第千四十三話 白毛九尾(四)
戦場は、一瞬にして大恐慌といってもおかしくはない状況に陥った。
それもこれも、王都に出現した新事態が原因だった。新事態とは、巨大な怪物の出現である。輝きを帯びた純白の体毛に覆われた九尾の狐。それは、王宮を壊滅させたかと思うと、王都そのものに破壊の嵐を巻き起こし、その勢いのままに戦場へと飛び込んできたのだ。
とにかく、巨大だった。
天を衝くほど、というのは言い過ぎにしても、人体の数十倍の体積を誇る巨体は、一般的にいって巨大としか形容のしようのない体躯だった。白く輝く美しい毛並みも、長いまつげに縁取られた青い眼も、長い足も、九つもある尾も、なにもかもが巨大で、ただただ圧倒されざるをえない。それほどまでに凄まじい。
しかし、ルウファはあまり衝撃を受けなかった。いや、受けなかったといえば語弊がある、王宮が瀑布に飲まれたと思った次の瞬間、巨大な白狐が出現し、あっという間にバンドールを壊滅させたのを把握したとき、驚きを通り越して唖然とした。そして、その怪物が王都の門を飛び越え、戦場の北端に降り立った時は戦慄さえ覚えた。
しかし、衝撃は、少ない。
もっともそれは巨大さに対しての衝撃であり、白狐の出現と戦場への乱入に対してのものではない。九尾の狐がその移動だけでアバード兵を蹴散らし、尾をなぎ払うだけで何百人もの兵士が吹き飛ばされるのを目の当たりにすれば、衝撃が少ないという言葉も撤回しなければならなかったが、ともかく、巨大さに対してはある程度免疫ができていたことも事実だ。
ザルワーン、クルセルクと巨大な化物を見飽きるほどに見てきている。
とくにザルワーンの守護龍の巨大さは、まさに天を衝くほどであり、ただでさえ巨大な白狐の数倍はあっただろう。比べるのもおこがましいということだ。クルセルク・リネンダールに出現した巨鬼も、そうだ。あれも都市ひとつを丸呑みにするほどの巨躯を誇り、圧倒的な攻撃力を誇った。それらに比べれば、白狐はまだ可愛い方だった。
「見た目も、どことなく可愛いですよね」
「そんなこといってる場合なのかしら。まあ確かに、ドラゴンとか鬼に比べれば、愛嬌のある方だけど」
「随分落ち着いていられるものだ」
呆れたようにいってきたのは、ロウファ・ザン=セイヴァスだ。彼は、白狐の出現後、ルウファたちとの戦いを停止していた。ルウファたちもだ。ロウファとの戦いに力を消耗するわけにはいかない事態が訪れている。彼が襲ってこないというのならば、わざわざ無駄に力を消費するようなことをする必要もない。
「あなたこそ、落ち着いているようだけど?」
ファリアが横目にロウファを見た。確かに、ロウファは周囲の騎士団兵士やガンディア兵たちよりもよほど落ち着いた態度をしていた。落ち着き、冷静に状況を見ている。
「ようやく落ち着いたといったところだ」
彼は、臆面もなく言い放ってきた。九尾の狐の出現に慌てふためいたということを隠そうともしない。ルウファは、彼のそんな態度に好感を抱いた。敵でありながらも情報の提供を要求してくる厚かましさにも、だ。
「あれがなんなのか、見当はつくか?」
「敵のあなたに教える義理があって?」
「ないな。だが、いま、敵がどうだの、味方がどうだの、いっている場合ではないだろう?」
「……そうね」
ファリアが納得したのは、九尾の狐がアバード軍の味方をするわけでもなければ、ガンディア軍、シャルルム軍の援護をする様子もないからだ。
等しく蹂躙している。
蹂躙。まさに蹂躙だ。九尾の狐が軽く移動するだけで何人、何十人の兵士が踏み潰されたり、蹴り飛ばされたりした。屈み込み、尻尾を振り回せば、それだけで百人単位で兵士が吹き飛ばされた。アバード兵だけではない。騎士団兵も、シャルルム兵、ガンディア兵もその攻撃に巻き込まれていた。その圧倒的な力の前に為す術もなかった。通常戦力ならば、そうもなろう。武装召喚師でさえ、あの質量を相手にすれば、まともには戦えまい。
守護龍や巨鬼がそうだった。
「おそらくは、擬似召喚魔法」
「擬似召喚魔法? なんだそれは」
「かつて聖皇ミエンディアが駆使したとされる召喚魔法を再現したもの、といったらわかるかしら」
「……そんなだいそれたことが人間にできるものなのか?」
「ええ。それができた人間を知っているわ。ガンディアは、そのたった一人に苦しめられた」
「ほう」
「もっとも、彼はとっくに死んでいたようだけれど」
ファリアが声を顰めて、いった。大きな声でいえなかったのは、心苦しかったからに違いない。擬似召喚魔法の使い手にして、たったひとりでガンディアを苦しめたオリアス=リヴァイアは、ファリアと姉妹のように仲がいいミリュウ=リヴァイア(あるときからそう名乗っている)の実の父だ。ミリュウはかつてオリアスを殺したいほど憎んでいたが、結局は殺せず、再会の時を待っていた。だが、再会はかなわず、彼女は、実家でオリアスの死を知ったという。その話を聞いたのは、一ヶ月以上前のことだ。それ以来、ミリュウの人柄が変わったように思えるのは、きっと気のせいだろうが。
「では、ほかにも使い手がいたということか」
「おそらく、ね」
「しかし……妙だな」
ルウファは首を傾げた。
「ええ」
「あれが擬似召喚魔法なら、アバードの切り札なら、なんでまた王宮や王都を破壊するんだろ」
アバード・ベノアガルド軍を蹂躙していることも、そうだ。
あれが本当に擬似召喚魔法によって召喚されたというのならば、ガンディア軍とシャルルム軍にのみ牙を剥くはずではないのか。
「つまり、擬似召喚魔法ではない、ということだろう」
「じゃあなんなのよ」
「わたしにわかるわけがないだろ」
「期待したわたしが馬鹿だったわ」
「期待してもいないくせに、そのようなことをいうものではないな」
ロウファの冷ややかな言葉に、ファリアは肩を竦めてみせた。取り付く島もない。
もっとも、ロウファはそんなファリアの態度を見て見ぬふりをしたようだが。
「ともかく、一時休戦といこう。まずはあれをどうにかしなければ、この戦場にいる全勢力が壊滅するだけだからな」
「そうね。そうする以外はないか」
「じゃ、そういうことで、行きますか」
ルウファは、白狐を見やった。巨大獣は、戦場北部から中央部へと移動をはじめている。移動するだけで大騒動だった。兵士たちが次々と蹴散らされ、悲鳴が上がっていた。狂乱の中で巨大獣に突撃するものもいたが、なんの意味もない。巨大獣は、矢を射られても、剣で斬られても、槍で突かれても、動きを止めるどころか、表情ひとつ変えなかった。痛みさえ感じていないかのようであり、実際そのとおりなのだろうと思うしかなかった。
すると、ファリアがにこやかに視界に入ってくる。
「ええ、よろしく」
「よろしく」
「ええ!?」
ルウファが愕然と声を上げたのは、ロウファが話に入ってきたからだが。
「高速移動はあなたの十八番でしょ?」
「ですけど!」
「だったら、うだうだいっていないで、飛んで見せたらどうだ?」
「くっ……なんで敵に偉そうに命令されなきゃならないんだ……!」
悪態を付きながらも、ルウファは、ほかに方法はないとも思っていた。九尾の狐の元に直行するのならば、地上を走るよりも空中を移動するほうが遥かに早い。跳躍力こそ凄まじいロウファだが、飛行能力など有してはいないのだろう。彼がルウファを頼ってきたということは、そういうことだ。
ルウファはシルフィードフェザーを展開すると、風力を全開にした。ふたりを運ぶのだ。オーバードライブの使用も考えたが、止めた。オーバードライブは一分しか持たない。そのあとはただの役立たずに成り果てる。化物の戦いとの最中役立たずになれば、足を引っ張るだけだ。この状況で足を引っ張ることなどできるはずもない。
「振り落とされても知りませんからね。特に偉そうな騎士の方!」
「ああ、振り落とされたら君のせいということだな」
「なんでですか!?」
悲鳴を上げながら、飛んだ。左手にファリアの手を、右手にロウファの手を握り、飛翔する。恐慌状態に陥った兵士たちの頭上を飛び越え、一直線に巨大獣へと向かう。純白が視界を撫でた。暴風が世界を揺らす。尾だ。九本の尾のひとつが眼前を過ぎったのだ。冷や汗が流れる。一瞬でも早く飛んでいれば、巻き込まれて吹き飛ばされていたかもしれない。
尾が通りすぎたとき、白狐がこちらを見ていた。
青い眼。
その瞳の奥底に、深い悲しみが見えた気がした。
『きらい』
声は、頭の中に響いた。
シーラのことを思い出したのは、きっと気のせいではあるまい。
そんな確信の中で、ルウファは撃ち落とされていた。
巨大な白狐の出現は、戦場をさらなる混乱で包み込んだ。いや、混乱などという生易しいものではない。混沌。まさに混沌という言葉こそ相応しいような状況が、王都バンドール近郊の戦場に生まれていた。
人間の身長の数十倍はあるであろう巨躯を誇る化物が王都を蹂躙したのち、戦場に飛び込んできたのだ。兵士たちが混乱するのもわからなくはないし、恐慌状態に陥ったとしても、なんら不思議ではない。何万もの皇魔を相手に果敢にも挑み、戦い抜いたガンディアの将兵であっても、そうならざるをえない。皇魔とは比べ物にならないほどの体躯だった。その体積だけでも凄まじいというのに、長大な尾が九本もあり、それぞれが独立した動きを見せた。変幻自在に戦場を蹂躙し、アバード、ベノアガルド、シャルルム、ガンディア――所属国関係なく、白狐の周囲にいるものはすべて吹き飛ばされた。
近寄りようがない。近寄れば吹き飛ばされ、近づこうとしても弾き飛ばされる。近接武器で攻撃しようと思えば、白狐のほうから近づいてくるのを待つしかないが、それで運良く攻撃できたとしても、次の瞬間には蹴り飛ばされるか、尾で薙ぎ払われているだろう。となれば、遠距離から攻撃するほかない。各軍の弓兵たちがつぎつぎと巨大獣に向かって矢を射た。的は巨大。外しようがない。射程距離にさえ入ることができれば、まず間違いなく弓射はあたる。
だが、当てたところで意味があるのかは、わからない。
少なくとも、九尾の狐は、その反応、表情から痛痒さえ感じているのかわからなかった。何十本、何百本の矢が刺さったところで、痛くも痒くもないとでもいうのかもしれない。
ミリュウは、その巨大獣を見上げながら、憮然とした。
「なんなのよ、あれ」
巨大な怪物といえば、ザルワーンの守護龍とリネンダールの巨鬼が思い浮かぶ。どちらもオリアス=リヴァイアが召喚したものだ。擬似召喚魔法。その全貌はともかく、輪郭は朧気にわかっている。人間の血を媒介に行う召喚魔法であり、故に完全な召喚魔法ではないのだ。
ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンの召喚魔法が、なんらかの犠牲を要したという話は伝わっていない。少なくとも、ミエンディアが神々を召喚した際、都市のひとつやふたつ消滅したという伝承も伝説も残っていないのだ。消耗したとしても、ミエンディア本人の精神力程度だったのではないか。故に、オリアスの召喚魔法は不完全であり、彼も自嘲していたようだ。それでも異世界の存在を召喚することに成功したという意味では、オリアスは聖皇に一歩近づいたといえるのではないか。
そして聖皇に近づくこともまた、聖皇の呪いを解くための一歩といってよかったのだ。聖皇に近づくことができれば、呪いを解く方法が見つかるかもしれない。オリアスはそんなふうに考えながら、召喚魔法の研究に没頭したのだろう。もっとも、出来上がったのは不完全な代物であり、とても人間に制御できるものではなかったようだが。
ミリュウは、頭を振る。いま、戦場を蹂躙している巨大獣は、擬似召喚魔法によって呼び出されたものではない。なぜならば、王宮も王都も、巨大獣の出現後、巨大獣によって蹂躙され、破壊されたのだ。召喚の媒介として消滅したわけではない。五方防護陣やリネンダールとは違うのだ。それはつまり、オリアスの考案した不完全な召喚魔法とはまったくの別物と考えていい、ということだ。
だから、ミリュウは頭を悩ませる。リヴァイアの知を紐解こうにも、記憶の奥底に沈殿した情報を引きずり出すことは困難だった。そして、そんなことをすれば、自分の怪物化が加速するということもわかっている。だから、二の足を踏む。
「なんなのでございましょう?」
「ありゃあ、化け物だな」
そういってきたのは、ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートだ。筋骨隆々の巨躯を誇るベノアガルドの騎士だが、九尾の狐に比べれば可愛いくらいに小さい。それは、ベインに限った話ではないし、ミリュウたちも等しく小さいということなのだが。
ミリュウは、ベインを睨んだ。彼とは、白狐の出現まで命のやり取りをしていた間柄だ。いまも、気を抜けば殺されるのではないかという恐れはある。が、それはそれとして、いわざるをえない。
「見ればわかるわよ、それくらい! あたしが知りたいのは、あの化け物がどうやって現れ、なにを目的としているかよ」
「おう、そうか。それは俺にもわかんねえな」
「まったく、役に立たないわね!」
「そりゃすまねえ」
なぜか謝ってきたベインに対し、ミリュウは腕組みをしながらそっぽを向いた。レムがなにやら嬉しそうな声を上げてくる。
「あらあら、どういうことでございましょう」
「なによ」
「なんとも仲の良さそうなおふたりで」
「はあ!?」
「そうだろ? 戦いはときに友情を育むんだぜ」
「なるほど。そうして育まれた友情が愛情へと昇華されたのでございますね。納得いたしました」
にこやかに納得するレムに対して、ミリュウは声を荒げるほかなかった。
「ひとりで勝手に結論づけて納得してるんじゃないわよ! あたしがなんでこんな筋肉バカと愛情を育まなきゃなんないのよ! あたしの愛はセツナにのみ注がれるのよ!」
「まあ、残念」
「なにが残念なのよ! まったくもう!」
「そんなに怒ってると、その愛しのセツナ様に嫌われるぜ」
「大きなお世話よ!」
「ま、そりゃそうだ」
ベインが肩を竦めた。その穏やかな反応には怒りを覚えざるを得ないのだが、ここでまた怒りをぶつけると、なんといって冷やかされるのかわかったものではない。それが馬鹿げたことだという自覚があるのか、ベインが話題を変えてきた。
「だが、あれの目的なんてどうだっていいんじゃねえのか? 問題は、あれがこの場にいるだれの味方でもなさそうだ、という事実の方だ」
「確かに……お狐様がアバードの切り札でしたなら、アバードや騎士団の皆様方と敵対するはずもございませんものね」
「ああ。それに、アバードの切り札なら、俺らに知らせておくべきだ」
「それ、単純に信用されてなかっただけじゃないの?」
「あん?」
「救いだなんて胡散臭いこといってるから」
「はっ」
彼は、口辺に笑みを浮かべた。
「胡散臭い、か。確かに、そう思うのも無理はねえ。最初は、俺も同じだったよ」
ミリュウは、ベインの言葉に少しばかり驚きを覚えた。まさかベインがミリュウの考えを認め、そんな風にいってくるとは思ってもいなかったからだ。救済を掲げる騎士団の幹部を務めるほどの人物だ。もっと凝り固まった考えの持ち主かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。意外と柔軟な思考をしているようだった。
よくよく考えて見れば、彼の頭が柔軟なのはわかることだったが。ミリュウやレムとのやり取りにしてもそうだ。騎士団の主義に染まっているのならば、あのようなやり取りをするわけもない。レムの言葉に乗ってくることもなければ、ミリュウを諌めようともしないだろう。
「が、違った。本気なんだよ。本気で、救うために戦ってるのさ。騎士団――特に団長閣下はな」
「だったらこの戦場でも人々を救ってみたら?」
ミリュウが半眼を注ぐと、ベインはこちらを見て、不敵に笑った。
「そうしたら、少しは信じてあげるわ。あんたたちのお題目」
「いってくれるじゃねえか。俄然、やる気が出てきたぜ」
「ベイン様は、ミリュウ様に惚れられたようで」
「そんなんじゃねえよ。俺ァ、命をかけてる人間が好きなだけさ」
ベインは、恥ずかしげもなく告げると、ミリュウたちに背を向けた。大きな背中がより大きく見えたのは、彼の実力を理解し、考え方の一端が伺えたからかもしれない。人間性の一部を伺い知れたことは、大きい。知れば知るほど嫌いになる人間もいれば、その逆もまた、然りだ。
もっとも、ミリュウが他人に好意を抱くことなど、そうあるものでもない。
彼女の世界はいまも、セツナを中心に回っている。
と、レムが大鎌を新たに影から取り出すと、ミリュウの横に並んだ。レムが何度目かに取り出した鎌は、ベインの拳によって破壊されてしまったのだ。“死神”同様、たった一撃で破壊されてしまった。レムの大鎌が脆いわけではない。“死神”が弱いわけではない。単純にベインの攻撃力がいかれているだけのことなのだ。いかれているとしか言いようのない破壊力。ラヴァーソウルの刃片もいくつか破壊されている。おかげでラヴァーソウルの全力を引き出すことは不可能に近い。
「では、わたくしは仲間はずれでございますね」
「あん? あなただって、命がけだろ」
「わたくしの命は軽いので」
「なにをいってんだか。命に軽重なんてものはねえよ」
ベインは、レムの発言を一笑に付した。
「等しく同じ命だ。あの化け物だって、な」
ベインが見やった先で、九尾の狐が、その場に屈みこんでいた。不意に九つの尾が大きく振り回される。猛然と、豪快に。その一薙ぎで、九尾の狐の周辺は更地も同然になる。数多の矢が飛ぶ。それらの尽くも、つぎの一振りで払い落とされた。
九尾の狐が、こちらを一瞥した気がした。
遠方。それでも、その青い眼はよく見えた。青く透き通った目。瞳の奥底に絶望を抱えた目。絶望したものにだけ、わかる。絶望を知っているから、絶望の色がわかる、というべきかもしれない。
『きらい』
声が聞こえて、ミリュウは愕然とした。
「シーラ……?」
九つの尾が、まばゆい光を放った。