第千四十四話 白毛九尾(五)
闇が、その勢力を増してきているらしい。視界は暗く、世界は遠い。世界そのものが激しく揺れているにもかかわらず、震動を感じないのは、五感が失われかけているという証なのだろう。あらゆる感覚が肉体から失われ、やがて、なにもかも消えてなくなるのだ。
死が、近い。
極めて近い。
二歩、三歩といったところまで近づいてきているのではないか。
そんなことを、思う。
(あと数時間といったところかな)
ナーレス=ラグナホルンは、極めて冷静に、自分の死を認識していた。
死は、決まっていたことだ。
逃れられることもできなければ、先延ばしにすることもできない、絶対の運命。
(そのわりには、長く生きた)
思った以上に生き伸び、想像していた以上に、ガンディアに貢献できた。レオンガンドの夢に力を貸すことができた。レオンガンドの夢。シウスクラウドの夢。シウスクラウドとの約束。約束を果たすことは、できた。レオンガンドの力になってほしいというシウスクラウドの最期の願いだけは、叶えることができた。
それだけで、十分ではないか。
悔いがないわけではないが、そんなことを言い出せば、人生、悔いだらけだ。
あのときああしていれば、もっと良い結果を出せたのではないか。あのとき別の策を採用していれば、犠牲を出さずに済んだのではないか。犠牲を払わずに勝利する方法もあったのではないか。死者をひとりも出さない勝利こそ至上だ。それは、彼にもわかっている。だから、彼は自分をこの世で最高の軍師などとは思わない。所詮は人間。すべてを見通せるほどの目を持っていなければ、あらゆる状況に対応できるほどの想像力も有していない。
できることは、やってきたつもりだ。
それでもきっと完璧ではない。
どこかに穴があって、そこから崩れ落ちるという可能性も皆無ではないのだ。
だから、生きられるのなら、もう少し生きたかった。
(もう少し)
時間がほしい。
時間があれば、もっと、できることがある。きっと、さらにガンディアに万全を敷くことができる。万全の状態にした上で、死にたい。そうしなければ、死んだ先で後悔するのではないか。
死の間際になって、彼は、あがいた。
あがくうち、上体を起こしていた。揺れる馬車の中、視界は暗い。荷台だ。寝たままのナーレスを龍府まで移送するためには荷馬車に乗せるしかない。オーギュスト=サンシアンの判断は的確だ。彼にすべてを任せてよかった、ということだ。そのオーギュストは、寝ている彼の隣に座っており、彼が突如として起き上がったことに驚いていた。なにか口走っている。聞こえない。
世界が遠い。
きわめて希薄な現実感の中で、彼は茫然とした。茫然と、オーギュストの顔を見て、馬車の中を見まわす。馬車の荷台。積み上げられた荷物は、ナーレスがシーゼルに持ち込んだ書類や衣服の類であろう。オーギュストのものもあるだろうし、それだけではないかもしれない。馬車が揺れるたび荷物が揺れる。しかし、ナーレスは、揺れを感じない。
世界が、遠い。
遠い世界で、彼は、異様な気配を感じた。
(なんだろう?)
彼は、疑問とともに荷台の後方を見ていた。気配は、その先から感じる。南下する馬車の後方とはつまり、シーゼルのある方角だ。しかし、ナーレスが感じた気配は、シーゼルなどよりもずっと遠くから発せられているような気がした。きっと、気のせいだ。彼は苦笑する。気配。そのようなものを感じ取れるだけの感覚が残っているとは、思いがたい。
五感の殆どは失われ、こうして上体を起こせていることでさえ奇跡と言っても過言ではないような状態なのだ。気配を察知するような感覚だけが研ぎ澄まされているわけもない。気のせい。思い過ごしだ。そう思い、再び布団の中に潜り込もうとしたそのときだった。
白が、視界を過ぎった。
彼は、はっとした。はっと目を見開き、それが形になるのを見届けた。白い影。死神のようなものが実在していて、彼に死を告げるために現れたのではないか。ナーレスはそんな事を想像して、あまりのくだらなさに吹き出しそうになった。そんなこと、あるはずもない。実在する死神は、黒と白を好む愛らしい女性だ。
白は、靄のようにナーレスの視界を埋め尽くしたかとおもうと、その靄の中でひとつの形となって現れる。
『きらい』
久々に聞こえた声は、聞き知った女性の声に似ていた。
(当然でしょうね)
ナーレスは、白い霧の中に出現した白髪の少女を見つめながら、微笑んだ。シーラ・レーウェ=アバードによく似た少女は、ハートオブビーストのような斧槍を手にしている。その斧槍でナーレスを殺すために現れたのだとすれば、それも悪くはない気がした。
病に蝕まれ尽くした末に死ぬのも、シーラに似た少女に殺されるのも、大差はない。
もう少し生きたいという思いは踏みにじられるが、どのみち、叶わぬ願いだ。
ならばいっそ、未練ごと断ち切ってくれたほうが、嬉しい。
ナーレスは、白い霧が馬車の荷台を席巻するのを見つめながら、苦笑した。
『きらい』
そんな声が聞こえたのは、巨大獣が戦場を蹂躙し、戦そのものが台無しになってしまったあとのことだ。
バンダールの丘に築かれた本陣は、戦場そのものの北上に合わせて北へと移動していた。いや。本陣は丘の上に放置しており、本陣待機組が、全軍の指揮を行うために北上したということだ。本陣の全機能が移動しているのだから、本陣そのものが移動したといっても過言ではないが。
エイン=ラジャールを始めとする参謀局の面々しかり、王宮特務のふたりしかり、ザルワーン方面軍大軍団長ユーラ=リバイエンとその供回りしかり、戦場に突如として出現した巨大獣に面食らったものだった。アバードがそんな切り札を用意していたとは思いも寄らなかったからだったし、オリアス=リヴァイアの死がミリュウによって確定されたことで、三度、擬似召喚魔法が使われることはないと思われていたからだ。
戦場に出現した九尾の狐は、擬似召喚魔法によって呼び出されたとしか、考えられなかった。ほかに考えつくものはなにもない。皇魔の中には巨大なものもいるが、九尾の狐ほどの体躯を誇る皇魔などはいない。そんなものがいれば、都市の城壁など無意味であり、人間など、遥か昔に全滅していただろう。九尾の狐はそれほどまでに恐ろしく巨大で、凶悪で、強力だった。
ただ歩いているだけで兵を蹴散らし、尾で地上を払うだけで、数多の将兵が吹き飛ばされた。
そういった情報が飛び込んでくるうちに、その巨大獣がアバードの切り札ですらなかったことを知る。九尾の狐は、見境なしに攻撃しており、敵味方の認識がないらしいのだ。アバード兵であろうとベノアガルド騎士団であろうと、当然、ガンディアにも、シャルルムにも等しく攻撃をしかけている。
結果、戦場の混乱は加速しながらも、ひとつの方向へと収束しつつあった。
つまり、九尾の狐を打倒するために、一時休戦するということだ。休戦し、共同戦線を張るという状況になっている。軍師役を任せられたエインが命じるまもなくそのようになったのだが、軍師の目から見ても、この状況をどうにかするには、まず九尾の狐を撃破する以外にはなく、そのためには一時休戦するのもやむを得ない判断だ。
共同戦線を張るというのも正しい判断であり、適切な処置だろう。でなければ、九尾の狐と戦っている最中も、ずっと背後を気にしなければならなくなる。巨大獣との戦いさえ絶望的だというのに、さらに背後を気にしながら戦うとなると、どうしようもなくなる。
ガンディア、シャルルム、ベノアガルド、アバードによる共同戦線は、本陣が戦場に到着したときには機能していた。機能し、巨大獣との戦いが激化していた。
「俺も前線に出るべきかな?」
カイン=ヴィーヴルが尋ねてきたのは、本陣が戦場に辿り着いてからすぐのことだった。とはいうものの、彼はすでに召喚武装を呼び出し、身に着けている。失われた左腕を補う篭手と尾を生やした軽装の鎧。竜を模したような仮面も合わせて見ると、半ばドラゴンと化しているように思えてならない。
「ええ。あのような化物を相手にできるとすれば、強力無比な武装召喚師くらいでしょうし」
「じゃあ、わたしに出番はないわね」
といったのはウルだ。彼女がくだけた話し方をするのは、カインに対してのみであり、エインにいったわけではないのだろうが。
「あの九尾の狐を支配できるのなら、話は別ですが」
「やってみるか?」
「どうやって? 不用意に近づいたら殺されるだけじゃない」
「不用意に近づかなければいいのさ」
カインは、こともなげにいって見せ、ウルをあきれさせた。そんなことが簡単にできるものなら、だれも困りはしないのだ。
「試してみる価値はありますが……」
「無駄だと思うけど」
「なぜ、そう思う?」
「あなたを支配しながら、あんな巨大なものを支配できるとは思えないわ。そもそもわたしの支配は人間限定よ?」
ウルが肩を竦めて、嘆息した。
「なるほど、道理だ」
「そういえば、そうでしたね。失念していました」
エインがいうと、ウルは微笑を浮かべてきた。カインとは対象的な対応だったが、それは、逆をいえば、カインには心を許しているということだろう。
「しっかりしてくださいませ、軍師様」
「ええ、本当にしっかりしませんとね」
「そうですよ!」
「しっかりです」
「しっかり……」
部下たちに励まされながら、エインは、巨大獣を仰いだ。戦場を蹂躙していた純白の九尾の狐は、戦場の中心に屈みこむと、九本の尾を振り回し、周囲の兵士たちを尽く吹き飛ばし、殺到する無数の矢もすべて叩き落としてみせる。巨大で、素早く、とにかく圧倒的だった。
それなのに絶望感が薄いのは、ザルワーンの守護龍やクルセルクの巨鬼に比べて、攻撃が温いからだろうか。
守護龍はその攻撃で偵察部隊を壊滅させ、巨鬼は想像を絶する攻撃範囲を誇り、あやうくウェイドリッドが崩壊の憂き目を見るところだった。両方共、勝てたのは、セツナと黒き矛があったればこそである。
安心感があるのは、やはり、その両者を倒したセツナが以前にも増して強くなっているということが上げられるかもしれない。
不安があるとすれば、そのセツナが戦場にたどり着いていないらしいということだ。
セツナは、シーラとともに王宮に向かったのだ。おそらく王宮に到着し、その後、九尾の狐が出現した。セツナが九尾の狐を仕留められなかったところをみると、九尾の狐の攻撃を受け、負傷しているのかもしれない。
セツナと黒き矛ならば、たとえ九尾の狐が圧倒的な力をもっていようと、問答無用で撃破してくれるという確信がある。それができていないということは、なんらかの問題が生じているという以外には、ない。
だから、セツナの不在を別の戦力で補うしかない。
(戦力は、潤沢にある……)
《獅子の尾》に死神、王宮特務の武装召喚師がいる。戦力としては、それだけでも十分すぎるほどだ。それにベノアガルドの騎士も九尾の狐撃破には協力を惜しまないだろう。ガンディアを撃退するにしても、まずは九尾の狐を撃破しなければ、ガンディアと戦っている最中に狐に踏み潰され、蹴散らされるだけなのだ。
そんなとき、白狐の九つの尾が揺らめき、白霧が戦場を覆い始めた。九尾の狐を中心として爆発的な速度で拡散する白い霧は、瞬く間にエインたちの居場所までも包み込んだ。霧の範囲から逃げることはできなかった。どれだけ急いで交代したとしてもすぐさま包み込まれたに違いない。
『きらい』
声が聞こえたのは、そのあとだ。
声の方向を見ると、少女がひとり、立っていた。
白髪碧眼の少女は、斧槍を手にし、エインを見つめてきていた。
「シーラ姫?」
疑問を持ったのは、本物のシーラは少女という年齢ではなかったし、彼女はいま、セツナとともに王宮にいるはずだったからだ。
声は、戦場のあちこちから聞こえた。