第千四十一話 白毛九尾(二)
激しい震動があって、衝撃が世界を揺らした。
天地がひっくり返るような騒ぎだった。いや、騒ぎなどという生易しいものではない。世界の終わりがきたのではないかというほどの激変があった。なにもかも破壊され尽くし、なにもかも奪われ尽くした。壁が壊れ、柱が折れ、天井が崩れ落ちてきた。あっという間に世界は暗闇に閉ざされた。押し潰され、死んだかと想った。だが、生きていた。意識があり、呼吸もできる。体の節々が痛がっているもの、それは、手足をどこかにぶつけた程度の痛みであって、泣き出すほどのこともなかった。
この程度のことで泣いていては、一国の王など務まらない。
セイル・レウス=アバードは、全身を苛む痛みをぐっと堪えながら、ある教えを思い出していた。
『その程度の傷で泣いてはいけませんよ、王子殿下』
王宮の中庭で転んでしまい、痛みのあまり泣き出したことがある。そのとき、彼にすぐさま駆け寄ってきて、抱き起こしてくれた人物が発した言葉が、それだ。優しくも厳しい声音は、彼が彼女に憧れる理由のひとつでもあった。
『殿下は、いずれ、王となって、この国を背負っていかねばならないのです』
『王は、人前で涙することも許されないのですか?』
涙を拭いながら問いかけた。
自分が王になることに疑問はなかった。王になるのが運命だったからだ。生まれ落ちたときから、そう定められていた。姉であり王女である彼女ではなく、自分が王位を継ぐ。そのことは、物心ついたときには、理解していた。理解したからこそ、彼女のような人間になりたいと想ったのだ。姉こそ、王に相応しい人格と品格の持ち主だった。
『はい、殿下。それが国王の務めなれば……』
それから、セイルは、ちょっとした怪我程度では泣くことはなくなった。それもこれも、憧れの姉に一歩でも近づき、追い抜くためだった。
シーラ・レーウェ=アバード。
彼の憧れであり、目標であり、最愛のひとだった。
「殿下!? 殿下! ご無事ですか!? どこにおられるのです!?」
侍従長の大袈裟なまでの声は、いつも以上に悲壮感に満ちていた。なにをそこまで泣き叫ぶことがあるのか。それでは、王にはなれない――などと思いながら、彼は暗闇の中を這った。天井が落ちてきたのだ。幸運にも押し潰されなかったものの、ここから抜け出せるかどうかはわからない。泣かずに済んだのは、姉の教えがあったからだが、泣いたほうが、侍従長には安心感を与えることができたのかもしれない、とも思う。泣き声は、生きていることの証だ。そこで、彼は思い至って口を開いた。
「ぼくはここだよ、レーウェル」
「おおっ!? 殿下!? 無事だったのですね!? 良かった! 本当に良かった!」
過保護な侍従長は、シーラとは真逆の教育方針であり、セイルがシーラを目指す上では厄介極まりなかった。レーウェウ=ロンド。アバードの有力貴族ロンド家の出身である彼は、シーラが幼いころの侍従長でもあった。セイルが生まれ、シーラが王子を辞めたときからセイル付きの侍従長となった。つまり、王子の専属、ということだろう。
「王子はこの瓦礫の下におられる! いますぐ撤去せよ!」
「はっ!」
レーウェルの命令に複数の兵士が声を上げたのが聞こえた。なんとも頼もしく、心強い声だった。
そうして、セイルは瓦礫の下から救い出されたのだが、瓦礫の下の暗闇から解放されたセイルは、視界に飛び込んできた光景に呆然とせざるを得なかった。驚愕するとか、衝撃を受けるとか、そういったことを飛び越して、呆然とするしかない。それほどの状況になっていた。
王宮が完全に失われていた。
アバードが誇るバンドール王宮が跡形もなく潰えていた。柱も壁も天井も、王宮を構成していたすべてがただの瓦礫と成り果て、そこら中に散らばっている。その瓦礫の多くも粉々に破壊され、塵ひとつ残っていないというのは言い過ぎにしても、瓦礫の山にさえなっていない。平だ。それこそ、なにもないといってもいいくらいだった。
なにもかも、なくなっていた。
セイルは、はっとした。
「父上、母上は!?」
セイルの父にしてアバード国王リセルグ・レイ=アバードと、母にしてその后セリス・レア=アバードは、ある報告があったのち、セイルのいた部屋から出て行ってしまった。それは、彼の姉であり、もっとも尊敬する人物であるところのシーラ・レーウェ=アバードが、ガンディアのセツナとともに王都への侵入を果たしたというものだ。
シーラ。
彼の敬愛する姉は、あるときを境に敵に回ってしまった。敵だ。敵。王位継承権の復活を求めて、アバード王家と敵対したのだ。セリスや叔父のイセルド、周囲の声を総合すれば、そういうことになる。クルセルク戦争での活躍と評価を受けて、増長したのだろう――王宮のひとびとは、苦い顔でそういっていた。それが事実なのかはわからないし、シーラ本人からそんな話を聞いていない以上、セイルは深く考えないようにしていた。
信じられなかった。信じたくなかった。シーラは、だれよりもこの国を愛し、この国のために戦ってきたひとりだ。王女でありながら、王位継承権を持っていないという理由で、率先して戦場に赴き、だれよりも敵を屠り、だれよりも血を流させた。みずからも血を流した。アバードのために身を粉にし、骨を砕いてきたのだ。それもこれも、アバード王家を愛し、臣民を愛し、国を愛していたからだ。そのようなひとが、戦争での活躍を評価されたからといって、態度を豹変させるだろうか。
王位継承権の復活を望むだろうか。
セイルには、シーラ自身が望んだこととは思えなかったし、だからこそ、シーラに逢いたいと想った。逢って話しあえば、それで解決するのではないか、という気さえした。
それに、セイルは、シーラが王位を継承しても構わないという想いもあった。シーラは、彼の中では英雄だった。シーラ以上にアバードを導くに相応しい人物はいないとまで想っていた。シーラにその気があるのなら、王位継承権を譲ってもいいとさえ考えていた。シーラが女王になり、セイルがその補佐を務める。なんと素晴らしい世界だろう。
だが、そんな世界は失われた。
シーラが己の派閥とともにタウラルに篭もり、アバード政府との対立を深刻化させたからだ。内乱だった。内乱は急激に悪化し、シーラ派の軍勢と王宮軍がエンドウィッジにて激突した。激戦の末、勝利したのは王宮軍であり、シーラは捕縛され、王都に移送された後、セイルの知らぬところで処刑された。セイルは、処刑の報告だけを聞いた。彼はリセルグに詰め寄ったが、リセルグはなにもいってくれなかった。教えてくれなかったのだ。処刑したシーラが偽物で、本物はどこかで生きている、ということも、なにもかも、
セイルはそれ以来、茫然と日々を送った。シーラが心の支えであり、目標であり、夢であったからだ。そのシーラに裏切られた末、夢見た再会の機会までも失われてしまった。失意の中を漂うしかない。
それからしばらくの後、シーラの生存が公表された。
が、セイルは喜んでいいのかわからなかった。シーラは、ガンディアのセツナとともにセンティアの闘技場を急襲し、公開処刑を台無しにするという暴挙に出たからだ。セイルとしても、公開処刑の無意味さを嘆いていたから、それに関しては特に思うことはない。問題は、シーラがガンディアの英雄と行動をともにしていたことだ。
王宮は、シーラに売国奴の烙印を押し、責め立てた。
英雄は堕ち、売国奴と成り果てた。
セイルは、なにも信じられなくなった。シーラのことも、国のことも、周囲のことも、なにもかも、信じられず、日々を過ごした。
そして、今日。
シーラを御旗と掲げるガンディア軍との決戦が行われた。アバードの勝利条件は、ガンディア軍、シャルルム軍の撃退か、あるいは、シーラの死であった。シーラが死ねば、ガンディアが戦う意味がなくなるというのだ。大義が失われれば、いかにガンディアとて戦闘の続行を諦めざるを得ない。ガンディアが退けば、それに便乗していたシャルルムも軍を退く。それが、アバードの勝利となる。
だからだろう。
セイルは、アバード軍とベノアガルドの騎士団を応援することもできなかった。
やはり、シーラはシーラだ。彼が敬愛して止まないアバードの英雄なのだ。売国奴の烙印が押されていようと、彼にとって姉は、最愛の人であり、この世で唯一の目標だった。その死を望むことなどできない。
だからといって、アバードに負けてほしいというわけではない。
アバードが負けるということは、この国が失われるということにほかならない。ガンディアの主張を受け入れるしかなくなるのだから。
それは、できない。
シーラこそ王位に相応しいとは想ってはいるが、他国の介入によって、それを認めることなど、国の主権を踏みにじられるも同然であり、認めることはできない。
たとえこの国が灰燼と化しても、拒絶しなければ、ならない。
廃墟と化した王宮の中をかけながら、彼は、拳を握った。体の節々が痛むが、我慢できた。泣かない。涙は出さない。こんなときに泣いては、周囲の不安を煽るだけだ。ひとの上に立つものは、常に毅然とした態度でなければならない。シーラの教えは、いまもセイルの指針となっていた。
視線を巡らせた。
なにもかもが破壊された空間で、瓦礫の底からつぎつぎと王宮関係者が救助されている。レーウェルによれば、怪我を負っているものこそいるが、死者が出た様子はないという。王宮が跡形もなく崩壊し、すべてが瓦礫の下敷きになったというのに、不思議な事もあるものですな、とはレーウェルの言葉だが。
そんなことがあるのだろうか。
セイルは、だれかに守られている気がしてならなかった。
やがて、玉座の間があったはずの場所に辿り着き、彼は、今度こそ愕然とした。
「父上!? 母上!?」
声が掠れたのは、衝撃が強すぎたからだろう。
玉座の間も、王宮のほかの部分と同様、跡形もなく破壊され尽くしていた。天変地異にでも見舞われたのではないかと思うほどの惨状だった。そんな空間の中で、わずかに生まれた空隙がある。まるでそこだけ瓦礫が落ちるのをためらったかのように、空間が確保されている。
セイルは、駆け寄って、その勢いで転けそうになりながら、それでもなんとか踏みとどまって、駆け抜けた。そして、辿り着いて、声を失う。
リセルグと、セリスが横たわっている。最初にわかったのは、それだ。なぜ廃墟の中で眠るように横たわっているのか、見当もつかなかった。いや、わかっていても、わかりたくなかったのだろう。思考停止して、理解を拒絶した。
駆け寄れば、認識し、理解せざるを得なくなる。
ふたりは、死んでいた。リセルグは腹に矢を受け、セリスは胸に短刀を突き刺している。血が、止めどなく流れたらしい。ふたりの衣服も体も床も、真っ赤に塗り潰されていた。
セイルがその場に崩れ落ちたとき、声が聞こえた。
「シーラだ……」
声の主は、イセルドだった。イセルド=アバード。リセルグの実弟であるアバード王族のひとりは、昔から、セイルのことをよく見てくれていた。
そんな彼がこちらではなく、まったく別の方向を見ていることに気づき、セイルもそちらを見やった。王宮の南方、つまり、王都の方面だ。
「姉上……?」
王都を蹂躙する巨大な獣が、視界に飛び込んできた。
白毛の九尾の狐。
イセルドは、まるでその化物こそがシーラであるかのようにいい、故に、セイルは言葉を失った。
九尾の狐は、王都を徹底的に蹂躙した後、バンドールから消えた。