第千四十話 白毛九尾(一)
白毛の九尾の狐が王都を破壊し尽くすのに時間はかからなかった。
それこそ、あっという間といっていい。
全長数十メートルの巨体だ。移動するだけで破壊が起きる。長大な九つの尾を振り回せば、それだけで周囲の建物は薙ぎ倒され、あらゆる建造物は抵抗することさえできず倒壊した。王都中から悲鳴が上がった。恐慌が起き、混乱が加速した。当然だ。化け物が現れ、都市を蹂躙したのだ。いや、王宮が崩壊したときから混乱は始まっていたはずであり、セツナがそれに気づいたのは、九尾の狐が王都に降り立ち、意識をそちらに向けることにならざるを得なくなったからだ。
「なんだ……いったい……なにが……」
声に目を向けると、壊れた玉座の近くに倒れていたイセルドが起き上がろうとしているところだった。玉座に座っていた彼は、九尾の狐の出現とともに玉座もろとも吹き飛ばされたのだろう。玉座はもはや玉座とはいえない残骸と成り果てているものの、イセルド自身の外傷は少ない。気を失っていたのは、吹き飛ばされ、壁にでも激突した衝撃によるものだ。
「これは……いったい……いったい、どういうことだ!?」
更地同然と成り果てた王宮の状況を理解したのだろう――イセルドは、絶望的なまでの悲鳴を上げた。悲鳴を上げ、頭を抱えて凍りついた。彼にはきっとなにが起こったのか理解できないだろうし、理解できないまま事態は推移するはずだ。理解させる必要もない。
セツナは、イセルドを黙殺すると、ラグナを肩に乗せた。セツナは兜を被っている。頭の上の定位置には乗せることができない。兜の上でも一向にかまわないのだが、ラグナが気に入らないらしい。どうやら安定しないようだ。ラグナは、肩に飛び乗ると、首を伸ばしてセツナの顔を覗き込んできた。
「どうするつもりじゃ?」
「シーラを止める」
「止める? どうやって止めるというのです?」
シドの問いかけの意味がわからず、セツナは彼を一瞥した。雷光の騎士は、いつになく冷ややかな目でこちらを見ていた。
「なに……?」
「あの破壊を撒き散らす化物を止めるというのでしょう? 当然、殺すんですよね?」
「殺す……?」
「ほかに方法があるわけでもございますまい」
恭しい言い方は、慇懃無礼といったほうが正しいように思えたが。
セツナはなにも言い返さなかった。方法などいくらでもある、と言い返そうとしたが、思いついてもいない以上、なにをいったところで負け惜しみにしかならない。黙殺し、シドの横を抜ける。王都に向かわなければならない。王宮は更地とかしている。王都まではただまっすぐ進めばよかった。
「シーラ姫がそれを望んでいるとしても、ですか?」
「馬鹿なことを」
振り向くと、シドの目に射竦められた。鋭い視線は、セツナの胸中の考えを見透かすかのようであり、決して気分のいいものではなかった。が、すぐにはそらせない。そらせば、負けだ。そんな気分になる自分が嫌になる。負けたからなんだというのか。
「あなたにならわかるはずです」
「うるせえ」
「シーラ姫がなぜ、このような行動に出たのか。なぜ、王宮を破壊し、王都を破壊しているのか。あなたになら、理解できるはずです」
「黙れ……」
「シーラ姫は、殺されようとしているのです」
「黙れよ!」
「都合の悪いことには耳を塞ぐ――それがガンディアの英雄様ですか」
シドは、呆れ果てたようにいった。そして、剣を一振りする。刀身に纏わりついている雷光が一層激しく輝き出す。熱量が上がっている。地を蹴った。セツナの視界から消える。声だけが、遅れて聞こえてきた。
「ならば、わたしがシーラ姫の魂を救いましょう」
「させるかっての!」
セツナは、即座にシドを追った。雷光が尾を引いて、彼の移動経路を視界に刻む。複雑な軌道。直線的な移動ではないのは、セツナの追撃を嫌ったからに違いない。セツナは、直線に対しては強力な遠距離攻撃手段がある。シドはそれを警戒した。だから、セツナは彼に追いつくことができた。セツナは、直線軌道でいいからだ。
「シーラ姫が死を望んでいる!」
「ひとの気持ちを勝手に理解した気になってんじゃねえよ!」
叫び、シドの進路に飛び出しながら、結局のところ、彼の言い分のほうが正しい気がして、彼は途方に暮れた。
ほかに考えようがなかった。
シーラがなぜハートオブビーストの能力を開放し、王宮のみならず王都を蹂躙したのか。ほかに説明がつかない。王宮を破壊したあと、じっとこちらを見ていた理由もそれで説明ができた。セツナが攻撃するのを待っていたのではないか。セツナならば、義憤にかられて攻撃してくると想ったのではないか。
シーラの姿のままならば攻撃できなくとも、身も心も化物に成り果てれば、どうか。
シーラがそこまで考えて変異したのかはわからない。
だが、シーラがセツナに殺されたがっているのだけは、わかる。
そういう人間がほかにもいるからだろう。
『絶対、殺してよ』
(ミリュウ……!)
シドの斬撃を受け止め、腹に蹴りを叩き込んで、王都を見やる。王都の南方へと移動する巨獣は、移動しながら、破壊を撒き散らしていた。歩くだけで破壊をもたらし、さらに九つの尾が縦横無尽に動き回っているのだ。王都が灰燼と化すのも時間の問題だった。被害者は増える一方だ。悲鳴や罵声、怒号が飛び交っている。王都のひとびとは王宮から現れたあの化物の正体こそわからないものの、それが破壊をもたらす存在だということは理解している。理解しているからこそ、逃げまわり、泣き叫び、救いを求めるのだ。
やがて、王宮の区画を抜け、王都へと至る。王宮と王都を隔てる城壁も完膚なきまでに破壊されており、衛兵たちも倒れていた。倒れてはいたが、死者は見受けられない。瓦礫に押し潰されて死んだものがいたとしても不思議ではないのだが、セツナが見た範囲では、死者は、いない。負傷者は多数いる。しかし、死に至るほどの深手を負ったものは、見受けられない。まるで不思議な力に守られているかのように、だ。
しかし、王都バンドールが絶望的なまでの災厄に襲われていることは否定出来ない。災厄は意思を持ち、移動する怪物である。天をつくほどに巨大な化物。それはただ歩き、尾を振り回すだけで、壮麗な都市を瞬く間に廃墟へと変えていった。
白毛の九尾の狐。
その質量だけで凄まじい力を持っていることが実感として理解できる。が、召喚武装の能力だ。ただ圧倒的な質量と力を持っているだけではあるまい。なにかしら特異な能力を駆使したとしてもおかしくはないし、むしろ、そのほうが自然に思えた。
「黒き矛の力ならば、あの怪物を殺すことも簡単でしょうに」
「じゃろうな」
ラグナがシドの言葉を肯定したことに、セツナは口辺を歪めた。ラグナは、至って冷静だった。ドラゴンだからなのか、それとも、元々そういう性格だからかはわからないが、その冷静さが憎たらしい。セツナは、自分が冷静ではないということを認識しているから、余計に腹立たしく思うのかもしれない。
「そうかよ」
「わしを殺せたのじゃ。あやつを殺すことも、不可能ではあるまい」
ラグナはそんなことをいってきたが、セツナはなにも言い返さなかった。そういうことではないのだ。そんなことを問題にした覚えはない。殺せる殺せないの話など、問題ではないのだ。確かに、九尾の狐を殺すことは、必ずしも難しいことではあるまい。たとえ九尾の狐が強力な能力を隠し持っていたとしても、黒き矛の力を最大限駆使すれば、殺しきることは可能だろう。ラグナがそうだった。絶大な再生力を持つワイバーンを破壊し尽くし、殺し尽くした。同じ方法で斃すことは、不可能とは思いがたい。
「殺したくないのじゃな」
「当たり前だろ。シーラだぞ」
「しかしのう……殺さねば、止められぬかもしれぬぞ?」
「約束したんだよ」
セツナは、廃墟と化した王都を突き進みながら、並走するシドを一瞥した。彼は、飛ばない。飛べばセツナに撃ち落とされることを理解している。おそらく隙を伺っているのだが、セツナは隙を見せるつもりもなかった。シーラを殺させる訳にはいかない。
「シーラは俺が護るって、約束したんだ」
「じゃがな……セツナよ」
「……わかってるよ」
シーラが死を望んでるということくらい、セツナにわからないはずがない。
「わかってるさ」
これみよがしの破壊がその証明だ。
セツナの目の届く範囲で破壊を撒き散らしているのが、それだ。ただの感情の発露ではない。怒りをぶつけているわけでも、絶望を癒やすために力を振り回しているわけでもなければ、力に振り回されているわけでもない。冷静に、破壊を行っている。建物を破壊し、道を破壊し、壁を破壊し、なにもかも破壊し尽くしていく。
破壊の権化。
このまま止めなければ、殺さなければ、なにもかも破壊してしまうという意思表明。
止めて欲しがっている。
殺して欲しがっている。
そうでもしなければ、死ねないから。
そうでもしなければ、殺してもらえないから。
「それでも俺は……俺には、できねえよ」
できないからといって、だれかに任せようとも思わない。
シドに委ねれば、一瞬だろう。おそらく、彼にも殺せる。彼がラグナを殺せたかはわからないものの、シーラを殺すことくらいならできるだろう。おそらく、だが。
シーラは、死にたがっている。
殺されたがっているのだ。
殺しにくる相手は、セツナである必要はあるまい。
そのとき、九尾の白狐が足を止めた。セツナたちからすれば遥か前方――王都の正門目前で、だ。唐突に動きを止めたことで、セツナは警戒して、彼も足を止めた。シドも、その場で動きを止めている。なにをしてくるのかわからない相手には、警戒してしすぎることはあるまい。
殺すにせよ、殺さないにせよ、白狐の攻撃にやられるわけにはいかないのだ。
「なんじゃ?」
ラグナが疑問を浮かべたとき、白狐がその場に屈みこんだ。九つの尾がゆらめき、視界が純白に染まった。