、神聖さ、荘厳ささえも感じずにはいられなかった。
茫然と足を止めたのは、そのせいだ。そして、セツナが足を止めた隙に、騎士団騎士の攻撃が始まった。
まず、ロウファ・ザン=セイヴァスの放ったものであろう光の矢が、九尾の狐へと殺到し、尾の一振りでかき消された。つぎにベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートが怒号とともに飛びかかり、これもまた尾の一振りで叩き伏せられた。かに見えたが、ベインはすぐさま起き上がり、右拳を思い切り振り上げる。猛烈な力の奔流が渦となって大地をえぐり、九尾の狐へと襲いかかる。しかし、やはり尾の防壁に妨げられ、本体には直撃しない。
そこへ、シドが飛びかかった。雷のような変則的な動きで接近し、尾の薙ぎ払いを避け、本体へと迫る。シドが雷光を帯びた剣を白狐の背に突き刺そうとした瞬間、どこからともなく現れた尾が彼を叩き落とした。尾は九本。どこから飛んで来るのかわかったものではない。
シドは空中で軌道を変えると、そこへロウファの光の矢がつぎつぎと打ち込まれる。乱射だ。何十もの光の矢が九尾の狐に襲いかかり、九尾の狐は、その尽くを尾で払い、対処した。が、その尾に頼りきった行動が付け入る隙となる。尾による防御の間隙を貫き、地上からはベインが、空中からはシドが攻撃を開始する。尾は、光の矢を防ぐことに使われている。光の矢だけではない。騎士たちの猛攻に合わせて、騎士団兵士やアバード兵が攻撃を始めていた。ガンディア軍、シャルルム軍も攻勢に参加しており、凄まじい量の矢が九尾の狐に襲いかかった。
白霧は、いつの間にか消えていた。
九尾の狐が消したのだろう。
殺されるためには、自分の居場所を明らかにするしかない。
セツナは、シーラの心情を読み取って、歯噛みした。動く。立ち止まっている場合ではない。ベインの光拳が白狐の前足に叩きつけられ、シドの雷光剣が背中に突き刺さった。九尾の狐が起き上がり、体を震わせる。九本の尾が、暴風のように振り回され、周囲に殺到しつつあった全軍の兵士たちを吹き飛ばし、ベインやシドも吹き飛ばした。光の矢も九本の尾によって掻き消される。
矛を握る。強く、握る。九尾の狐までの距離は、そう遠い。尾の攻撃範囲外。踏み込めば、巨大な尾に薙ぎ払われる。といって、範囲外から攻撃したところで、効果は薄い。
(攻撃?)
セツナは、自分がなにを考えているのかわからない。
シーラを救うには、どうすればいいのか。
殺す以外の選択肢。
そんなものがほんとうにあるのか。
いずれにしても、九尾の狐を止める必要がある。だから、攻撃しなければならない。攻撃して、九尾の狐の攻撃をやめさせなければならない。やめるだろうか。やめないだろう。彼女は、ただ、死を求めている。黒き矛による攻撃など、待ってましたといわんばかりだろう。
黒き矛は、敵に死を約束する。
彼女は、そのために敵となった。
敵となることで、セツナに殺されようというのだ。
(俺に……か)
セツナは、ふと思い至ったことに愕然とした。
だから、強力無比な怪物と成り果てたのだろうか。だから、戦場を蹂躙しながら、兵士たちや騎士たちに殺されずに戦い続けているのだろうか。
セツナに殺されるために。
黒き矛によって絶対の死を得るために。
でなければ、納得のできないことがある。
殺されるだけが目的ならば、騎士たちに殺されても構わないはずだ。シドたちはいま、九尾の狐に対して果敢にも攻め立てている。致命傷こそ与えられないものの、手傷を負わせることには成功している。だが、このまま攻め立てても、白狐を倒しきることは不可能に近い。
それは、白狐の傷口が少しずつ塞がりつつあるのがわかるからだ。
「まるでかつてのわしのようじゃな」
ラグナが述べた感想が、セツナの考えを確信に至らせる。
強力な再生能力は、死を望むシーラには不要の長物だ。しかし、シーラは知っている。セツナならば、セツナと黒き矛ならば、その程度の再生能力など無視して、絶大な力を持ったワイバーンを討滅しうるのだということを、知っている。
シーラは、セツナに殺されたいのだ。
セツナは、吼えた。